つまらない話を面白くする

 いまからなにが書きたいかというとタイトルのままである。これは文章を書くことに限らず何事においてもそうかもしれないとも思う。
 たとえば絵画でも、モネのあの素晴らしい作品群なんて、こんなことを言ってしまうと叱られそうだがただの睡蓮であるし、日傘をさした女の人である。ねえねえよく見て、この睡蓮ってよく見るとただの睡蓮じゃなくてさ、とか、この日傘をさしている女性ってよく見たら指が6本あるんだよね、びっくりしたよ、なんていうことはない。断じて無い。何回みても何の変哲もない睡蓮と女性である。いや、違っていたらすみません。
 それがモネの手にかかればとてつもない傑作になる。わたしが睡蓮を描いても数百万人の人々の心を動かす名画にはならない。
 これは以前から痛感していたことなんだけど、つまりは伝え方のテクニックなんだなと思う。それからもっともらしい意味を取り出す力。それをこの前あるバラエティ番組を観ていてつくづくそう思った。
 ある芸人が芸人仲間にこんなことをしたというトークをしてこれが滅法面白かったのだか内容はなんてことないつまらない話であった。そして同じくアイドルの子が実家に泥棒が入ったときの話をして、これはすごいネタだなと驚いて期待しながらその話を聞いていたのだが話がうまく着地せず、但馬牛の中でも極上の部位のようなとんでもないエピソードを焦がしてしまっていた。すると周りにいる芸人たちがよってたかってそのエピソードにツッコミをいれたりボケたりしてなんとか面白かったふうにしてしまうし、その経験から感じたことはこれこれこうですという具合に意味のある話に仕立て直す。ああ、そうだわ話の中身がいくら面白くても結局は伝え方だわと思った。
 よくよく考えてみたら普通は(普通って何よ?とかは無しで)そんなに面白いエピソードがてんこ盛りなんていうひとってあまりいないとおもう。それでも書き続けていける方々というのはなんてことない事象から興味深いところは取り出す感性が凄いしそれを表現する技術も凄い。赤信号で待たされたみたいなことを三千字くらいでひとを惹きつける話に仕立てあげてしまう。面白おかしいエピソードが我が身に降りかかるのを待つのは無駄である。そんなこんなを小川洋子さんのエッセイを読みながら思った。
 わたしは最近書くことがなくて筆が鈍っている。というか書きたいこともあまりないし、プロじゃないんだから書きたい気分になったらまた書けばいいやなんていう具合にほったらかしにしているのだけど。でもなにか一つ適当にお題をきめて、面白く書くというトレーニングをするのもいいかなと思っている。でも多分やらないと思うが。無理して頑張ってそれがストレスになったらnoteをしている意味がない。
 でもつまらないことをさも面白いことのように表現できるテクニックのようなものはあったほうがいいなと思っている。言葉遊びのような技巧を凝らした文章には興味はないけど。先ずは会話から始めたい。

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