見出し画像

ようこそ笑店街へ【36】ある記録

ある記録

 それは、笑店街から遠く離れた都心でのこと。
 正確な始まりの場所や日時といった具体性は定かではなかったが、はっきりとした出来事として第三者に認識されたのは、ある男性の発した言葉からだった。
 ある日の夕刻、仕事帰りの若い男女二人がタクシーを利用した。
 二人を乗せ、しばらく走っていたタクシーが、目的地近くまで来た。そこで、
「お客さん、まもなくですが、どこで停めますか?」
 と運転手が問いかけた。
 その時、乗っていた男性の発した一言が事件だった。
「その角を右に右折してください」
 同乗していた彼女が、それを聞いて小さく笑った。
「右に右折って、同じこと言ってるじゃない」
「えっ、ああ、そっか。確かにそうだよね。俺、何言ってるんだろう」
 そんな男女の微笑ましいやり取りが続くなか、二人を降ろしたタクシーは、夜道を走り去って行った。
 その後、二人の男女は予約していた高層ビルのレストランへ向かった。ウエイターに案内され、窓際の席に着く二人。大きな窓から外を眺めて、はしゃぐ彼女に、男性も嬉しそうに目を細めていた。
「気に入った? これを見せたくてね。予約できてよかったよ」
「ありがとう。私、夜の夜景を見るのが大好きだからすごく嬉しい」
 今度はその言葉を聞いた彼が小さく笑った。
「おいおい、さっき俺のこと笑ったくせに、君こそ何言ってるんだ」
「何って? 私何かおかしいこと言った?」
 きょとんとする彼女に、男性はからかうように言った。
「夜の夜景って言っていたよ」
「夜の夜景……って、ほんと? 気づかなかった。やだ、あなたの言葉がうつっちゃったみたいじゃない」
 言葉とは裏腹に、楽しそうな二人の顔が窓に映っていた。
 
 それから、この男女の場合と似た不思議な現象が、あちこちで起きていった。

 例えば街中で、女子高生たちが交わす言葉に表れた。
「昨日どうしてメールの返信、返してくれなかったの?」
 携帯を片手に口を尖らせる。すると相手は、頭に手をやりながら、申し訳なさそうに
「ごめん、昨日は頭痛が痛くて、近くの近所に薬を買いに行っていたの」
 と弁明した。

 例えば、スポーツバーでは、大勢の人が口々に。
「今日は初のデビュー戦だな」
「そうそう、初めての新人だから応援しちゃう」
「腕の腕力が強い選手らしいぜ」
 ボクシング選手の真似をして、握りこぶしを作る。
「そうなんだ、じゃあ、手の握力もきっとかなりのものよね」

 例えば、とある会社では、同僚たちが声をひそめて話していた。
「今朝の朝刊見たか? あの会社が新しくリニューアルした新商品の話」
「ああ、見たよ。だから社長が激怒して怒っちゃったみたいで、部長が朝一で呼ばれたらしい」
「同じ同業者の競争相手だからな。先に先行してやられた、って感じだよ。うちこそ一番トップで出さなきゃ意味がないって……」
「分かってる。それが簡単にできれば苦労しないよな。難しい難問ばっかりだよ」
「こうなりゃ、今ある在庫、全部完売してやろうぜ。とりあえず売り上げを上げるんだ」
「いっそのこと、一点買ってくれた人には、何か無料プレゼントとかやっちゃう?」
「いいね、俺たちで新しい企画出すのも、ためらって躊躇してる場合じゃないもんな」
「結局最後の結末さえうまくいけば万歳だ」
 などと、あらゆる場面で、同じ意味と思われる言葉が繰り返し口から発せられるという妙な現象が起きていた。最初は皆、会話している相手の言葉のおかしさに気づいて笑う程度で済んでいた。しかし、いざ自分が何かを話す際にも、同じ類の現象が起きていることを相手に指摘されて初めて、この現象がそれぞれ無意識に表出しているものだと発覚した。
 この現象が全国で観察され、広がるのはあっという間だった。テレビ、ラジオ、インターネット、もちろん電話など、あらゆる場所に声は届き、言葉は運ばれていった。

