侵略すること火の如く:「三方ヶ原の戦い」を地形・地質的観点で見るpart2【合戦場の地形&地質vol.5-2】
歴史上の「合戦」を地形・地質の観点で考えるシリーズ。
「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」は、徳川家康が武田信玄に大敗した戦として有名です。
前回は武田信玄軍本体と山県昌景率いる別動隊の進軍ルートについて「まさに風林火山」とお話ししたところで終わりました。
※前回記事はコチラ👇
では、どこがどのように「風林火山」のイメージなのか?
具体的に見ていきましょう。
山県昌景部隊の進軍ルート
2部隊の進軍ルートをもう一度見てみましょう。
この図はかなり大雑把につくったものですが、それでも2つの進軍ルートの違いが分かりませんか?
そうです。
山県昌景部隊の進軍ルート(赤点線矢印)の方が、谷の幅が明らかに大きいですよね。
幅の広い谷
では詳しく見てみましょう。
長野県に対しては「山」のイメージを持っている人が多いと思います。
しかし実は、大きな盆地やなだらかな地形がいくつも並んでいます。
山県昌景部隊が通った広い谷の正体は、それら盆地の1つであり、長野県南部を南北方向に延びる「伊那(いな)盆地」です。
伊那盆地の真ん中には天竜川(てんりゅうがわ)という大きな川が流れ、1本の谷のようでもあることから「伊那谷(いなだに)」とも呼ばれるそうです。
伊那盆地の地形
拡大図です。
幅約10kmの谷が南北方向に伸びています。
その真ん中あたりは天竜川の流れでさらに1段低まっていますが、全体的に平坦地が多いですね。
ウィキペディアによれば、山県隊は長野県の諏訪(すわ)から東三河に侵攻し、まずは武節城(ぶせつじょう)を攻略したようです。
当時の三河国は現在の愛知県東部ですから、そのさらに東部に進軍したことになります。
途中、どこを通ったかについては記載はありませんでしたので、諏訪と武節城を結ぶルートを、古地図でたどってみましょう。
古地図で見る進軍ルート
信濃国絵地図
国立公文書館デジタルアーカイブで公開されている信濃国(しなのくに)の絵図を見てみましょう。
大きいですね。
真ん中に見られる青色が諏訪湖で、そこから伸びている青線が天竜川です。
拡大しました。
諏訪湖から南流する天竜川の西に赤い線がウネウネと伸びているのが見えるでしょうか?
この赤い線が街道で、天竜川中流部の西に見える白い四角(飯田城)あたりから2本に分かれて三河国に至っています。
さらに途中で分岐する薄い赤線も併せると4本の街道があるようです。
山県隊は、これらのいずれかを通って侵攻したと思われます。
三河国絵地図
今度は三河国(みかわのくに)の絵地図です。
三河国と東部の信濃国と接する地域には、確かに4本の街道が見えます。
武節城を探せ!
山県隊が最初に攻略した武節城は現在の愛知県豊田市の北東部にあります。
場所は上図赤丸です。
ちょうど国道153号線と国道257号線の交差点のあたりです。
現在の地形図を目安に絵地図を見てみると・・
「武節町村」がありました!
引いて見ると、西から2番目の街道のようです。
スピード重視の行軍?
古地図の街道沿いの村名と現在の地名を照らし合わせ、ルートを想定しました。
現在の国道153号線と概ね一致する街道だったと考えられます。
伊那盆地より南は山間部の谷を縫うような険しいルートですが、工程の大部分である伊那盆地は平坦で通りやすいルートです。
そのため行軍スピードは速く、先鋒部隊として適したルートだと考えられます。
一方で、幅の広い開けた伊那盆地を行軍する際は、目立ちますし、徳川方の間者が容易に察知できたでしょう。
それを織り込み済みだからこそ、なおさら素早い行軍を心掛けたと思いますし、同時に本隊を隠す目くらましとしての「囮部隊」という側面もあったと考えられます。
本隊の目くらましも兼ねて、素早く目立つ行軍をし、あっという間に城を落とす。まさに「侵略すること火の如し」ですよね。
次回は武田信玄本軍の動きを追います!
お読みいただき、ありがとうございました。
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