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ようこそ笑店街へ【31】オーダーメイド入浴剤

オーダーメイド入浴剤

 笑店街の一角に、入浴剤の専門店を見つけた。
 自分好みの入浴剤をオーダーメイドできるらしい。オーダーメイドとはいっても、リラックスしたい時用にラベンダーを、とか、そういうものなのだろう。それほど真新しい気はしなかったけれど、試しに行ってみた。
「いらっしゃいませ」
 入口のガラス扉を開けたら、ふわりと香りが立った。洗濯上がりの柔軟剤のような、包み込まれるような、花の香りに似た気配。
「少し見せてください」
 レジにいる女性に一声かけて、店内に目をやった。それほど広くはない。お客さんが五、六人でも一度に入ったら、ぎゅうぎゅうに感じてしまいそうなほどだ。
 棚には色とりどりの小箱や小袋が並んでいた。花や海の絵柄など、自然をベースにしたと思われる入浴剤が目に入る。
 そしてレジ横には「オーダーメイド承ります」と手書きされた小さな看板があった。
「よろしければいかがですか」
 看板から顔を上げると、レジの女性と目が合った。
「試しに少しだけ購入ということもできますか?」
 量り売りかどうかもわからなかったけれど、試しに訊いてみた。
「はい、もちろんです。初めての方にはお試しパックをご用意しております。まずは、ご家庭の標準の浴槽、約二百リットルにご利用いただける一回分の二十五グラムを一袋にお入れします」
 説明の間、女性は表情を変えることなくうっすらと笑みをたたえていた。一重瞼の目が、顔に入った細い切れ目のように見える。笑店街にはこういう顔の人が多い気がするのは気のせいだろうか。謎めいている。年齢不詳。
「では、ひとつ、お願いします。オーダーメイドってどういう注文ができるんですか」
「オーダーメイドの入浴剤は、お客様にとって浸りたい思い出に、入浴によって浸ってもらうためのものなんです」
 思わず「は?」と声を出してしまいそうになった。顔には、怪訝な表情が浮かんでしまったかもしれない。しかし女性は、淡々と説明を続けた。
「その入浴剤を入れた湯船に入ると、思い出に浸ることができるんです。お客様にとって、浸りたい思い出はどんなものですか? できれば何か思い出の品があると作りやすいのですが」
 思い出の品……そんなこと急に言われても、と思ってバッグに手をかけた時、ちょうどいいものが目に入った。
「これでもいいですか?」
 私は左手にしていた指輪を外してカウンターに置いた。
「はい、結構でございます。思い出の深そうなお品ですね。きっとよい入浴剤になると思います」
 浸りたい思い出なんてあっただろうか。この町に引っ越してくるよりも随分前に置いてきた気がする。何もかも忘れたくて来たのに。でももし、私に浸りたい思い出なんてものが眠っているとしたら、たまには思い出してあげてもいいかもしれない……どんな思い出に浸らせてくれるのか、一回だけ遊んでみようか。
「では入浴剤をお作りするために、出来上がるまでお預かりしてもよろしいですか」
「えっ」
 今度は本当に口から出てしまった。本当に使うとは思わなかった。見てイメージするっていうこと? まさか砕く? 溶かす?
「驚かれるのも無理はありません。思い出の品から思い出の成分を抽出するために、少しお時間をいただく必要があるものですから。もちろん、壊したり傷つけたりすることはありませんし、無理にとは申しません」
 よくわからないけれど、そこまで言われると余計に気になる。
「わかりました。どのくらいで出来上がりますか」
 すると女性は細い目をさらに細くすると、口角も上げた。
「はい、三十分ほど頂戴できればと」
 結構深いはずの思い出も意外と早く形になるのね。そんなことを思いながら、預かり証を受け取った。
 預かり証には整った文字でたった一行「思い出の品、指輪」と書かれているだけだった。そう、言葉にしてしまえばそれだけのことなのかもしれない。妙に涼しく感じる指の輪郭をさすりながら、手首に目をやる。夕飯の買い物でもしていこうかな。