「えっ? おかしいって、どういうことですか?」
 ある日桂子からの電話に出たハルが、思わず耳を疑った。
――ハルちゃん、テレビとか見てないの? 最近ニュースで毎日やってるのよ。
「実はテレビ置いてないんです。携帯とパソコンはあるので」
――最近はネット見れば何でもわかるもんね。広告業界も大変だわ、この時代。でも、ハルちゃん、ネットでもニュース見てないでしょ。
「すみません。笑店街で暮らしていると、外の世界を遠くに感じてしまって。こういう生活も悪くないなって」
――それは同感。
「なので元いた世界のニュースに興味がなくなってしまって。働いていた頃は、常にトレンドを追いかけて情報を集めていたのに。今の自分にびっくりです」
 小さく笑って言うハルに、桂子の声もふっと緩んだ。
――人は変われるものよね。ハルちゃんの新しい新生活が成功して本当に嬉しいわ。
 その桂子の言葉に、引っかかった。
「桂子先輩、新しい新生活って、逆に新鮮な言葉ですね、ありがとうございます」
 ハルは、桂子があえてその言葉を使ったのだと思い、電話の向こうの先輩に礼を言った。ハルが新卒で入社した広告会社で、言葉の効果的な使い方を指導したのは桂子だった。入社当時の記憶が蘇って、ハルはじんわりと嬉しくなる。
 しかし、桂子の次の言葉は、ハルの心をざわつかせた。
――私、今そんな言葉を使ったの? どうしよう、私も……嘘、そんな。ごめん、ハルちゃん。
「桂子さん? どうしたんですか? 何かあったんですか?」
――なんでもないわ。ちょっと具合が悪いだけかも。うん、きっとそう。
「大丈夫ですか? 私、行きましょうか?」
――来ないでっ。私ももうしばらく自分の自宅から出ないでおくから。ハルちゃんも、気をつけて。ニュース、ちゃんと見て。
「桂子さん? もしもし?」
 ハルの手の中から、桂子の声が消えた。
 自分の自宅? 桂子先輩の言葉は冗談ではなかった? ハルはざわざわした気持ちを落ち着けようと、ノートパソコンの電源を入れた。パソコンを開くのも久しぶりだった。
 そして、世間で謎の現象が起きていることを知った。

 テレビやインターネットでは連日、この現象についての特集番組を流していた。脳科学者や言語学者、心理学者といった、関係がありそうな人物が招かれては、
「まず最初に申し上げたいのは、今の現状では、日本語の未来において、危険が危ないということです」
「ええ、その通りです。だが、わたくしの私見としましては、人の人生において、言葉は移り変わるもので……」
 などという、わかりきったことで場をそれなりに盛り上げた。しかしながら結局は、結論が出ないまま、通常より二倍の時間がかかる討論をだらだらと流すだけとなっていた。
 特に健康に直接的な被害は見られないものの、様々な言葉に繰り返しの要素が加わるため、次第に精神的ストレスを感じる人が増えていった。気にならない人やそもそも気づかない人、逆に面白がる人もいたものの、話すのも、聞くのも耳障りだと感じるようになった人たちは病院に駆け込んだ。しかしこの症状の治療法もわからず、特効薬も見つからない。だが、ある時、どこかの、何科かの医者が何気なく口走った
「何人もの患者を診ましたが、異常は見当たりません。でもこの流行の速さと強さはインフルエンザ並みですね」
 という言葉をきっかけに、この現象はいつの間にか、ダブルエンザと呼ばれるようになっていた。

