双極症が治ったとしても過去の失敗は消えない

 最近すこぶる調子がいい。2月から3月にかけてのひと月ほどは躁が強めにでてきそうな気配のときもあったけれど、早めに対処出来たのかそれも酷くならずにすんだ。わたしは結婚しているから配偶者が体調の変化に気づいてくれるので助かっている。一人暮らしだったらこうはいかなかっただろうし、どうにもならない気分の浮き沈みに苦しんでいるに違いないと思う。

 こうも調子がいいと、わたしは双極症なんかではないのでは、とか、もう治ったんじゃないだろうか、などと思ってしまう。これも双極症あるあるなのでいちいち気にしないようにはしているけれどそれでもやはり、障がい者じゃなければな、とか、双極症なんて治ってくれればいいのに、ということを切実に思う。やはり病気は無い方がいいし、障碍も無い方がいい。躁もつらいし鬱も死にたくなるほどつらい。当たり前だけど健康がいちばんいい。切実に思う。

 最近よく思うのが、いままでわたしがしてきた様々な躁のエピソードというのは全て躁のせいではなくて、わたしの持って生まれた性分だったとしたらどうしよう、ということである。

 そんなことを考えるのも最近調子がいいからだと思う。わたしが双極症ではなかったとしたら、いままでのわたしも実は双極症ではなかったのだとしたら、などと考えたりするからである。もしそうだとしたら。

 逃げ道がなくなってしまう。とてつもない後悔も自責の念も恥の意識もそれらはすべて病気のせいだから仕方がなかったんだ、というふうに処理することでなんとか自分を保っているから、これが病気のせいではなくてお前の人格の問題だよなんていうことになったら、そのときは本当に自ら人生にピリオドを打つかもしれない。サイコパスのような人間性のままで生きていくのはつらすぎる。いずれとんでもないことを仕出かすかもしれないのに。

 障がい者じゃなくなればどれだけいいいかと思っているのに、障がい者ではなくなったら自我が保てなくなってしまうという矛盾。結局はこの矛盾を抱えて上手く折り合いをつけながら生きていくしかないということなのだろうか。

 それに明日双極症が完治して障がい者ではなくなったとしても、健康な心身を取り戻すことが出来たとしても、今まで散々人を傷つけたり自分自身が恥をかいたりしてきたたくさんの事実は消えずに残る。清算は出来ないのだ。それを思うと結局は救われることはないんだなと思う。

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