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麒麟がくるまで待てない!【合戦場の地形&地質vol.1】桶狭間の戦い②

トップ画像は「愛知県の公式観光ガイド Aichi Now」より引用

歴史上の合戦を地形&地質の観点から見ていくシリーズ。第一弾の「桶狭間の戦い」②です。①はこちらからどうぞ!
前回はキーとなる場所の位置関係を現代の地図に重ねるところまででした。もう1度見てみましょうか。
高速道路や国道・県道が密集した大都会!地元の人は「はいはい、分かります!」って感じなのでしょうね。
ちなみにこれらの場所はみんな公園になってたり史跡として石碑があったりしますので、地元人には馴染みなのでしょうね。

城配置図

スーパー地形(カシミール3D)より
なおカシミール3Dは元データとして国土地理院の「電子国土」を使っているそうです(出典:国土地理院ウェブサイト
※以下の地形・地図画像すべて引用もとは同じです。

では、行ってみましょう!

地形だけで見る

道路や地名を取っ払い、地形だけで見てみます。

城配置図_地形

これを見て真っ先に思ったのは、織田VS今川の最前線が、見事に地形の境界部だったことです。
灰色~薄紫色の部分は標高が0~10mくらいの、いわゆる沖積平野です(※詳しくはコチラ)。
国土交通省木曽川下流河川事務所のホームページによりますと、濃尾平野の主要3河川の木曽川(きそがわ)長良川(ながらがわ)揖斐川(いびがわ)は網の目のように流れ、頻繁に洪水がおこっていたそうです。
【地元再発見の小旅行vol.1】宮城県北部北上川の歴史:本編でお話ししましたが、こういう場所は治水工事をして水をある程度コントロールできれば大きな水田地帯になります。つまり織田家にとって重要な穀倉地帯であり、そこに隣接した低山地(標高10~100m:黄色~緑色)に建てられた鳴海城、大高城に敵がいるのは、まさに「喉元に刀を突き付けられたようなもの」だと、この図を見るだけで感じます。

清州城~熱田神宮

信長が清州城を出たのは早朝4時頃で約4時間で熱田神宮に到着したそうです。確かに距離はあるんですが約10kmで徒歩2時間半くらいです。側近5人だけ連れて出たとのことなので、当然みんな馬に乗っていたとすれば時間がかかり過ぎな気がします。
現在では両者が東海道新幹線でまっすぐつながってますが、当時は何かしら街道があったはず(※当時の東海道の正確な場所は私が調べた範囲では見つけられませんでした)。

清州&熱田

ここから先は私の憶測ですが、当時のこのルートには大小多数の川があって、当然橋がかかっていたでしょうが、そこを渡っている時に刺客に襲われたら逃げ場はありません。しかも平野が多く見通しも良い
ですので警戒のために街道は通らず、相当迂回したのではないでしょうか?

熱田神宮から善照寺砦へ

信長は熱田神宮で戦勝祈願すると同時に軍勢を集め、善照寺砦へ向かいます。この時の行軍時間は2時間程度。約8kmの距離で歩兵も多数いただろうと考えると妥当です。迂回はせずに進軍したのでしょう。

鳴海大高周辺

ただ少し疑問。丹下砦の方が手前にあるのに何故、善照寺砦へ行ったのでしょう?もちろん当時の戦況や砦の規模もあったんでしょうが・・・。
もうすこしアップで見てみます。

鳴海アップ

ちょっとビックリじゃないですか?
鳴海城と善照寺砦、近すぎ!500mくらいですね。東西に細長くのびる小高い山・・・同じ山の両端という位置関係です。
当時は南の2つの砦は陥落してすぐ南の中島砦が最前線になりつつある状況だったらしいので、戦況有利と見た今川軍が鳴海城から打って出る可能性もある。もしくは兵が出てたとすれば善照寺砦も激戦だったハズ。

これは本当に決死の覚悟だったのではないか?と感じます。
もしかするとワザと鳴海城に近い砦へ行き、敵に「信長が来た」と知らしめる目的もあったのかも知れません。
「麒麟がくる」でも今川義元が信長隊に兵を送るよう指示する描写がありましたが、義元本体の兵を少しでも減らすためにワザとバレやすい場所を選んだと言う可能性もありますよね。

さて、今回はここまで!
次回はついに決戦の地、桶狭間に向かいます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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