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戦場の全体像を俯瞰する:「長篠の戦い」を地形・地質的観点で見るpart2【合戦場の地形&地質vol.6-2】

日本の歴史上の「戦い」を地形・地質的観点で見るシリーズ「合戦上の地形&地質」。
長篠の戦いは日本の歴史上、初めて鉄砲を組織的に運用した戦(いくさ)としても有名です。
前回はその前哨戦として、長篠城の危機を知らせるべく奮闘した鳥居強右衛門の足跡をたどりました。

また忘れてならないのは天然の要害・長篠城


武田軍の布陣

天然の要害と呼ばれ、難攻不落の長篠城。
武田軍は「あと数日で落城」と言うところまで追い詰めました。
そんな武田軍は約1万5000人。
いったいどのような布陣だったのでしょうか?

なお武田軍が築いた砦の位置等は、以下サイト等を参考にしました。

長篠城と武田軍の布陣:スーパー地形画像に筆者一部加筆

上図のほかに長篠城の南の対岸にも部隊が配置されていたようで、まさに「包囲」されています。
特に東の山地に築かれた砦からは長篠城が丸見えだったようです。
そして長篠城の北の寺には武田勝頼と重臣・馬場信房が陣を構えており、台地の中に入り込まれている状態です。
これは確かに、落城寸前だと分かります。

織田・徳川連合軍の布陣

落城寸前の長篠城の救援に参じた織田・徳川連合軍は、どのように対峙したのでしょうか?
これまでもお話ししてきたように、長篠城は南からの方が近づきにくい城です。ましてや上図のように武田軍1万5千に囲まれているようでは、連合軍3万8千と言えども容易には近づけないでしょう。

織田・徳川連合軍と武田軍の配置:スーパー地形画像に筆者一部加筆

今後の展開のためにも広めの地形図に描きました。
織田・徳川連合軍はだいぶ手前に布陣しています。
あれだけ武田軍が展開していれば、迂闊に長篠城には近づけません。
それに長篠城と織田・徳川連合軍の間には多くの凹凸がありますし、思わぬ伏兵に遭わないためにも、この場所での布陣は頷けます。
もちろん、この場所の選定はそれだけではないのですが、それは後ほど。

なお織田・徳川連合軍が布陣した一帯は設楽原(したらがはら)と言う地名です。
そのため最近では、長篠・設楽ヶ原の戦いと呼ばれることもあるようです。

決戦へ向けて

武田軍1万5千は長篠城を落城寸前にまで追い詰めたものの、やって来た織田・徳川連合軍は3万8千。
しかし後に述べますが、武田側は連合軍の規模を正確には把握していなかったようです。

しかしここで武田勢は主戦派と撤退派に分かれます。
結局、勝頼は戦うことに決めますが、なぜだったのでしょう?
連合軍の詳細な人数は把握できていないにせよ、古参武将を中心に撤退論が出るくらいですから、不利なのは想定できたはず。

これに対して諸説あるようですが、私は以下の説が最も「ありそうだ」と思います。

当時の情勢として、織田は浅井・朝倉家を滅ぼし、京も掌握。単独の大名が手を出せないような勢力に成長しており、時が経つほど織田と武田の戦力差が開く状況だった。
そのため、織田の主力が目の前にいる今、それを倒すことで情勢をひっくり返すことが目的だった。

一方で、これまでに徳川は散々武田にしてやられており、この前年には遠江の高天神城(たかてんじんじょう)が落とされています。
今回動員できた兵力は8000人。
織田の援軍が無ければ、逆に武田より半分と言う劣勢状態。
家康としては、織田軍がいる今のうちに武田に打撃を与えたい。
つまり、武田勝頼、織田信長、徳川家康それぞれは、以下のような心情だったでしょう。

勝頼:勝てれば不利な情勢をひっくり返せるが、負けるかも。
信長:どうせ黙っててもこっちが有利になるし、わざわざ戦わなくてもいい。援軍は出したし家康に義理は果たした。武田、早く撤退しないかな?
家康:徳川単独では武田に対抗できない。織田の援軍がある今がチャンス!この機に武田の主力を壊滅できれば今後は有利になる!

つまり、一番戦いたかったのは徳川家康だったのでは?と感じます。
そしてこれが、砦奇襲へとつながって行くのでしょう。

ではどのような道程で奇襲に及んだのか?
次回へ続きます。

お読みいただき、ありがとうございました。

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