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【最終話】ぶこつでやさしいスープカレー屋さん KIBA 第17話「KIBA」約7000字/全17話/創作大賞2024恋愛小説部門




 ぐー……とお腹が鳴った。

 私はずり落ちてくる眼鏡を押し上げ、前髪を撫で付け、うーん、と小さく唸り声を上げた。

 六月の下旬の日曜日の昼時、私は街をふらふらと歩いていた。

 照り付ける日差しが日々強くなってきている。それに加えて空気は少し湿り気を含んでいる。六月の北海道といえばもっと涼しくなかっただろうか。同じ北海道でも、帯広と札幌とでは気候が違うのだろうか。

 七月になったら大通公園ではビアガーデンが行われるらしい。札幌に来た頃は人の多さを見て、まるで花火大会みたいだと思っていた。しかし、本当に常にお祭りが開かれているようなものなのだと最近になって私はわかってきた。

 私はスマートフォンを取り出して画面を確認した。特に通知は来ていない。

「大丈夫かな……」

 再び、ぐー……とお腹が鳴る。

 今日こそは、カレーが食べたい。

 スマートフォンをしまい、私は歩き出す。

 一週間前、空港で市来さんを見送った後、屋上に私を探しに来てくれた大樹さんを見たら何だか安心して涙が出てきてしまった。大樹さんは泣きじゃくる私に「頑張ったね」「美味しいものでも食べようか」「何が食べたい?」と言ってくれた。私は「スープカレーが食べたい」「でもスープカレーは食べたくない」と言った。その日も朝からカレーを食べたいと思っていた。新千歳空港にもスープカレー屋はある。しかし、大和さんが札幌に帰ってきてスープカレーを作ってくれるまでは、何となく食べないでおきたかったのだ。結局、大樹さんと私は空港のフードコートでうどんをすすった。

 角を曲がると、真っ黄色の軽トラックが目に入った。その横のビルは一階部分だけが板張りになっている。私はそのお店にそっと近付いて看板を見上げる。そこには「スープカレーKIBA」の文字。お店の中からはスパイシーな香りが溢れ出てきている。木製のドアには「CLOSED」と書かれた札が下がっていた。

 私は下がってきていた眼鏡を掛け直した。

 スマートフォンをもう一度確認するが、やはり通知は来ていない。

「どうしよう……」

 考えている間にもカレーの香りが胃袋を刺激する。

 私は耐え切れず、その香りをゆっくりと吸い込んだ。

 ダメだ。お腹が空いた。カレーが食べたい。

 私は恐る恐るドアを開けた。

 店内にはお客さんが一人だけ。カウンターの椅子に座っていた男性は私に気が付くとぱっと笑顔になり「大和」と厨房へ声を掛けた。

「菜々恵さん」

 キッチンの奥からもう一人男性が歩いてきて、カウンター越しに顔を出し、優しく微笑んだ。

「あ……おかえりなさい。大和さん」

「うん。ただいま。座って。今準備してるから」

「菜々恵ちゃん、こっちこっち」

 顔をくしゃくしゃにして笑う大樹さんに呼ばれ、私はカウンター席に座った。









 大和さんは、黒いTシャツにエプロンを付けて、頭にはバンダナを巻き、髪をうしろで結んでいた。そのいつもの姿を見て、私は歯を噛み締めた。

「あの……それで……」

 カウンターの向こうの大和さんに声を掛けると、大和さんは大きく頷いた。

「うん。このお店、続けることになったよ」

 私は息を吸い込んだ。そんな私を見て大樹さんは嬉しそうに目を細めた。

「そうですか……よかったです……本当に、本当に」
 
「心配掛けてごめんね。来週からまたお店の営業を再開します。これからもみんなに僕のスープカレーを食べてもらえるように頑張っていくよ。それで……」

 大和さんはこめかみを指先で掻きながら私の顔をちらりと見た。

「一人じゃ大変だから、またアルバイトを募集しようかと思って」

 私は思わず立ち上がった。ガタンと椅子が音を立てた。

「わ、私……またアルバイトがしたいです!」

 私が声を張り上げると、大樹さんは笑って「よかったね」と言った。

 そして大和さんはにこにこしながら頷き、「よろしく」と言った。









「父さんはぴんぴんしてたよ」

 私が再び椅子に腰掛けると、大和さんは話し始めた。

「完全に前と同じように動ける訳ではないけど、生活にはほとんど支障がなさそうだった。元気一杯。毎日リハビリしてたからむしろ体力がついた気がする、なんて言ってたよ。それで……父さんにお店のことをようやく話したよ。僕は『何かあったらすぐ駆け付ける』って言ったんだけど、『仕事を放り出してくるなよ』って言われちゃった」

