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アンドレイ・タルコフスキー「サクリファイス」

※ネタバレあります。

昨年11月、私たちのやっているツイキャスで、「生贄」の研究をしている猫蔵さんをお招きしてトークをしました。
インドのチョーラカ族という芸能集団の自傷芸や日本の見世物小屋芸人などに、厄災を肩代わりする生贄の役割を見出すという猫蔵さん。
彼の「生贄の風習は、神に対する人類の永遠の片思い」という言葉がとても印象的でした。
やはりツイキャスで月一で聖書読書会を開催しているのですが、特に旧約聖書では神に対する生贄のエピソードが度々出てきます。
その際に用いられる「贖い」という言葉は、対価を支払う、という意味ですが、私はどこか「犠牲」のニュアンスを感じてしまうのです。
それで、神との取引は等価交換ではなく、人間側が傷みを伴うものかもしれない、という話をしました。

この回ではなかったかもしれませんが、ツイキャスで松尾さんがタルコフスキーの「サクリファイス」についてコメントを下さいました。
枯れた松の木を植える、というエピソードについてでしたが、その流れでDVDをお借りし、先日鑑賞しました。

私は「好きな映画は?」と聞かれて真っ先にタルコフスキーの「ノスタルジア」を挙げる人間です。
それなのに、タルコフスキーの他の映画は観る機会のないまま、という体たらく。

オープニングで、レオナルド・ダ・ヴィンチの「東方三博士の礼拝」の複製画をバックに、スタッフロールが延々と続くのがまず、尋常ではありません。

湖畔で、枯れた松を植える親子。
キャストクレジットにも「子供」とのみ書かれた名前を持たない息子が、イエスのメタファーであることは恐らく間違いないでしょう。
「東方三博士の礼拝」はもちろん、「魚のように」口を利けないという父アレクサンデルの台詞、その姿を度々親が見失うということが、それを示唆しています。

毎日水をやるという、決められた手続きを繰り返す儀式が、枯れた木に花を咲かせるという奇跡を生み出すのだというアレクサンデル。
郵便配達人オットーは、アレクサンデルの誕生日プレゼントに17世紀の古地図をあげて、「犠牲を伴わなければ贈り物とは言えない」と言います。

世界が終焉を迎えようとしている朝に枯れ木を植えるというシーン、マルティン・ルターの「たとえ明日世界が終わるとしても、私はリンゴの木を植える」という言葉を思い出した方も多いと思います。
私が最初に連想したのは、芥川龍之介の「往生絵巻」でした。
阿弥陀仏に恋焦がれ、枯れた松の木に登って西方に向かい仏の名を呼び続けた五位の入道は、松の木の上で息絶えますが、屍骸の口には白い蓮華が開きます。
ここにも、自分を犠牲に捧げることで奇跡を起こすという、神仏との取引の例が見られます。

草地で、初めてここを訪れた日のことを、息子に語るアレクサンデル。
湖畔の彼の家は謂わば「約束の地」だったということが分かります。
彼はまた文明批判や、言葉に対する呪詛をも口にします。

突然、核戦争の勃発を告げるテレビ。
アレクサンデルは、もし神が自分の愛する者たちを救ってくれたなら、家を燃やし、一生口を利かず家族とも会わない、と祈ります。
魔女マリアと寝れば祈りは叶う、とアレクサンデルの耳元で囁くオットー。
この映画の中では、オットーの存在がかなり謎めいています。
アレクサンデルへのプレゼントにミニチュアの家を作った、息子とオットー。
この行為も、類感呪術を連想できます。

時々現れるモノクロームの荒廃した景色は、世界が救われなかった場合のパラレルワールドを描いているのでしょうか。

世界の救世主となる召使いマリアの名前は、聖母と結び付けられるのみならず、もう一人のマリアであるマグダラのマリアとも関連していると思われます。
アレクサンデルの汚れた手を洗うシーンは、マグダラのマリアと同一視される「罪の女」が、イエスの足を洗い髪の毛で拭う行為を踏襲しているのでしょう。
父であるアレクサンデルは、同時に子であるイエスでもあるといえます。

マリアに、母の思い出を語るアレクサンデル。
荒れ放題だった庭を、ソファに座っていつも眺めていた母。
アレクサンデルは荒れ果てた庭を綺麗にしようと思い立ち、作業を終えると身を清めて正装します。
母と同じようにソファに座り、庭を眺めると、そこにあったのは暴力の痕跡のみだった、というアレクサンデル。

核戦争はある意味、秩序正しく地図に引かれた境界を壊し、混沌=自然の美を取り戻す為に、必要とされる行為なのかもしれません。

マリアとの交わりの間、二人の身体はゆっくりと回転しながら宙に浮きます。
奇跡=神の現出、ということなのでしょうか。
そういえば度々、登場人物が失神するシーンがありますが、それも神の現出を現わしているのかもしれません。

※追記ここから※

魔女と寝ることがなぜ世界の救済に繋がるのか、というのは、引っ掛かっていた謎でした。
エリアーデを読んでいて、イニシエーション中の若者が閉じ込められる森の小屋が、母親の胎内を現わしている、というくだりで、ふと思い至りました。
「サクリファイス」の宗教観は、単なるニーチェによって超克されたキリスト教ではなく、グノーシス的世界観なのではないか。
そういえば冒頭のシーンで、アレクサンデルの口からヤルダバオトの名前が出ていた筈です。
つまりマリアはソフィアでもあり、彼女と一つになることで、流出以前の世界に戻ったのです。
だから核戦争は起こらないことになったのではないでしょうか。

※追記ここまで※

目覚めた世界では核戦争の脅威は消えていて、祈りが叶えられたアレクサンデルは、誓願通り家を燃やし神に捧げるべく、家に火をつけます。
長回しのこのシーンは、息を呑むような美しさ。
「ノスタルジア」と同様、火と水が同時に存在する描写に、この世のものではないような超常的な印象を受けました。
映像詩人タルコフスキーの面目躍如たるシーンです。

ラストシーン、父に言われた通りに、松の木に水を運ぶ息子。
初めて発された、息子の台詞。
初めに言葉ありき でもなぜ?パパ
偽りの言葉を憎んでいたアレクサンデルの疑問を、代弁しているかのような台詞です。

自身の息子に捧げられた、タルコフスキーの遺作。
彼にとってこの作品は、救済の物語であると同時に、人類への最終通告だったのでしょうか。
観た者それぞれが自分の頭で考えることが、求められる映画だと思います。

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