 うろうろしていたら三十分が過ぎていた。入浴剤の店へ戻る。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。先程できあがりましたので、お預かりしたお品とともにお渡ししますね」
 女性店員に渡されたのは、食品を入れる透明なジップロックのような小袋だった。中には薄ピンクの粉が入っている。
「お試しパックですので、簡易包装となっております」
 小銭を支払って小袋を鞄に入れると、返してもらった指輪を指に戻す。気のせいか、少しきつい。たった三十分の間に指が存在を忘れてしまったのだろうか。
「ありがとうございました。どうぞゆっくりと思い出に浸ってくださいね」
「ああ、はい。あ、お湯の温度って気にしなくていいですか」
 不思議な何かを使う時には、きっと何か注意事項があるものだ。温度かどうかは分からないが、念のため訊いてみた。
「温度を変える必要は特にございません。ただ」
 そこまで言ってから、一瞬間を空けた。少しだけ首を傾げて続ける。
「長く浸りすぎるとあまりよろしくないので、ほどほどでお上がりください」
 ほらやっぱり。こういうの、きっととても大事なことのはずだ。守れなかったらとんでもないことが起こるやつ。
「それって……」
 もう少し訊こうとしたその時、「すみません、見せてください」という黄色い声が入ってきた。制服を着た女子学生三人が、しゃべりながら店内を見回す。狭い店内で、押し出されるようにして私は扉へと移動した。
「ありがとうございました。またどうぞ」
 女性店員の声が背中に届いてしまったので、仕方なく会釈して店を出た。まあ、守ればいいだけのことだ。
 せっかくなのでと思い、帰宅してすぐお湯を溜めた。洗面所の洗濯機横の籠に、無造作に放り込まれている靴下が目に入る。靴下は分けるようにってもう何度も言い聞かせているのに。ため息が出る。たまっていくのは洗濯物だけじゃない。
 浴槽に入浴剤を入れる。ピンクの顆粒がお湯全体に広がっていく。ほんのり甘い香りも悪くない。指輪を洗面台に置き、入浴準備を整えてから浴室へ。
 若かったのになぁ、私。油断し始めたおなか周りを泡立てながらついつい考えてしまう。まったく、何が思い出よ。そんなものに浸っていられるほどお気楽じゃないんだから、でも、綺麗なピンクだなぁ。桜か、バラの香りをイメージしてるのかな。女子力って言葉が似合いそうなお湯。そういえばここに越してきてからスカート穿いてないかも。
 左足からゆっくりとお湯に浸かっていく。
 ふんわりと全身が包まれるような温かさを感じる。滑らかで優しくて、ほっと安心するような感覚。ああ、この心地よさは、知っている。何だったっけ。肩まで浸かって、瞼を閉じる。浮かんでくるのは、どうしてだろう、あの人だ。あの人と初めてのデートで行ったおでん屋さんの湯気を感じる。変なの。どうして今突然おでんなんて。でも、あの時は……せっかくレストランを予約していたのに、電車が止まって間に合わなくて、がっかりしちゃった帰り道だった。寒いって言いながら歩いていた中で見つけたおでん屋さん。あの人はこんなところじゃ申し訳ないとか言っていたけれど、私は、一緒にいられたらどこでもよかった。それにおでん屋さんの店先に漏れるオレンジの光が温かそうで、中の人たちの楽しそうな声が聞こえてきて、全然二人っきりのいい雰囲気にはならなそうだったけれど、私が求めているのはこういう温かさだったんだって思った。この人と一緒に、あったかいところで、あったかいねって言いながら、なんでもないおでんを食べる。楽しかったなぁ。そうだ、それから付き合って一周年も、二周年の日も、おでん屋さんにしたんだった。そして忘れもしないあの三周年記念の日も。だから期待した。ものすごく期待していた。だってもう三年だよ。もしかしてって思うじゃない。私、結構いい年なんだから。それなのに……
