家という、いちばん小さな社会のなかで

私はいま、同居人とふたり暮らしをしている。いっしょに暮らし始めて、そろそろ9か月くらいだろうか。

「同棲」という言葉を使うと、なんだかこう、情熱的?パッション?なイメージをもたれがちなのだけど、私たちの場合はわりと現実的な理由(=生活費を節約したい)があって一緒に住み始めた。

それもあってか、さいしょの頃からどこかしら、同棲というよりは「共同生活」に近い空気感のなかで暮らしている。

たとえば家事。

よく、夫婦間での家事の分担の話をTwitterやニュースで目にする。「こうあるべき」とか、「こうあるべきではない」とか。

うちの場合は、じつはなにも分担していない。

必要なとき、やる余裕があったほうがやる。それだけだ。忙しいなら夕ご飯はそれぞれが食べたいものを買ってくるし、洗濯機も気づいたほうが回す(余談だけど、ひとり暮らし時代にフンパツして乾燥機つき洗濯機を買ったことは今でもいい買い物だったと思ってる。干さなくていい生活は楽だ)。

だから飽きもせずに、来る日も来る日も、お互いにお礼を言い合っている。

「あ、お皿洗ってくれたんだ、ありがとうね」
「洗濯機まわしてくれたの、助かる!」
「ゴミ出し済ませといてくれるなんて、さすが!」
「偉い!」
「偉い!」

こうやって文字に起こすと、うさんくさい人たちみたいでちょっと笑えるけど。ほんとに実際こんな感じ。

最初のころ、私はよく謝っていた。

「料理ができなくてごめんなさい」
「片付けが行き届いてなくてごめんなさい」

わざわざ言葉にはしなかったけれど、その謝罪の裏にはいつも「女なのにこんなこともできなくて」という卑下の気持ちがあった。自分の中にこびりついた「あるべき女」のイメージと現状の自分とのギャップに、勝手に苦い気持ちになっていた。

でもそのたび同居人は、笑って言うのだ。

「気にせず、気にせず」

そのフラットでフェアな姿勢に、どれほど助けられているだろう。こうやって私が毎日noteを更新できるのも、同居人の理解があるからこそだ。

自分は自分、ぽんずちゃんはぽんずちゃん。得意なほうが得意なことをやればいいし、家のことは協力してやっていけばいい。いつだってそう言ってくれる。

いくら血縁関係があっても、婚姻関係があっても、やっぱり自分以外の人間は「他人」だ。それは諦めとかじゃなくって、むしろ風通しよくすこやかな居場所をつくっていくために必要な考え方なんじゃないかと思っている。そう思わせてくれたのは、ほかでもない同居人だ。

ちいさな社会は、きょうも平和です。



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