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徐かなること林の如く!!!:「三方ヶ原の戦い」を地形・地質的観点で見るpart8【合戦場の地形&地質vol.5-8】

歴史上の「合戦」を地形・地質の観点で考えるシリーズ。

「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」は、徳川家康が武田信玄に大敗した戦として有名です。

武田軍本体の進軍ルートは日本最大級の断層である「中央構造線」に沿って発達した街道でした。
しかし中央構造線沿いだからと言って必ずしも広い谷地形ではなく、そのような箇所は断層沿いではなく、地すべり地帯を縫うように街道が通っていたようです。

前回記事はコチラ👇

今回は


「鹿塩」の先を見る

地すべり地帯である鹿塩集落を抜けた先を見てみましょう。

武田軍本体の想定進軍ルート(浦-大河原区間)
信濃国絵図(国立公文書館デジタルアーカイブより)に筆者一部加筆

既に確認した「浦」「鹿塩」(青)の先では街道が途切れた後に「中山村」があり、その南南東へ街道が伸び、「大河原村」へ至っています。

長野県 鹿塩-大河原区間 地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

現在の地形図を見ると「中山」は見つかりませんでした。
しかし「中山沢」(上図赤点線)はありましたので、おそらくダム湖に沈んでしまったのであろうと考えられ、赤丸の位置を想定しました。

一方、大河原集落は鹿塩とは川を挟んで隣。

ダム湖から5kmほど西へ行くと伊那盆地に入るのですが、ダム湖を流れる小渋川沿いには「小渋峡」と名前が付いていることからも、とても険しい地形なのでしょう。
上の古地図を見ても中山村から西へつながる道は無く、多数の人々が住む伊那盆地とは隔絶した地域だったのでしょう。

大河原より南の地域

さらに南をまとめて見てみましょう。

武田軍本体の想定進軍ルート(大河原-青崩峠区間)
信濃国絵図(国立公文書館デジタルアーカイブより)に筆者一部加筆

図の上に図示した赤が大河原集落です。
そこから街道は、ところどころ途切れながらも南へ伸び、「上村」(茶色)、「木澤」(緑色)、「和田」(黄色)、「八重河内」(水色)と点在しています。
これらの集落は現在も地名が残っています。

なお図中央の伊那盆地内の集落群を黒点線で大きく囲みました。
伊那盆地の集落の密集度合いと、東の秋葉街道沿いの集落の数を比較すると、人の往来に大きな差があったであろうと推定できます。

長野県 鹿塩-青崩峠区間 地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

現在の地形図に集落を図示しました。
中央構造線(黒線、黒点線)沿いに真っすぐ伸びた谷の西には、急峻で高い山が伸びています。
この山を越えて西へ行くのは容易ではなく、秋葉街道沿いの集落と伊那盆地を往来するには、ルートが限られます。

進軍ルートの地形から見える役割分担

ここまで、三方ヶ原の戦いにおける武田軍の進軍ルート沿いの地形・地質を見てきました。
別動隊が進軍した伊那盆地武田信玄本軍が進軍した秋葉街道
両者の直線距離は近くとも、地形的に互いに隔絶された関係にあったと言えるでしょう。

つまり、伊那盆地沿いの街道を進軍した別動隊5000人は広い街道を複数の隊列でスピード重視の進軍
周囲に人の往来は多く、当然、徳川方の間者に見つかり、情報は洩れるでしょう。
しかし徳川方に事前に情報が漏れたとしても、徳川領に到着するまでのタイムラグは小さく、徳川軍の準備は間に合わなかったでしょう。
まさに「疾きこと風の如く」です。
またこのような別動隊の動きは「陽動作戦」でもあったと思われます。

つまり「別動隊」に目を引き付けておき、本軍は静かに進軍する

そのために秋葉街道を進軍したのでしょう。
これまで見てきたように、秋葉街道沿いは地形的にも狭く、時には地すべり地帯を通り、街道が途切れている場所もありました。
街道沿いの集落も少なく、人口の多い伊那盆地とは地形的に隔絶されており、人の往来は少なかったと思われます。
つまり、徳川方の間者に見つかりにくい。

別動隊に敵の目を引き付けておき、本軍1万5千人は細い街道を静かに進軍。
まさに「徐かなること林の如く」ですよね。

徳川家康が死を覚悟した三方ヶ原の戦い。
武田軍の進軍ルートを追うだけでも、地形・地質との関係性を楽しく考察できました。

次回以降はいよいよ本番の「三方ヶ原の戦い」を見ていきましょう。

お読みいただき、ありがとうございました。

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