「辰巳さんは知ってた?」
 笑店街で見つけたハルが声をかけると、辰巳は、ああ、となんでもないことのように頷いた。
「ああ、って。ああじゃないでしょ。なんかあちこちで大変なことが起きているみたいですよね」
 ハルが早口で言うと、辰巳は、困ったように笑って言った。
「そうですね。少し前に乗せた海外からのお客さんも、ホテルで『頭痛が痛い』っていう面白い日本語を見つけたって言ってましたもん」
「面白い日本語、って……面白いで済めばいいかもしれませんけど、このままだとみんなの言葉がおかしくなっていっちゃうんじゃないですか」
「でも、僕たちにはどうしようもないことですよ」
 さらりと言う辰巳に、ハルはムッとした。
「辰巳さん、冷たくないですか。確かにどうしようもないことかもしれませんけど、このままじゃ笑店街にも被害が出てしまうかもしれないじゃないですか」
「それはどうでしょう?」
「なに? その意味ありげな笑い」
「ハルさん、ダブルエンザに気づいたのって、いつですか?」
「いつって……今日、だけど」
 すると、辰巳は、ふふっと笑った。
「何がおかしいのよ」
「だって、もう世間で騒がれてから軽く二ヶ月は過ぎていますから」
「えっ、そんなに前から?」
「そうですよ。最初に現象が発見されたのはもっと前だったみたいですけど」
「辰巳さん、詳しいね」
「ええ、実は隣町に住んでいるので、ここより情報が入ってくるんです」
「待って待って。ここよりってことは、笑店街は閉鎖されているってこと?」
「違いますよ、僕も原因や理由はわかりませんが、ここではそんな現象が起きてないってだけです」
「本当?」
「だって、ハルさんも気づかなかったでしょ?」
 そう言われると、確かにそうだった。桂子に言われてニュースを見るまで、世の中でそんなことが起きているなんてまったく気づかなかった。
「もしかしたら、笑店街はものすごく免疫力が高いのかもしれませんよ」
 思いついた、というように爽やかな笑顔で辰巳が言う。
「免疫力?」
「そう。笑いは副作用のない薬だって言うでしょ? 笑う門から入って来る笑店街では、みんな笑っているから健康なんですよ。だから日本語の謎の乱れにも動じない」
 いつもひょうひょうとしていて、見た目も言葉もふわっとしている男から、芯の通った言葉を聞いた気がした。
「辰巳くんはいいこと言うじゃないか」
 太い声が歩いてきた。振り向くと、金満さんが立っていた。
「こんにちは」
 ハルと辰巳の声が合う。
「今日も朝からニュースが騒がしくてね。テレビを消してしまったよ。沈黙は金だからね」
「そういえば金満さんは笑店街の笑店会長さんなんですよね。ダブルエンザの備えとか何か考えられていますか? っていうか、何をしたらいいのかわかりませんけれど」
 ハルが試しに訊いてみると、はっはっはと豪快に笑った。
「笑店街は、問題ないからね。さっきの辰巳くんの話だけど、NK細胞ってハルさんは知っているかな?」
「NK細胞?」
「ナチュラルキラー細胞っていう最強の免疫細胞なんだけどね、ほら、ガンも攻撃できるっていう。これの好物がどうやら笑いらしいんだよ。笑店街には溢れているからね、もうこの町すべてがNK細胞と言っても過言ではないね。そのおかげか、笑店街は百年連続ご長寿日本一を保っているんだ」
 辰巳がハルに「雄弁は銀だから、話、長くなりますよ」と耳打ちする。
「NK細胞ね、笑店街では、これを『なんだかカッコイイ細胞』と読み替えたいと密かに考えているんだよ。ハルさんももうこの町に来て充分慣れただろうから分かってくれますよね。この町ではみんな、全力で日本語を駆使して遊んでいる、いや、生きているんだ。だから誰にもダブルエンザ現象が起きないんじゃないかと確信している。世の中の人たちは笑店街の価値に気づいていないようなんだがね。そう思わないか? みんな、日本語に無自覚すぎるんだよ。古き良きことわざやたとえ言葉はご先祖様の生活の知恵だ。ダジャレも結構、親父ギャグも結構だろう。言葉で遊べるのは日本語の美徳だよ。なんだかカッコイイと思わないか?」
 辰巳の予告通り、金満の演説は続いた。恍惚とした表情さえ浮かべ、冬を感じさせない上気した雰囲気をまとっている。
「勉強になります」
 と思わずハルは拍手しそうになった。
「でも皆さん、ダブルエンザっていっても別に病気ってわけではありませんよね? そういう名前を誰かがつけただけで。みんなが話すときに気をつければいいだけじゃありませんか? ちゃんと日本語を使おうという意識さえあれば」
 ふと思いついた疑問を口にしたところ、金満に大きなため息をつかれてしまった。
「その通りなんだよ。最初の頃はみんな、言葉にしてしまってから、はっと気づいて笑って、注意しなきゃって思っていたようだね。それなのに最近は気づかないままになっていることが多くなってきたらしい。変に慣れてしまったのか、言葉は相手に通じればいい、ただそれだけになっているのかもしれない。気づけさえすれば直せると思うんだけどね」
 そこで、金満は少し寂しそうにうつむいた。
「気づけないのが、一番恐ろしいことだよ」

