信長を勝利に導いた地形の形成史を妄想してみた:「長篠の戦い」を地形・地質的観点で見るpart7【合戦場の地形&地質vol.6-7】
日本の歴史上の「戦い」を地形・地質的観点で見るシリーズ「合戦上の地形&地質」。
長篠の戦いは日本の歴史上、初めて鉄砲を組織的に運用した戦(いくさ)としても有名です。
武田の砦を奇襲する際に行軍したルートは地形が複雑であり、それは断層などの地質的要素が原因でした。
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今回はいよいよクライマックス。
長篠の戦いの決戦地について考察します!
設楽原の地形
長篠の戦いは別名を長篠・設楽原の戦いと言います。
これは実際に決戦が行われた場所が長篠城から少し離れた場所であり、そこが設楽原(したらがはら)と言う地名だからです。
図の中央付近一帯が設楽原です。
不思議なことに、具体的に「設楽原」と言う地名は見つかりませんでした。
図の南西に「設楽」と言う地名があるので、それが元になって「設楽あたりの原っぱ→設楽原」と、正式名称ではなく慣例的に呼ばれていたのかも知れませんね。
なお図の西の山地に高速道路のPAがあり、名前は「長篠設楽原PA」です。これは観光用に名付けたっぽいですが(;^_^A
ところでこのあたり、「原」って言う割にはデコボコしていると思いませんか?
それぞれ布陣した場所は上図の通りです。
両軍とも小高い丘に布陣しました。
図ではその丘の範囲を図示しており、実際の布陣の範囲ではないのでご注意ください。
グーグルマップによると「徳川家康本陣」「武田勝頼本陣」「馬防柵左端」は上図のような位置だったようです。
馬防柵左端と徳川家康本陣の位置関係から、連合軍はこの丘の全体に布陣したと考えられます。
しかしその数は3万人とも言われており、さすがにその人数の全てを丘の上に配備することはできず、丘の西にも布陣していました。
これらの丘は平地との標高差は約30mあり、周囲が急斜面である割には頂上部は緩やかな地形です。
確かに、このような地形なら砦に見立てると発想するのは理解できます。
それにしても、こんな好都合な地形はどのように形成されたのでしょうか?
設楽原の地質
ではさっそく地質図を見てみましょう。
黄色で囲った範囲が両軍が布陣した丘です。
なるほど!
外周斜面が急傾斜で頂上が緩やかな地形になっている理由が分かりました。
丘を構成している地質は、図のように2つです。
白地に黒点模様の地質は、新生代第四紀後期更新世(約13万年~1万年前)の段丘堆積物。
なおこの地域の段丘堆積物は2種類あり、上述の白地に黒点模様がD1、ピンク色の周囲の灰色がD2と名付けられています。
D2の方が新しい堆積物です。
またD1の周囲を取り囲むように分布するピンク色は中生代白亜紀後期(約8360万年~6600万年前)の花崗閃緑岩です。
花崗閃緑岩は地下深くでマグマがゆっくり冷えて固まった岩石です。
長い年月の間に隆起して地上に出てきて、周囲の地質が侵食されて花崗閃緑岩がむき出し状態になります。
それ以後の設楽原の歴史をマンガにしてみました。
第四紀後期更新世になって花崗閃緑岩の上を川が流れ、段丘堆積物(D1)が堆積。
その後、川の流れでさらに侵食が進み、丘の周囲の花崗閃緑岩が削られ、谷ができる。
その谷を段丘堆積物(D2)が埋め、平坦地を形成。
つまり川の侵食から残った花崗閃緑岩が丘で、その上には段丘堆積物(D1)が載っているので頂上は緩やかな地形になったのですね。
また花崗閃緑岩は基本的に硬い岩石なので、丘の外周は急斜面になったのでしょう。
野戦築城を体感しよう
織田信長は布陣した丘を城に見立て、前方に馬防柵を張り巡らせます。
設楽原周辺には背の低い木しか生えていないため、岐阜から運んだと言われています。
長篠城が武田領だった期間は丘のすぐ東を流れる連吾川が国境線になっており、その時に徳川が防備を進めていたこともあり、信長はもともとこの場所の地形を把握していたのでしょう。
馬防柵を想定で図示してみました。
連吾川が天然の堀になっており、そのすぐ前に柵(上図黄色)があり、しかも三重の柵でした。
馬防柵を突破したとしてもさらに前方には花崗閃緑岩の急斜面。
まさに「城」ですよね。
天然の地形に即興で手を加えて城のようにすることを野戦築城(やせんちくじょう)と言い、日本で実戦で使われたのはこれが初めてのようです。
なお丘の効果はもう1つあり、それは兵を隠すことです。
断面図です。高さを2倍にしています。
両軍が陣を敷いた丘は標高にほぼ差が無く、丘の背後にいる兵は、武田方からは見えなかったでしょう。
武田勝頼は、前方に見える分だけの兵力から判断し、地形や馬防柵に邪魔されても、一点突破しさえすれば勝てると考えたのかも知れませんね。
3Dです(高さ2倍)。
だいたいこんな感じ?と馬防柵を描いてみました。
実際より視点はやや高そうですが、勝頼はこんな光景を見たのでしょうね。
今回は以上となります。
お読みいただき、ありがとうございました。
引用・参考文献
齊藤正次(1955)5萬分の1地質図幅説明書「三河大野」(5 万分の 1 地質図幅),地質調査所,36p.
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