 大和さんは複雑な笑顔だったが、どこかに幸福感を含んでいるように感じられた。

「大和さん、ちゃんとお父さんとお話したんですね……。あ、そういえば大樹さんは? 大樹さんは、大樹さんのお父さんと、農家を継ぐお話、したんですか?」

「え? 俺?」

 鳩が豆鉄砲を食ったような表情で大樹さんはこちらを振り向いた。

「俺はー、あー、その、菜々恵ちゃんと大和のことが心配で心配で、自分のことどころじゃなかったというか」

 しどろもどろな大樹さんに私は顔をしかめた。

「話してないんですか? 大和さんはちゃんと頑張ったのに」

「いやぁ、まぁ、そうだね。また今度話すから。今は俺のことはいいじゃないの。ね、大和。鹿児島での話をもっと聞かせて頂戴よ」

 大和さんが顔をぐにゃりと歪めるので私も大和さんも笑ってしまった。

「そういえばね」

 大和さんが再び話し始める。

「父さんがさ、スープカレーを食べてみたいって言うもんだから、近所のスーパーで食材を買ってきて、家の台所で作って食べてもらったんだ」

「へー、いいじゃないの。で、親父さんは何て言ってた?」

 大樹さんは話題が変わって気が楽になったようだった。お決まりのコップの水をぐびっと飲んでいた。

「あぁ。父さんは、武骨煮のカレーみたいで美味いって言ってくれたよ」

「ぶこつに?」

 聞き覚えのない言葉を私は聞き返した。

「うん。鹿児島の郷土料理の名前なんだ。簡単に言えば豚の角煮のことなんだけど、本当は鹿児島では骨付きの肉を使う。それを味噌や黒砂糖、芋焼酎で、とろとろになるまで煮る。それをとんこつとか武骨煮って呼んだりするんだ。うちのお店の角煮カレーは、それを意識して作ってるんだよ」

 私は目を丸くした。何度も食べていた角煮カレーに、そんな秘密があったなんて知らなかった。

「そうだったんですか。なるほど……。それでメニューに『店長こだわり』、『ぶこつ』って書いてあったんですね。私はてっきり、大胆に大きく切られた角煮だから、無骨な角煮ってことだと思っていました」

「まぁ、言葉遊びというかね」

 大和さんは照れ臭そうに笑った。

「そっか……。あの十勝産豚を使った角煮のスープカレーは、日本の北と南の美味しさが合わさってできているってことなんですね」

 私は自分の言葉に何度も大きく頷いた。答え合わせをするように大和さんの顔を覗くと、嬉しそうに一度だけ頷いた。

「それではここで菜々恵ちゃんに、鹿児島に関する問題をもう一問!」

 大樹さんがあごひげをさすりながら言った。

「も、もう一問……? 大樹さんが出すんですか?」

「ででん!」

 私の言葉を大樹さんは気にも留めない。

「鹿児島の言葉で、『頑張れ』は何と言うでしょーかっ。シンキングタイムスタート!」

 私は慌てて両手を振った。

「いや、わかんないですよ、私。鹿児島の方言なんて」

 大和さんに助けを求めるが、口をつぐんで見守るだけだった。私が「えーっと、えーっと」と繰り返していると、大樹さんは「そこまでー!」と言ってにんまりと笑った。 

「正解はー……『きば』でしたー!」

「え? き、きば?」

 「きば」といえば、このお店の名前じゃないか。

 私は大和さんと大樹さんの顔を見比べた。大樹さんは嬉しそうに笑うばかりなので大和さんが代わりに口を開いた。

「まあ『きばる』とか『きばれ』って使い方をするかな」

 そういう言い方であれば聞き覚えがある気がする。

 私は瞬きを繰り返しながら大和さんに店名の由来を尋ねた時のことを思い出した。「力強い響きが好きだったから」そんなことを言っていたはずだ。

「父さんは生粋の薩摩隼人だからね、昔から俺に言ってたよ。『きばれ』『きばれよ』って。うるさいって思ってた時期もあったけど、ね」

 黒目を斜め下に落としつつも、大和さんの口元は小さく笑っていた。

「今回僕が鹿児島を発つ時も、言ってたよ。『きばれ』って。まったく。病気で倒れたっていうのに相変わらずの力強さで嫌になっちゃうよ」

 大和さんは再び照れ臭そうに笑った。

 私はそんな大和さんをじっと見つめた。きっとこのお店の店名は、スープカレーを食べにきたみんなへの応援であり、それから自分自身への鼓舞であり、そして、遠くに住む親に対する「僕はここで頑張っているよ」というメッセージなのかもしれない。私はそんな風に思った。