 金満の言った通り、それからも笑店街では何も起こらず、起こっていたのは、いわゆる外の世界だけだった。境界線も何もなかったが、不思議と笑店街近辺の地域では、そういった被害は報告されなかった。

ダブルエンザの影響を特に強く受けたのは、日本でいわゆる有識者と呼ばれる知識人たちだった。学者や研究者、教育者など、語彙が豊かな人ほど、日常会話はもとより寝言にまで及んだ。
 ようやく国が重い腰を上げたのは、被害が全国規模となってしばらくしてからだった。なぜか政治家たちの間では被害が軽かったため、事態の深刻さに気づくのが遅れたようだった。だが国の研究機関が全力を挙げて調査、研究を開始したところで、やはり原因の究明には至らなかった。
 それから世間ではあらゆる事象が見られた。
例えば、新手の新興宗教が興った。
「子供たちのこれからの将来を考え、良いハッピーエンドを迎えるために、今こそ私たちが重い重責を担って一致団結する時です」
 との教えのもとへ、自分の我が子を抱えて入信する若い母親が後を絶たなかった。
 例えば、語彙を増やすのが症状を悪化させると教育委員会が声高に叫び、国語が時間割から姿を消した。
 例えば、本を読書することもよくないという噂が流れると、本屋や図書館では、小さな小競り合いが頻発し、本好きや、本の書評を書く書評家などが本を守るために立てこもるという事件も発生した。

