ゆったん
躁のエピソード多めです。恥を忍んで書いてます。
日常生活を通じて気になったことについて
義妹夫婦が家に来た。ちなみに義理の妹とはいっても私よりも7歳年上である。そんな義妹夫婦には6歳になる息子がいてこの子が滅法可愛い。そしてこの子は小学一年生なのだけれど勉強が嫌だという。 まあ勉強が好きだという小学一年生は少ないだろうし私も勉強は好きではなかった。でも一応、なんで勉強が嫌いなのかと甥に訊くと勉強は難しいからだという。どこが難しいのかと訊くと…なんていう千日手になりそうな会話は早々に打ち切ったが、一言でいえばサッカーやゲームの方が面白いということだろう。
自分がnoteとどう向き合っていくのか、関わっていきたいのかを真剣に考えんといかんなと思いました。いまのままではしんどくなるなと。いろんな自分がいてその一人一人と折り合いをつけていくのが難しい。心の底から書きたくなるまで、それを読んでもらいたくなるまで休みます。ちょっと疲れた。
※この記事は以前のものを大幅に加筆&修正したもの。今回は藤原道長の家系は除き、藤原宣孝と源倫子、それから紫式部の家系をまとめた。 この記事はいまや完全にわたしの自己満足。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー まず、道長の妻の源倫子と紫式部の夫の藤原宣孝の先祖をたどる。何故この二人かというと二人の曽祖父が藤原定方でわりと近い親戚だからである。 源倫子 倫子→源雅信→敦実親王→宇多天皇→光孝天皇→仁明天皇→嵯峨天皇 倫子→藤原穆子→藤原
みるみるうちに黒い雲で空が覆われ、生ぬるい風がわたしの頬を撫でて、髪の毛を揺らした。いまにも雨が降り出しそうな空模様だった。 「急ごう」鄭強が言った。そう言うや否や、鄭強がわたしの手を握った。それはとても自然な動きだったから、わたしは鄭強に手を握られたことに気づく暇もなかった。 小走りに路地裏を進み、角を曲がったところで目の前の視界が開けた。空が映画館のスクリーンのように目の前に広く立ちはだかり、黒い土が耕されたままの農地が見渡す限り遠くまで広がっていた。土の匂いや
打てない!打てない!そりゃあ投げるほうも踏ん張りきれないですよ。明日から開幕ですか岡田監督。6月を五割でいけたら御の字なんかな。はい、わたしものめり込み過ぎないよう気をつけます。
最近すこぶる調子がいい。2月から3月にかけてのひと月ほどは躁が強めにでてきそうな気配のときもあったけれど、早めに対処出来たのかそれも酷くならずにすんだ。わたしは結婚しているから配偶者が体調の変化に気づいてくれるので助かっている。一人暮らしだったらこうはいかなかっただろうし、どうにもならない気分の浮き沈みに苦しんでいるに違いないと思う。 こうも調子がいいと、わたしは双極症なんかではないのでは、とか、もう治ったんじゃないだろうか、などと思ってしまう。これも双極症あるあるなの
学生だった頃、深夜の繁華街のタクシー乗り場に並んでタクシーを待っていた時、あと少しでわたしの番だなというところでかなり年配の夫婦が割り込んで来ようとした。 わたしはカチンときて、普段だったらもめ事は起こしたくないというふうに何も言わずに我慢するのだがそのときは躁っぽかったのだろう。男性の方がわたしを見て何かを言おうとしたその時、カッとなって「おい!割り込んでんなや!後ろに並べ!」みたいなことを怒鳴った。そして乗り場の整理をする人にも「この人ら割り込んでんねんぞ、ちゃんと
「配られたカードで勝負するしかないのさ。それがどういう意味であれ」 スヌーピーの有名なセリフである。 「どうしてあんたが犬なんかでいられるのか不思議に思うわ」 そんなサリーの言葉にたいしてスヌーピーか無言で答える場面のセリフである。 いま手元にあるカードが人生なのである。そのカードだけでなんとかしなければならない。気に入らないからといって隣の人のカードと変えてもらうことは出来ないし、神様にもう一度配り直してもらうこともできないのである。 人生は勝ち負けで
