愛とか憎しみとか怒りだとか

 双極性障害の特性のひとつに怒りっぽいということがある。易怒性ともいう。わたしもその例にもれず、躁のときはイライラしやすいし激昂しやすい。暴言を吐いたり罵倒したりするだけではなく、それほど頻繁にするわけではないけれどモノを投げたり蹴飛ばしたりすることもある。

 双極性障害にはなぜ易怒性が顕著に出るのかは分からない。なるほどという回答にお目に罹ったこともないので何とも言えないけれど、いくつもある人間の感情の中でも怒りというのは慈しみや悲しみよりも発現しやすいものなのかもしれないし、そのせいではないかとも思う。

 人間にはいろんな特性があって、その中でも突出しているものがそのひとを印象付ける大切な要素になることが多いのではないだろうか。例えばあのひとは愛のひとだよね、といったような具合に。そういった印象は憎しみのような自分を痛めつけようとするものに対して何で立ち向かおうとするかにもよるのだろう。おそらく愛の人というのは憎しみを愛で包み返そうとすることができる人なんだろう。

 それから何事においても自分自身を動かす動機が愛なのだろう。愛が原動力になって物事を動かしていく。そして一方で怒りや憎しみを原動力にする人もいるのだろう。

 そしてどうやらわたしは怒りのひとらしい。以前にもそう言われたことがあって最近もあるひとからそう言われたのであぁまた言われたと思った。そして自分でもそう思う。

 もちろん常に怒りが原動力だという訳ではない。日常生活において、例えば仕事のやり取りの原動力が怒りですなんていうことはないし、夫と結婚したのも怒りからですとか、怒りからインスタしてますとか。

 わたしの行動の基本は愛である。ただ、わたしは理不尽や暴力に対して怒りで立ち向かおうとする人間である。それらの自分に危害を加えようとするものを愛で受け止めるなんていうことは、どうやらいまのわたしには出来そうにない。(追・そういえば葬送のフリーレンにもまだ幼い魔族の子どもに情けをかけたことが仇になったエピソードがあったことを思いだした)

 わたしの場合、よろこびや悲しみなどといった感情の中でも怒りに敏感に反応しやすいような気はする。たとえば目の前に誰かに傷つけられて泣いている人がいたとして、まず事情を聞くとする。そしてその返ってきた答えを聞いたときにまずその人をハグしてあげて傷を回復してあげようとするというよりも、わたしの場合は怒り狂って「なに?そんなことをされたの?野郎!ぶち〇してやる!」といって外にとび出していくタイプである。ゴッドファーザーでいえば料金所でハチの巣にされる長男かもしれない。きっと単細胞なんだろう。

 そんなわたしは自分が精神障がい者になったことにたいしても障がい者に対する社会の理不尽にたいしてもチクショウと思っている。精神障がい者になって味わった様々な挫折感にめそめそと泣きながらもこうして耐えていることができているのもきっと怒りを原動力にしたこんちくしょう精神のおかげである。これらを愛で受け止めろ、受け入れろ、といわれてもはい、そうですねという訳にはなかなかいかない。

 でも怒りを物事を動かすバネにするのは良くないという。怒りは持続しにくいしやがては自分自身を傷つけることになるから良くないそうだ。じゃあ何がいちばんいいのかというと大きな愛だという。それは当然だなとも思う。でもすべてを愛で解決しろといわれても、理不尽や憎しみや暴力のようなものに愛で立ち向かうと言っても、いまのわたしにはもうひとつピンとこなかったりもする。

 わたしの愛はおそらくごく狭い範囲に限定されている愛なんだろう。家族や親しい知人(SNSの繋がりも含む)、友人、そして医者や看護師や窓口の人やコンビニの店員さん、宅配ドライバーさん、などといったいつも顔を合わせる人達。例外としては目に見える苦難(例えば貧困など)などにたいする救済したいという気持ち。これらはある意味、わかりやすい愛。

 まったく知らないところから投げつけられた憎しみや自分の身に降りかかった障がいにたいして、どうやって愛で対抗すればいいのか、いまのわたしには分からないけれど、時間がたてばいずれ理解できるようになるのだろうか。

 たしかにいまのイスラエルとパレスティナを見ていると怒りや憎しみはなにも産まないということがよくわかる。でも自分が彼らの立場になればどのように振舞うのだろう。銃を手にとって戦場に身を投じているかもしれない。憎悪に満ちた目でイスラエル兵を睨みつけてそのこめかみに銃口をあてているかもしれない。親兄弟、それから恋人を殺されていたら。どれだけみじめな命乞いをされようとも一切ためらわずに引き金を引くだろう。そんなこの世の地獄の中でも愛?答えは出ない。自問自答の日々。

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