「あ、そうそう」

 不意に大和さんは顔を上げ、エプロンのポケットを探った。

「菜々恵さん、これ」

 そう言って大和さんはカウンター越しに私の方へ手を伸ばした。受け取ってみると、それは黒いキャラクターの付いたストラップだった。

「あ……すいません。私、あの日、ベンチに置いてきちゃいましたよね」

「空港で伝えておけばよかったね。持って帰って家にしまっておいたんだ。いつか渡そうと思って」

 私はそのストラップをもう失くすことがないように、早速鞄に取り付けた。これでストラップは二つになった。

「何なの、それ」

 大樹さんが興味深そうに目を凝らしているので、私は鞄を持ち上げて見せつけた。

「私が好きなマンガに出てくるマスコットキャラクターです。オレンジ色の方が、いくらの妖精『いくららちゃん』で、黒い方はその恋人、うにの妖精『うにににくん』です」

 私が鼻息を荒くして語ると、鞄の横で二つのストラップが揺れた。まるで運命の再会を喜んでいるようだった。大樹さんはくすりと笑ってからそれをまじまじと見つめた。

「なんかあれに似てるね、何だったっけ、まっくろくろす……」

「ストップ。大樹さん、それ以上は言わないで下さい」

「え、何で」

「いえ、何となく」

 大樹さんが眉をひそめたその時、うしろでお店の扉が開く音がした。

「あー菜々恵、いたいた。ね、これ、入って大丈夫?」

 見ると、八雲ちゃんが細く開けた扉から顔を覗かせていた。

 今日はみんなでスープカレーを食べたいということで、私が八雲ちゃんに声を掛けたのだった。本当は一緒にお店に来る予定だったのだが、私が待ち合わせ場所で待っていると「寝坊した」「先に行ってて」「あとから行く」とメッセージが来た。それっきり連絡が取れなくなってしまったので、店の名前や場所を送信しておき、私は仕方なく一人でお店まで来たのだった。