NHK大河ドラマの「光る君へ」にはまっています。その中で主要な登場人物の血縁関係が複雑なので整理してみました(メモです。自分用)。本当は系図にすればいいんでしょうけれど図の作り方が分からないのでやめました。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー まず、道長の妻の源倫子と紫式部の夫の藤原宣孝の先祖をたどる。何故この二人かというと二人の曽祖父が藤原定方でわりと近い親戚だからである。ここでは倫子の父方の曽祖父は宇多天皇なのでそのままたどれば神武天皇
人からされて嫌なことは人にはしないという言葉があるけれど、これが出来ない人が大勢いるのはなぜだろう。その理由を考えてみてももう一つ納得のいく答えが出ない。 人からされて嫌なことは人にはしない。小学生の頃からよく聞く言葉だと思うんだけれど、大人なのにこれが出来ない人が大勢いるのには本当に理解に苦しむ。わたしは先輩からこういう嫌なことをされた。だから後輩には同じことは絶対にしない。こう思うのが普通じゃないのかなと思うんだけれど実際にはわたし達だって先輩から嫌なことされてきた
ジェンダーレスの社会といわれるようになってきた昨今、いままでは男性社会だった領域でも女性が活躍することは珍しくなくなってきたように思う。現時点では男女間での待遇やら環境の差別みたいなものは完全には解消されてはいないだろうけれど、そう遠くない将来にはこういった諸問題も解決されているのではないか。少なくとも今はお前は男だからとか女なんだからというような理由で人生や物事を決めつけられることは少しずつでも減ってきているように思うのだけれど、楽観的過ぎるだろうか。 そんな昨今では
双極性障害の特性のひとつに怒りっぽいということがある。易怒性ともいう。わたしもその例にもれず、躁のときはイライラしやすいし激昂しやすい。暴言を吐いたり罵倒したりするだけではなく、それほど頻繁にするわけではないけれどモノを投げたり蹴飛ばしたりすることもある。 双極性障害にはなぜ易怒性が顕著に出るのかは分からない。なるほどという回答にお目に罹ったこともないので何とも言えないけれど、いくつもある人間の感情の中でも怒りというのは慈しみや悲しみよりも発現しやすいものなのかもしれな
5月24日の阪神タイガース対読売ジャイアンツの試合をテレビにかじりついて観た。プロ野球に関心のあるかたならもう結果はご存じのとおり、試合は1対0で我らがタイガースの負けであった。しかもジャイアンツ相手に本拠地である甲子園球場でノーヒットノーランを喰らう(汚い言葉ですんません)という屈辱の敗戦であった。 そんなわけで追う阪神側にしても追われる巨人側にしても目が離せない試合展開となり、家事も後回しにしてテレビ画面にくぎ付けになっていたのだが、テレビ画面に映るマウンドに立つ巨
好きだったクリエイターさんがnoteから去った。自分が書いたものが多くの人に見られているということが次第に怖くなってきたからだと言っていた。なんとなくわかるような気がした。 インスタやXでは全然知らない人からいいねをつけられてもフォローされても何とも思わない。変なコメントを投げつけられても無視しておしまいである。でもnoteでは素性が分からない人からフォローされたりコメントを書かれると怖くなることがある。というか実際にあった。その人のことはブロックしたけれど。 ここ
いまからなにが書きたいかというとタイトルのままである。これは文章を書くことに限らず何事においてもそうかもしれないとも思う。 たとえば絵画でも、モネのあの素晴らしい作品群なんて、こんなことを言ってしまうと叱られそうだがただの睡蓮であるし、日傘をさした女の人である。ねえねえよく見て、この睡蓮ってよく見るとただの睡蓮じゃなくてさ、とか、この日傘をさしている女性ってよく見たら指が6本あるんだよね、びっくりしたよ、なんていうことはない。断じて無い。何回みても何の変哲もない睡蓮と女性
(前編からのつづき)そうこうしているうちに検査の日がやってきた。検査は2日に分けて行われて、初日に問診で2日目に様々な検査というスケジュールだったと記憶している。 様々な検査というのは簡単な計算問題をどれだけ早く正確にできるかとか、図形の問題やその他にも国語や理科、それから社会と時事問題についてなど。つまりはIQテストであった。ただ申し上げておくが記憶がさだかではないところもあり、実際には2日ではなかったかもしれないし検査の項目ももっと他にもあったかもしれない。 そして