「ねえ、何か新聞の言葉も変じゃない?」
 ある日、辰巳の持ってきた新聞を広げ、時計塔のベンチで文字を追っていたハルは、たまらない、という風に辰巳に新聞を突き出した。
「やっぱりそう思います? 僕も今朝見て、余計に寒くなっちゃいました」
「だって、これまでって、話し言葉だけだったでしょ? つい言っちゃう、みたいな。だって、文字にしたらさすがに気づくもの」
「ですよね。これですかね、この間金満さんが言っていた、気づけないのが恐いっていうのは」
 ハルは時計塔を見上げた。
「時間が解決してくれるのかな」
 辰巳も見上げた。
「変わっていってしまうかもしれない。それも解決のひとつなのかも」
 その言葉にハルが食いついた。無意識に声が大きくなる。
「みんなが変だと気づかないなら、それが当たり前になるってこと? そんな言葉に、気持ちなんて入らない」
――福野さん、言葉に自分の気持ちなんて入れなくていい。お客さんの購買意欲をそそるコピーさえ書けばいいんだよ。それが仕事なんだから。
――でも、気持ちの入っていない言葉なんて、誰かの気持ちに刺さるとは思えません。
――売れなきゃ意味がないんだよ。成果を上げなきゃ、うちに金を払って広告を依頼してきたクライアントの要望を叶えるのが……
「ハルさん?」
「えっ、ああ、ごめん。ちょっと昔のことを思い出しちゃって」
「嫌な思い出、ですか?」
「まあね。自分のやりたい仕事だったはずなんだけど、やりたくないことをやっていた気がして、もう我慢できなくなって、ついに、辞めちゃった」
「ハルさんがやりたかったことって何ですか?」
 辰巳がいつになく真剣な顔で訊いてきた。口元に笑みはない。ハルは一瞬間を置いてから、答えた。
「自分の言葉で誰かを幸せにすること……なんて、大きすぎて恥ずかしすぎるかな。幸せっていうか、楽しませる、でもいいかも。そういう」
「かっこいいです!」
 辰巳が言葉を遮るように力強く被せて言った。
「それ、金満さんが言う『なんだかカッコイイ細胞』みたいじゃないですか」
 いつもの笑顔で辰巳が白い歯を見せる。
「もう、何言ってるのぉ」
 ハルもつられて笑った。
「ほらハルさんも笑った。ハルさんの言葉で、僕、笑えたんですよ」
 なんだかカッコイイ細胞、そんなものがあるなら、今この瞬間に活性化しているかもしれない、そんなことを思った。
「ありがとう」
「ハルさんの言葉、たくさんの人に届けてみたらいいんじゃないですか。というか、届けましょうよ」
「えっ、何言ってるの? どうやって?」
「方法は……」
 辰巳が腕を組んで空を見上げる。
「ビラを配る、とか。実は僕、新聞配達やってるんですけど」
「配る……そうか、配信すればいいんだ」
 今度はハルが辰巳の言葉に被せる。
「配信?」
「今の時代に合ったやり方でね。あ、もちろん新聞が合ってないって言っているわけじゃないの。一瞬で世界中に届けられる方法でやる。みんなが気づいてないなら、気づかせたらいい」
 ハルは勢いよく立ち上がった。
 冬の空はどこまでも澄んで遠く青かった。乾いた風は頬に冷たい。でも、内側から火照っていく体には心地よかった。
「辰巳さん、もちろん協力してくれるよね?」
 ハルはニヤリと笑った。

 ピーンポーン。
「おはようございます」
 辰巳の低い声を聞いて、ハルが玄関に出ていく。外はまだ暗い。始まったばかりの今日だった。
「おはよう。収穫は?」
 そこにはジャージ姿の辰巳が立っていた。法被以外の格好は初めてだった。思わず、誰? と言いそうになる。
「昨日からの分も合わせて、いくつかメモしてきましたよ」
 そう言って辰巳がポケットから取り出したのは、折り畳まれたチラシだった。裏の白紙に、走り書きが躍っている。
「ありがとう。でもわざわざ来てくれなくてもメールで送ってくれればいいのに」
 ハルの言葉に 辰巳はなぜかショックを受けたようにうな垂れた。急に、雨に濡れた子犬、という表現が頭に浮かぶ。なんだろう、この感じは。
「冗談よ。コーヒーでも飲んでいく?」

 ブラックコーヒーを飲みながら、辰巳はゆっくりと話した。
「朝が早すぎるんです。特に今の季節はまだ真っ暗なので、たまに犬の散歩をしている人を見かけるくらいしかなくて。街の人の自然な会話から言葉を拾うなんて、この時間は無理っぽいです」
「まあ、そうだよね。ごめんごめん。朝刊配るっていうから、街のあちこちを回って集められるかなって思ったんだけど」
 ハルは辰巳のメモしたチラシを見ながら言った。
「その割には結構集まったね」
「夕刊の担当もちょっと代わってみたので……」
「すごい。夕刊も? 若いっていいね、体力あるね。隣町ってどのくらいの家を回るの?」
 返答がなかった。
「ねえ」
 と言って辰巳を見ると、テーブルでマグカップを持ったまま、うつむいていた。まさか、眠っている? こんな一瞬で? 本当に? ……まつ毛が長いな。静止した横顔なんて初めて見た。うつらうつらという効果音でも聞こえてきそうな、浅い眠りが気持ちよさそうだった。
「カフェインもびっくりの寝つきの良さね」
 雰囲気につられたハルも小さなあくびをした。

