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ぶこつでやさしいスープカレー屋さん KIBA 第9話「閉店後」約3000字/全17話/創作大賞2024恋愛小説部門




 結局その後、約三時間、閉店まで客足が途絶えることはなかった。大樹さんに話の続きを聞くことはできずじまいだった。彼はスープカレーを食べずにだらだらしていたが、やがて市来さんと私に軽く挨拶をして帰っていった。

 市来さんは私のことをとても気に掛けてくれた。「初日だから」と言いながら私がやるべき接客をかなり引き受けてくれた。私が困っていたら彼の方から声を掛けてくれたし、例え困っていなくても「大丈夫?」と聞いてくれた。私は接客の際に度々言葉に詰まったものの、大きな失敗をすることはなかったかと思う。ただ、頭は一杯一杯だったし、体は疲労困憊だった。

 最後のお客さんが店を出てドアが閉まった瞬間、私は思わずふーっと息を吐いてうなだれた。

「お疲れ様。ちょっと座って休んでいいよ」

 恐れ多い、と思いながらも、緊張から解き放たれて体から力が抜けてしまい、倒れるようにして近くにあった椅子に腰掛けた。

「ごめんなさい、足手まといだった癖に、こんな」

「そういうもんだよ。最初のアルバイトの、最初の日なんだから。今日は早めに来てもらったから長丁場で疲れたよね。ていうか、僕も疲れました」

 市来さんはそう言って笑いながら、バンダナを外した。

「お腹空いたでしょ。ごめんね、まかないありって言ったのに、もうすぐ業務時間外だ。もしよかったらだけど、食べていく?」

「も、もちろんです! ……お腹空きました」

 取り繕う余裕すらなくなった私の声は情けないくらいにへろへろだった。

「カレーは食べ飽きたかな。適当なまかない丼か……あと、僕がお腹空いた時用のそばとかパスタとかもあるんだけど」

「あ、そうなんですか。えーっと……あ、でも、やっぱり、私……か、カレーがいいです!」

 市来さんは目をぱちくりさせた後、にっこりと微笑んだ。

「わかった。何カレーがいい? お客さんに出すような感じにはできないけど」

「あ、じゃあ……えっと……」

 私は頭にメニュー表を思い浮かべた。今日一日でメニューは一通り暗記した気がする。

 悩んだ末に私はこう答えた。

「店長こだわり十勝産豚のぶこつな角煮のスープカレー。で、お願いします」

 市来さんは目を細め、「辛さ二番、ライスSサイズね」と言って笑い、キッチンへ向かった。私は少しの間呆けていたが、我に返って市来さんを追い掛けた。

「わ、私も何か手伝います!」

「ありがとう。じゃあまずは水を一杯飲んでからね。その後、洗い物をお願いしてもいいですか?」

「わ、わかりました!」

 溜まっていた洗い物を相手にしている間、市来さんは手際よくまかないを作っていた。私はというとどうにも手際が悪い。単純な作業のはずが、何故だか時間が掛かってしまう。こんなことならもっと実家で家事を手伝っておけばよかったと思った。

 私が皿洗いを終えてキッチンを出ると、すでにカウンターに二人分のまかないが置いてあった。一方はカレーとライスの二皿で、もう一方はライスの上に直接食材が盛られたまかない丼だった。

 私達は横並びで座ってそれを食べた。カレーは一週間前に食べたものとは少し違い、中身はどれも切れ端であるようだったが、その分、数が多く入れられていた。これもこれで具材がごろごろ入ったカレーだ。一口食べて、ああそうだ、この味だ、と思う。疲れた心と体に染み渡るようだった。昼から何も口にしていなかった私は終始無言のまま、ただただ市来さんが作ってくれたスープカレーを食べた。スープの最後の一滴を飲み干した後になり、笑顔で私を見ている市来さんに気が付いた。私は慌てて「美味しかったです」と告げた。

 その後私はお店の掃除をした。市来さんはレジで作業をしていた。着替えてお店を出た時にはもう二十二時近かった。夜風が冷たかった。

 私が帰ろうとすると、市来さんは「夜遅くなっちゃったから、送っていくよ」と言った。

 私は始め遠慮したが、女の子一人では心配だ、と市来さんが言うので、送ってもらうことになった。

 歩きながら、市来さんは今日のことを振り返った。「今日はそこまでお客さんの数は多くなかったけど、途切れなかったから大変だった」などと教えてくれたり、「周りをしっかり見てましたね」と褒めてくれたりした。

 そして、先日出掛けた時と違い、私にたくさん質問をしてくれた。「これはどうでしたか?」「あれはどうでしたか?」と。私に喋りたいことが溜まっているのを見越しているようだった。市来さんに聞かれると、こんがらがっていたはずの頭の中からするりするりと言葉が出てきた。

 私が「もうすぐ家に着きます」と教えると、市来さんは「あとは何か聞いておきたいことはないですか?」と言った。

 私は考えた。

 市来さんに、聞きたいこと……。

 私は悩んだ末に、「あの」と切り出した。

「……マスターは、カレー食べないんですか?」

 市来さんは笑って、「カレーは大好きだけど、ほぼ毎日味見してるからね」と言った。







 私は部屋に着くなりベッドに倒れ込んだ。

 どうやらまだ興奮状態のようだった。頭の中で今日の出来事が次々に思い起こされた。しかし、その中に、何度も出てくる記憶があった。

 市来さんの笑顔、市来さんの髪、市来さんの手、市来さんの声、そして、好きなものを語っている時のきらきらした瞳……。

 私は立ち上がり、本棚から一冊のマンガを取り出した。背表紙に朱色でタイトルが書かれた少女マンガの、第二巻。その最終話を開くと、主人公の女の子が胸に手を当てていた。心の声が大きく書かれている。

『この気持ちって、もしかして……』

 私はベッドサイドの棚にマンガを置き、再びベッドへ寝転がった。

 明日は大学か。早く寝なきゃ。お風呂。着替え。歯磨き。

 そう思うのだが、体が言うことを聞かない。

「次のアルバイトは一週間後か……」

 棚に置かれた小さなカレンダーをぼんやり眺める。今日は五月の第二日曜日。ふとあることに気が付き、私は身を起こした。

 スマートフォンを手に取り、操作して、そして耳に当てる。数秒後、電話の向こうから懐かしい声が聞こえてくる。

「あ、お母さん? うん、ごめんね、夜遅くに。

うん、元気だよ。大学? ちゃんと行ってるよ。……うん……みんな、仲良くしてくれてる。うん、うん、大丈夫。食べてるよ。

あ、そうだ。お母さん、私、アルバイト始めたんだ。カレー屋さん。そう。いいでしょ。だからね、今日もそこでまかない食べてきたんだ。すっごく美味しいの。え? 来なくていいよ! 恥ずかしいって……。うん。うん。

……あ、あのね。えっと、今日、母の日だと思って。特に何も用意できなかったから、電話くらいしようと思って。ん……。お母さん、いつも、ありがと。ふふ。あ、そうだ。今度お給料もらったら、何か買って送るよ。……ううん、いいの。

……うん……うん……うん……うん……うん。

それじゃあまたね」








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