「ハルに渡したいものがあるんだ」
 そう言って、あの人がテーブルに置いたのは、一目見て、それと分かる箱だった。やった。ついに、と思った。
「これって、もしかして……」
 口に出したけれど、出さなくてもわかった。だって、この箱に入るものは一つしかないもの。だから嬉しくって仕方なくって、ドキドキしながら、そっと開いた。
 それは金色で、植物の蔓みたいな彫りが全面に入ったデザインで、私好みで、一目で気に入った。だから左手を彼の前に突き出して言った。
「はめてくれるんでしょ?」
 その時の彼の、ちょっと驚いた顔は忘れられない。「意外」という雰囲気がぴったりの、少しずれた笑顔。でも彼は、私の手を取った。でもなぜか私の親指にはめている指輪を外した。
 その時の私の、ちょっと驚いた顔は、彼の目にどう映っただろうか。今となっては訊くこともできないけれど。
 彼は箱から指輪を出すと、そのまま私の指にはめた。ぴったりだった。私の左手の、親指に。
「よかった。サイズぴったりだった。三周年記念のプレゼントだよ、驚いた?」
 その時の私の、かなり驚いた顔は、彼の目にどう映っただろうか。嬉しかったけれど、嬉しかったけれど、欲しかった嬉しさとは種類が違う。
「ハルはいつも左手の親指に指輪してるじゃない? だからいつも身につけてほしいなって思って、どう? 気に入ってくれた?」
 あの人の無邪気な声まで蘇ってきた。気に入ったよ。だから別れた後も、今もずっと、普通に好きな指輪として使っちゃっている。
 悪いひとじゃなかったんだけどなぁ。私が悪いひとだったのかな。もっと、喜んであげればよかったのかな。いや、でも待って。私と別れた翌年に結婚するなんてひどくない? それを共通の友達から聞かされた私の身にもなってよ。あれからもう四年になるかな。結構昔の話だと思ってたのに、なんだか、苦しい。……息苦しい。目が、開けられない。あれっ。ちょっと待って……水が、明かりが、揺らめいている。ここはどこ? どうなってるの?
 お湯だった。はっとして身を起こし、浴槽の中で慌てて座り直した。
 いつも通りのお風呂場だった。
 手を見る。すべての指先がしわしわになっている。そういえばお湯も、こんなにぬるくなっている。どのくらい入っていたのだろう。
 ここが現実。私の今だ。よかった。
 熱いシャワーを浴びてから、浴室を出た。
 適当に放り込まれた靴下に、気にしないで投げ入れている下着。ダメだっていつも自分に言い聞かせているのに。こんなに大雑把な私じゃ、寄ってくる人も通り過ぎて行ってしまうかも。あっ、だから通り過ぎていっちゃったのか。
 思い出の中のあの人は、優しかった。また何か持っていったら、入浴剤にしてくれるかな。
 思い出はいつだって心地いい。思い出に浸りたくなる夜だってあるよね。でももし、さっき、あのままずっと、目が覚めなかったら? 思い出に浸り続けてしまったら? 
 店員さんが言っていたのは、きっとこういうことだったのだろう。

「そういうことですよね? 浸り続けてしまったら、もう戻ってこられないんですよね」
 翌日、入浴剤の店を再び訪れた私は、レジの女性に話かけた。なんて恐くて魅惑的な商品を扱っているのだろう、この店は。誰だって、いい思い出の中には、ずっと浸っていたいって思ってしまうもの。
 すると女性店員は、一瞬、きょとんとした表情を浮かべた。
「いえ、あくまでも入浴剤ですから。戻って来られなくなるわけではありませんよ」
 その声色は、穏やかだった。
「えっ、でも、長く浸りすぎるのは良くないって言ってましたよね」
 すると、彼女はにこっと笑ってこう答えた。
「はい。長く浸かりすぎると、湯冷めしてしまいますから」

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