「あ、あれ?」
 辰巳がテーブルから身を起こした。肩から何かがするりと落ちる。毛布だった。いつの間にか陽射しが変わっている。慌てて時計を見た。
「すみません、寝ちゃってました?」
 落ちた毛布を拾うと、向かい側に座っているハルに渡した。
「うん、本格的に寝てた。よく起きなかったね。私が向かいでこんなにパソコンカチャカチャ触っているのに」
「すみません」
「でもおかげでかなりの数アップできたよ。私が集めたものと、辰巳さんが集めたもので結構たまった」
 ハルが辰巳にパソコン画面を見せた。
 画面には、たくさんの用例が綴られていた。
『気づいてください。同じ言葉を重ねて使っています。街中で見つけたものや、テレビなどで発見した現象を集めました』
 そんな呼びかけから始めて投稿したSNS上のメッセージだった。ひとつの投稿に言葉をひとつずつ配信していく。

・隣の隣人から聞いた話。
・驚愕の驚きがあった。
・「そこにある小さい小皿を取って」とお父さんが言った。
・周りの近所が迷惑している。
・モーターが回転して回っている。
・過去のバックナンバーを見る。
・山の山林にある太い大木がが伐採される。
・プロの専門家に任せよう。
・外にある室外機を見てくる。
・指の指紋が。
・「冷感を感じます」とテレビのアナウンサー。
・「流れてきた流木」もアナウンサー。
・「雷鳴が鳴っていますね」と天気予報で。
・「雨の雨雲が」も天気予報で。
・「甘いスイーツみたい」と食べ歩き番組。
・「次に流行るネクストブレークレシピは一体なんでしょう?」とアナウンサーらしき人。
・「クイズの質問です」とクイズ番組。
・「新しい新鮮な野菜をお届けしたい」と市場の人がテレビでコメント。
・新しい新茶、新しい新築、新しい新党、新しい新生活……

「どう? こんな風に、誰かが使っている言葉を見つけたらネット上にどんどん投稿していこうと思うの。まだ集め始めたばかりだけど、結構あると思わない?」
 ハルの言葉に、黙って見ていた辰巳が頷く。
「ちょっと面白いくらいですね。口にすると気づかなくても、文字で見ると、はっとします」
「あ、見て。もう、いいね、みたいな反応がいくつかついてる。見てくれた人がいるんだ」
 嬉しそうなハルを見て、辰巳もそっと笑った。
「きっとこれから気づいてくれる人が増えていきますよ。気づきさえすれば、意識して、使わなくなりますもん」
「うん。信じてみようと思うんだ、希望とか奇跡みたいなものを。いつだって言葉は力をくれる。それってきっと、言葉を使った人の想いが伝わってるからなんだよね。だから私は言葉の力を信じ続ける。この呟きは、小さな一歩だし、自己満足かもしれない。もちろんお金を稼げるわけでもない。でも、誰かのためになるかもしれない仕事ってこういうところから始まるのかな、なんて思っちゃった」
「いいじゃないですか。僕だって、調子に乗っているの、完全な自己満足ですもん」
「じゃ、私も堂々と自己満足で。今回の騒動……最後のフィナーレを大団円で終わらせるために頑張る」
 その言葉を聞いた辰巳は、ギョッとしてハルを見た。
「なんちゃって。無理矢理使うの、結構難しいね」
 そう言って、へへへっと笑った。

この記事が参加している募集

スキしてみて

この街がすき

読んだ人が笑顔になれるような文章を書きたいと思います。福来る、笑う門になることを目指して。よかったら、SNSなどで拡散していただけると嬉しいです。