アンドレイ・タルコフスキー「鏡」
ちょうど一年前に「サクリファイス」を見たのでしたが、今年も松尾さんに、今度は「鏡」を貸して頂きました。
「サクリファイス」のレヴューはこちら。
それにしても松尾友雪という名前の持つ象徴性と相俟って、松尾さんとタルコフスキーとは私の中で、強固な結びつきを持つものになってしまいました。
新年からアンドレイ・タルコフスキーの世界に浸れるというのは、私にとって至福の体験です。
「鏡」はタルコフスキー監督の自伝的要素の強い作品とのことですが、他の作品とも通じる映像美、魔術的な効果は相変わらずでした。
レオナルド・ダ・ヴィンチの自画像や、肖像画。
ダンテ・アリギエーリ「神曲」
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ「ヨハネ受難曲」
水と火の描写。
それらの持つ宗教性。
そして、私に強い印象を与えた、もう一人の映画監督について思いを馳せます。
アレハンドロ・ホドロフスキー。
名前の響きも似たところのある、チリ出身のこの監督の作品は、タルコフスキー映画と宗教的、終末的、実験的であるという共通性を持ちつつ、一方では対照性を感じさせます。
タルコフスキーの無彩色・低彩度に対する、ホドロフスキーの鮮やかさ。
タルコフスキーの日常性に対する、ホドロフスキーの祝祭性。
ラテンアメリカとソビエト連邦という、環境の差から来るものでしょうか。
そして、神の絶対性の前に平伏す他ないタルコフスキーに対し、ホドロフスキーは人間の潜在的能力をもって、神にすら挑もうとしているようです。
タルコフスキーが執拗に追い求めるのは、神の奇跡です。
どうにもならない日常に突如として現出する、奇跡。
遠藤周作の沈黙する神とは異なり、タルコフスキーの神は沈黙ではなく、奇跡を以って応えます。
「鏡」で奇跡は例えば、若き母が空中に浮かび上がるシーンとして描かれます。
彼女の足元を横切る鳩は、聖霊を現しているのか、受胎した魂か。
いずれにしても詩的な描写に違いありません。
しかし、奇跡の代償は高くつきます。
「鏡」ではそれは、父の失踪なのかもしれません。
父と作者本人、母と作者の妻、作者と息子とは、それぞれが鏡像となります。
時空を飛び越えて共鳴し合う、血の絆。
鏡は時に、異世界への入口として描かれます。
ジャン・コクトーの「オルフェ」では、鏡が冥界の入口となりました。
少年時代の作者が覗き込む、楕円の鏡。
その中に作者は、何を見たのでしょうか。
過去の父か、未来の息子か。
作者が朗読する父の詩の中には、冥界に下ったオルフェウスの妻エウリュディケの名前も見られます。
ラストシーン。
少年時代の作者が草原の中で、言葉にならない言葉を叫びます。
「サクリファイス」のラストで、喋れなかった息子が初めて言葉を喋ったのとは、対照的です。
ところで「鏡」のオープニングは、少年が付けたテレビの中で、吃音症の青年が治療を受けるシーン。
初めに言葉ありき、として始まったにもかかわらず、言葉を失ったところで終わる、というのが、いかにも象徴的に思われました。
あなたは、「鏡」をどのように観ましたか?
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