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狭く歩きにくい街道を進軍:「三方ヶ原の戦い」を地形・地質的観点で見るpart7【合戦場の地形&地質vol.5-7】

歴史上の「合戦」を地形・地質の観点で考えるシリーズ。

「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」は、徳川家康が武田信玄に大敗した戦として有名です。

武田軍本体の進軍ルートは現在で言う秋葉(あきは)街道に概ね一致すると考えられ、それは日本最大級の断層である「中央構造線」に沿って発達した街道でした。
しかし高遠より南では、途中から断層沿いの谷幅が狭くなり、そのため街道は中央構造線から逸れることとなりました。

前回記事はコチラ👇

今回は中央構造線から逸れた秋葉街道が、どのような地形を通っているかについて見ていきましょう。


細かい凹凸地形の正体は?

秋葉街道は「市野瀬」集落より南から中央構造線を逸れ、「浦」集落を通ります。この「浦」が位置する斜面が非常に特徴的なんですよね。

市野瀬-鹿塩区間 地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

上の図のように、赤点線で囲まれた地域はゴツゴツと小刻みな凹凸があり、他地域と比べて全く違いますよね。

浦集落周辺地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

赤丸に「浦」と書いてあります。
この周辺が集落になっています。
浦集落は、すぐ東の三峰(みぶ)川の谷底よりも約200mも高い緩やかな斜面上にあります。
川沿いは谷幅が狭く、平坦地が狭く低いため人は住めません。
そういう理由もあって斜面に集落ができたのでしょうが、仮に川沿いに住めたとしても、ここにも集落はできたと思います。

何故かと言いますと、この斜面が「地すべり地形」だからです。

浦集落周辺地形図②:スーパー地形画像に筆者一部加筆

地形図から読み取る限りですが、地すべりの範囲を囲ってみました。
赤線で囲った範囲が最も動いたであろう範囲(今も活動しているかは不明)で、大きく見れば青の範囲まで地すべりだと考えられます。

しかも、地すべりはここだけではなく、南の方まで広く「地すべり地帯」が連なっています。

市野瀬-鹿塩区間 地形図②:スーパー地形画像に筆者一部加筆

私が地形図で見る限りですが、黄色点線の範囲が地すべり地帯です。
この範囲では、浦以外では今は人は住んでいないようですが、道路が通っており、牧場として利用されている土地があります。

地すべり地帯は災害の危険はありますが、斜面が緩く、水が多くて地面が軟らかいので人が住みやすいという特徴があります。
そのため恐らく、戦国時代から江戸時代にかけては、大きな集落こそなくても、数家族単位では住んでいる箇所があったと考えられます。
街道はそれらを繋ぐように伸びていたでしょうから、概ね上図赤点線のようなルートであったろうと想定されます。

鹿塩も地すべり地帯

浦集落を通り、しばらく地すべり地帯を進軍した後に鹿塩(かしお)集落に至ります。詳しく見てみましょう。

鹿塩周辺地形図:スーパー地形より抜粋

今度は中央構造線が通っている西の谷沿いの西向き斜面です。
やはりモコモコと細かい凹凸が多数見られる斜面です。

鹿塩周辺地形図②:スーパー地形画像に筆者一部加筆

地すべりの範囲を囲ってみました。大まかに線を引いたので細部は正確ではありません。
赤線が西向き斜面の地すべりで、おおもとの巨大地すべりの範囲を囲みましたが、現在は侵食が進んで細分化しているようです。
そのため仮に現在も動いているとしても一部の範囲だと考えられます。

やはり、地すべり地内に点在する緩斜面に人が住んでいます。

青線で囲った地域は、南向き・東向き斜面の地すべりで、ここも緩斜面に集落ができています。
その他、線で囲っていない場所にも地すべりがあり、この地域一帯も「地すべり地帯」だと言えます。

なおここの場合は断層沿いの河川で中流域になったため、川幅が比較的広く、河川沿いにも集落ができています。
当時は、河川沿いと地すべり斜面に点在する集落の1つ1つを結ぶようなかたちで街道が通っていたと考えられます。

地すべり地帯は緩やかな斜面は歩きやすいですが、湿地や凹凸も多いためトータルで考えれば歩きにくい土地です。
また1つ1つの集落は小さいため、大人数の往来の無い小さい街道だったでしょうし、1万5千の大群が進軍するのは容易ではなかったと考えられます。

次回はいよいよ青崩峠までの道のりを確認し、秋葉街道を総括的に見てみましょう。
お読みいただき、ありがとうございました。

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