忘れられない老夫妻

 学生だった頃、深夜の繁華街のタクシー乗り場に並んでタクシーを待っていた時、あと少しでわたしの番だなというところでかなり年配の夫婦が割り込んで来ようとした。

 わたしはカチンときて、普段だったらもめ事は起こしたくないというふうに何も言わずに我慢するのだがそのときは躁っぽかったのだろう。男性の方がわたしを見て何かを言おうとしたその時、カッとなって「おい!割り込んでんなや!後ろに並べ!」みたいなことを怒鳴った。そして乗り場の整理をする人にも「この人ら割り込んでんねんぞ、ちゃんと見とけや!」というようなことを大声で言った。

 整理員は気まずそうな顔をしてわたしたちの方を見ていたけれど何もしようとしない。それを見ているうちにまたイライラが募ってきて「さっさと後ろに並べや!」と男性に言った。

 すると割り込んできた男性の方が「すみませんが家内が具合を悪くしていて先に乗らせてもらえないだろうか」とわたしに言った。あとになって思えばその男性は割り込もうとしていたのではなくて、わたしに声を掛けようとしていたのだろう。わたしはイヤホンで音楽を聴いていたから気付かなかったのだ。

 わたしは「あっ」と思い、譲らなきゃと思ったその時に奥さんの方が「わたしは我慢できるから後に並びましょう」と言って、そのまま二人はわたしから離れた。そしてわたしは二人に声を掛けて順番をゆずろうと思えばそうできたんだけど、何となくその機会を見失ってしまった。

 そして後ろに並んでいた人がその老夫妻に順番をゆずったらしい。そういうやりとりが聞こえた。わたしはとても気まずくて居心地の悪い気分になって逃げるようにしてタクシーに乗った。タクシーに乗り込むとき、老夫婦のほうを見る気にはなれなかった。

 軽躁のせいなのかどうかは知らないけれど、かっとして暴言をはいたり罵声を浴びせたりすることがいままで何度もあった。忘れられない酷い思い出もあるし忘れてしまったこともたくさんあると思うけれど、このときの老夫妻のことはいまでも頻繁に思い出す。そしてつくづく自分が恥ずかしくて情けなくて嫌になる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?