「あ、うん。入って入って」

 私は立ち上がり、お店の入り口まで八雲ちゃんを迎えに行った。

 ドアが閉まった後、私は八雲ちゃんの隣に立ち、大和さんと大樹さんに向かい合った。

「あの、紹介します。私の、えっと、友達の。森、八雲ちゃんです」

「ども。森八雲です」

 八雲ちゃんは顔を前に向けたままぺこりと頭を下げた。

 私は一歩前に進み振り返り、今度は八雲ちゃんに向かい合った。

「それから、こっちがこのお店のマスター。こちらはマスターのお友達の広尾大樹さん」

 私が二人を紹介すると、八雲ちゃんは座っている大樹さんを見下ろし、「お、いいひげ発見」と言った。

 私は口を開けて八雲ちゃんの顔を見た。そういえば八雲ちゃんはおじさんが好きなんだっけ。

 それに対して大樹さんは「甘い雰囲気の女の子が好き」なんて言っていたような……。でも八雲ちゃんはそういうタイプではないよな……。

 私が考えていると私の背後で大樹さんがすくっと立ち上がった。

「どうも。もしよかったら一緒にご飯でも食べに行かない?」

 今度は目を見開き、私は大樹さんの顔を見た。大樹さんは私など眼中にない様子で八雲ちゃんを見つめている。

「じゃあご一緒にスープカレーでも食べませんか?」

 八雲ちゃんは大樹さんの方は見ず、くすくす笑いながら店内を進んだ。

「ここ、座ってもいいですか。市来大和さん」

 八雲ちゃんの言い方は、大和さんを「すべて話は聞いていますよ」と牽制しているようだった。

 大和さんが苦笑しつつ「どうぞ」と言うと、八雲ちゃんはカウンター席に腰掛けた。

 私も再び席に着く。大樹さんも遅れて椅子に戻ってきた。私は大樹さんと八雲ちゃんに挟まれる形になった。

「またナンパですか? どうせ半分冗談ですよね?」

 私が小声で聞くと、大樹さんは私と目を合わせず八雲ちゃんの方を見ながら「ううん、今回は百パーセント本気」と答えた。

 それもどうなんだろう。私の時は半分冗談だと言ったのに。私はちょっと複雑な気持ちになって頭を抱えた。

「でも、でもでもでも、だめですよ? 八雲ちゃんは、たしか頼りがいのある渋いおじさんが好きなんですから」

 私がそう言うと、大樹さんと八雲ちゃんは目を合わせ、お互いにぱちくりと瞬きした。

「大樹さん、でしたっけ。何をしている方なんですか」

 八雲ちゃんは大樹さんの顔がよく見えるようにカウンターに肘をついて前のめりになった。

「手稲区でかぼちゃ農家を営んでいます」

 大樹さんは今まで見たこともないくらいに胸を張って答える。

「大樹さん、八雲ちゃんに嘘つかないで下さい。まだお父さんとお話してないんですよね?」

 私が大樹さんを睨み付ける。

「いや、もう、今日、この後話す」

 私の眼圧は効果がない。大樹さんの真剣な表情に、むしろ私の体がのけ反った。

「面白いね、この人」

 八雲ちゃんは楽しそうに笑った。

 私は途方に暮れて大樹さんと八雲ちゃんの顔を見比べた。

 大樹さんは「何だよ」と言って口をすぼめた後、ころっと表情を変えてにんまりと笑った。

「で? 菜々恵ちゃんはどうなの」

「え?」

「大和は頑張った。俺も頑張るよ。それで、菜々恵ちゃんは、伝えたいこと、伝えたの?」

 大樹さんの顔色に優しさが帯びたものだから、私も真面目にならざるを得なかった。どうやら大樹さんは、百パーセント本気らしい。

 私が伝えたいこと。一ヶ月半前から徐々に感じていたこと。十日前、大通公園で遮られてしまったこと。一週間前、空港で言えなかったこと。

 私はカウンターの向こうを見上げようとしてやめ、下を向き、それから前を向き、静かに立ち上がった。

 眼鏡を押し上げ、髪の毛を整える。行き場を探した両の手は、私の胸の前で固く握られた。

 横を見ると、大樹さんが片方の眉を上げ、にこやかに私を見守っていた。

 反対側を見ると、八雲ちゃんがテーブルに肘をついたまま目だけで私を見上げ微笑んでいた。

「えっと、わ、私は……」

 正面を見る。大和さんは優しく笑いながら、カウンターの陰で握り拳を作り、小さな声で「頑張れ」と言った。

 私は固く目をつぶり、大きく息を吸い込んだ。

「わ、私は……大和さんのことが好きです!」

 自分の声が頭に響いた。まるで世界がひっくり返ったかのような感覚がした。

 ゆっくりと目を開けると、大和さんは目をきらきらとさせて、まっすぐに私を見ていた。私がどうしたって心を惹かれてしまう、あの瞳で。

「うん。僕も。菜々恵さんのことが好きです」

 大和さんがそう言って笑うから、私は思わずもう一度目を閉じた。

 大樹さんが大袈裟に拍手をした。

 八雲ちゃんが私の背中を叩き、「すごいじゃん」と言った。

 足の力が抜けてしまって私が椅子に座ると、大樹さんはいつもの調子で声を弾ませた。

「それではお二人に今のお気持ちを……」

「おい、大樹」

 大和さんがすぐさまそれを制する。私が見上げると、大和さんはにこっと私に笑い掛け、それからぱんと手を叩いた。

「それじゃあ……みんなでお昼ご飯にしよっか。今日は貸し切りだよ。何が食べたい?」

 大和さんはそう言った後、私にぐっと顔を近付け、「また後で二人で話そうね」と囁いた。 

「俺、納豆キーマカレー、辛さ四番、ライスMで!」

 大樹さんが歌うように注文を告げる。

「あ……わ、私は角煮カレーで!」

 私も負けじと声を上げる。

「辛さ二番、ライスSサイズね」

 大和さんも軽やかに付け加える。

「えーっと、アタシは……」

 八雲ちゃんがメニュー表に手を伸ばす。大樹さんが「俺のおすすめは納豆キーマカレー」と言うので私は「八雲ちゃん、この人のことは気にしないで。ゆっくり選んでいいからね」と伝える。

 大和さんが「決まったら教えてね」と言い、キッチンで作業を始める。私はそれを見て、「あ!」と声を漏らし、急いで立ち上がった。

「マスター! 私、手伝います!」

「うん。ありがと」

 大和さんは飛び切りの笑顔を私に見せた。

 それから私達はみんなでスープカレーを食べた。具がごろごろ入っている、無骨で優しい、私が大好きなスープカレーだ。

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