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街道が途切れちゃった??:「三方ヶ原の戦い」を地形・地質的観点で見るpart6【合戦場の地形&地質vol.5-6】

歴史上の「合戦」を地形・地質の観点で考えるシリーズ。

「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」は、徳川家康が武田信玄に大敗した戦として有名です。

武田軍本体の進軍ルートは現在で言う秋葉(あきは)街道に概ね一致すると考えられ、それは日本最大級の断層である「中央構造線」に沿って発達した街道でした。

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今回は高遠から南を見に行きましょう。


断層が通る場所

高遠城から約10km南の「市野瀬」という集落までは、概ね南北方向に真っすぐ谷が伸び、谷沿いの平坦地にいくつもの集落があります。

武田軍本体の想定進軍ルート(高遠-市野瀬区間)
信濃国絵図(国立公文書館デジタルアーカイブより)に筆者一部加筆

古地図で見るとこんな感じです。
番号順に、非持(ひじ)、勝間溝口黒河内中尾市野瀬と集落が連続しています。

高遠-市野瀬区間 地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

現在の地形図で見てみましょう。
黒線、黒点線が中央構造線です。
やはり、概ね中央構造線に沿って真っすぐ谷が伸びています。
谷沿いには段丘堆積物河川堆積物で形成された平坦地が連続的に分布しており、そこに集落ができています。

上の古地図と比較すると「勝間」だけがありません。
「非持」の北西には「原勝間」という地名があるので、これに相当するのかもしれませんが、「非持」「溝口」の西にダム湖(美和湖)がありますので、もしかしたらダム湖に沈んでしまった集落なのかもしれません。

断層が不明瞭になると??

「市野瀬」集落より南になると、急に「断層地形」が目立たなくなります。
真っすぐ南北に伸びていた谷が、二股に分かれてしまうんです。
地形図だけで見てみましょう。

高遠-市野瀬区間 地形図②:スーパー地形画像に筆者一部加筆

赤丸が市野瀬集落です。
その南の谷地形を見比べてみても、どちらを断層が通っているのか?は分かりにくいですよね。

高遠-市野瀬区間 地形図③:スーパー地形画像に筆者一部加筆

思いっきり引いて見てみると分かりやすくなります。
赤丸が二股に分かれる場所です。
細長い谷が真っすぐ伸びているのは、西の方ですよね。

高遠-市野瀬区間 地形図④:スーパー地形画像に筆者一部加筆

青点線でなぞってみました。
分からなかった人は、上の図と見比べてみてください。

高遠-市野瀬区間 地形図⑤:スーパー地形より抜粋

では、街道はどっちを通っているんだ?と見てみると、西を通っているようには見えません。
今でこそ国道は通っているんですが、集落が無いんです。
上図の真ん中やや下に「粟沢」という小さい集落はあるのですが、ここより南では集落は全くなくなります。

一方、東の方が谷・川とも幅が広く、多くの人々が住んでいます。

武田軍本体の想定進軍ルート(市野瀬-中山区間)
信濃国絵図(国立公文書館デジタルアーカイブより)に筆者一部加筆

古地図の方を見てみると、市野瀬(上図赤丸)より南では、街道(赤線)は途切れ途切れになりながら、迂回するように東から西へカーブしています。
青丸で囲った「浦」「鹿塩」の集落は現在も地名が残っていましたので、見てみましょう。

市野瀬-鹿塩区間 地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

赤丸が市野瀬集落南の二股に分かれる地点。
青が「浦」「鹿塩」集落です。
なんと「浦」が東の谷沿いで、「鹿塩」は尾根を越えた反対側の谷でした。

古地図では隣り合ってるように描かれていましたが、だいぶ遠いですね。
「浦-鹿塩」間の街道が実際にどのように通っていたかは不明ですので、図の赤点線は私の全くの憶測です。

これまでは中央構造線沿いの谷に連なる平坦地に集落があり、それらを縫うように街道が通っていました。
しかしこの区間では、地形・地質的な要因のためか、断層沿いの谷が小さくて平坦地が無く、集落ができにくい地域のようです。

ではこの地域は、どのような条件で集落ができているのでしょうか?

市野瀬-鹿塩区間 地形図②:スーパー地形画像に筆者一部加筆

もう少し拡大した図です。赤丸が二股に分かれる地点。
そして赤点線で囲った範囲は、やけに細かい凹凸が目立ちますよね。
この範囲の北部に「浦」集落があります。

これはいったい何でしょうか?
この地形の正体を知れば、如何に武田信玄本軍が「通りにくいルート」をワザワザ選んで通っているか?が分かると思います。

次回へ続きます。

お読みいただき、ありがとうございました。

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