仙台在住パート主婦 自己否定の日々
結婚退職した私はそのまま専業主婦となった。結婚に伴う引っ越しという理由で退職したため、失業手当はすぐに支給された。
多忙な夫以外誰も知り合いのいない仙台での生活は孤独だった。どこの組織にも属さず仕事もしていなかったため、自分が仙台という社会の一員だという意識を持てないまま宙ぶらりんな存在になっていた。「これでよかったのだ」と自分を納得させつつも、不安だった。
3か月間の失業手当が切れる前に仕事を見つけた。東北大学での研究室秘書の仕事だ。そもそも「会社員として失格」だと思ってリクルートを退職したのでフルタイムで働くという選択肢はなかった。しかし企業で派遣のアシスタント職というのも正直抵抗があった。今思えばその時に企業で働く選択をしていたら、辛うじてビジネス界の片隅には居られたのに、くだらないプライドが邪魔をした。
そこで、まったく畑違いのアカデミックの世界にいくことにした。週3日、青葉山の研究室に通い、文献の翻訳をし、先生の著書執筆の手伝いをし、国際研究会の企画・運営のサポートをした。この頃は事務ではなく研究補助の仕事が中心だった。著書執筆の手伝いには編集時代の知識が役立ったし、英語を使って世界各地の研究者の先生とやり取りもした。研究会の企画サポートではプロジェクトマネジメントの経験が役に立ったし、東京で実施した国際研究会では私も出張して運営をサポートした。
ところがある日突然契約終了を告げられた。補助金が切れるので、私を雇う財源がなくなるのだという。非正規雇用の立場の危うさを身をもって知った経験だった。ショックだった。
軽い失意のなかで私が新たに見つけた仕事は同じく東北大学内の別の研究所での研究室秘書だった。夫の仙台勤務はすでに5年目を迎えようとしていて、いつ東京に戻ることになるのかわからなかったため、新しく何かを始めるよりもそれまでに近いものを選んだのだ。しかしこの仕事を続けるうちに、私はだんだん自己否定を始めることになる。
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新しい研究室での仕事は事務兼雑用だった。先生方の出張の手配と伝票の処理、海外から来る研究者のビザ手配、秘書室の掃除が主な仕事だ。正直言って非常に簡単な仕事だった。しかしそれと同時にだんだん物足りなさをはっきりと自覚するようになった。
前の研究室での仕事ではまだ自分の能力を活かすことができていたように思う。しかし新しい研究室ではそんなものはまるで必要とされていなかった。そしてただ指示通りに動く仕事は私の性分には合わなかった。
しかし退職してすでに数年経過しており、その間にもうビジネスの世界には戻れないという気持ちが育っていた。そもそも異動をきっかけに体調を崩した私は会社員として通用しないという諦めもあった。簡単な仕事をしてあとは家事をやっている自分。頭が錆びついていくことに対する焦りがあった。
たまに東京に行って街を歩いていても、自分がひどく野暮ったく感じられた。友人と会っても、フルタイムで仕事をしていたり、そのうえ子育てまでしていたりする彼女たちに引け目を感じたし、人に仕事を尋ねられたときはわざと格好つけて「東北大学の職員です」と言っていた。実際に職員証も持っていたので嘘ではないが、実態は「扶養の範囲内」のパート事務兼雑用係だった。
経済的に自立せず、子供も産まず、震災復興ボランティアもせず、情熱を持てることは特になく、毎日テレビを見て次の旅行のことばかり考え、世の中に対してろくに価値を出していない自分が後ろめたく恥ずかしかった。
そんなときに回想したのはゼクシィ時代である。仕事で初めて自信を得られた企画・マーケティングの仕事は輝かしい思い出だった。もう一度そんな仕事をして、自分に自信を取り戻したかった。
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そうして煮詰まった私は就職活動を通して絶望する。どこに行っても「主人」について言及される。私は召使ではないのに。夫の付属物じゃないのに。しかし経済的に夫に依存していた私に反論のすべはなかった。
私個人の人生なんて、もうなくなったのだと思った。自分が無価値に感じられた。自分がこれまで積み上げてきたものなんて何でもなかった。いやそもそも何も積み上げてきていなかった。
なぜ今までキャリアのことを真剣に考えて選択してこなかったんだろう。みんなある程度目標を決め、そこに向かって「山登り」して頑張っている。目標なんて決められないと言い放ち、不確かな「勘」を頼りに流されてきた自分の甘さを呪った。(つづく)
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