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2020年11月の記事一覧

宗教行事で感染症に罹患して死ぬも勝手、それに文句を言うも勝手。生命や個人より重いものが多い社会がある、こういう簡単なことが分からない近代人は、頭がデッドロックしてんな…と八釜敷いニュースをみて思う。「多様性」も「自由」も、それを認めないものを認めない御題目である。(´Д`)ハァ…

リヴァイアサンよりこわいもの

 スイーツなどを食べていたため遅くなってしまったが、昨日のエントリの続きである。現代日本において「全体」や「公」の再形成の試みが忌避されがちな背景には、「1. 境界画定の暴力性」と「2. 体系設定の暴力性」という 2つの暴力性が十分な根拠とともに意識されているということが、その大きな要因の 1つとして考えられるだろう、という話をした。このうち、「1. 境界画定の暴力性」については前回の記事で詳述したので、今回は「2. 体系設定の暴力性」について、簡単に述べることにする。

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暗い道の蜃気楼

 新居周辺に 6kmほどのジョギングコースを設定したので、軽く一周流してきた。引っ越し関係で10日ほどさぼっていたので多少しんどくも感じられたが、とにかく最後まで走りきることはできたので、定期的に続けていればそのうちまた楽に走れるようになるだろう。  これまでも何度か書いているが、運動は私の人生にとっては本質的に重要なもので、しばらくやらないでいるとてきめんに色々と調子が悪くなる。1日、2日くらいならさぼっても体感的には何も変わらないのだが、一週間も身体を動かさずにいると、

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「私」しかいない「世界」を生きる人たち

 昨夜は唐突に思いついて、一部で大きな話題となっていた「バチェロレッテ」の釣られクマー感想キャスをやってしまった(やってしまった)。 (※録画視聴パスは、11月1日のエントリより取得できます。)  バチェロレッテに関しては、もしご覧になるのであればネタバレはなしで見たほうが絶対によいので、これから視聴する気のある方は、ネタバレ満載の昨夜のキャスは聴かないでおくほうがよかろうと思う。ただ、ツイートでもキャス内でも幾重にも申し上げたとおり、個人的には決して視聴はおすすめしませ

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改革派とMYTENET

 労働にまみれると、どうにも少し、学問や信仰の話がしたくなる。精神のバランスとしては適切な塩梅で、ただ時間の配分はちょっと難しい。さて、以前こんな記事を書いた。  いいねの数をみれば分かるとおり、このnoteには読者があまりいない。読者も少ないのに「なぜ書くのか?」と聞かれれば、「自己満足のため」と淀みなく答えたい。ということで、今日も労働前の自己満足のために文字を生成する。「福音派」から「改革派」に移ったぼくが、結局、なぜ改革派からも離れてしまったのか。その事の顛末を残し

トンビと鼠とキリスト

  著名な児童文学作家で、谷真介がある。相当な数の作品を発表しているが、彼の仕事のひとつに「キリシタン童話昔ばなし」がある。おそらく、その仕事の集大成、または基礎となった著作が、新版『キリシタン伝説百話』(新泉社、2012年)である。  控え目にいっても珠玉にして出色、最高峰のキリシタン文学短編集だと思う。本書が収録するのは、日本土着の民話とキリシタン伝承の融合した諸伝説である。一話毎に感想を綴りたいほどに美しい。誤解を恐れずにいえば、これこそ、日本語で書かれた福音書と言っ

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顔と「心理的安全感」

 昨日のエントリの続きである。  ツイッターではこのように書いたし、たしかに「ニッコニコしながら両手を開いてポーズをキメてる写真」を撮る必要があるかどうかについては個人的には留保せざるを得ないところだが、とはいえこういう会をする場合に、参加者にはいわゆる「顔出し」をしてもらったほうがベターであるというのは、たしかにそのとおりなんじゃないかと私も思う。

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書庫は、いい。 どんな書庫でも、なんの書庫でも、書庫の中が好きだ。 古い紙の匂いと、静けさ。 降り積もる過去と、その息づかい。 なんだか、人のいない森のような感じがして落ち着く。 探しものは、何だったか。 このままずっと棚の間でぼんやりと佇んでいられたなら、と思う。

本当は「現実的」でない話もしたいのに

 スマホが Wi-Fiの電波を拾わなくなってしまったので、さすがにそろそろ買い換え時のようである。東南アジアの高温多湿環境での雑な使用に耐え、転居も終えて少し余裕ができたタイミングで壊れてくれたあたり、なかなか空気を読んでくれている。私が使ってきた電化製品にはこういうことがとても多くて、ひょっとしたらモノたちからはちょっと愛されているんじゃないかと密かに思う。  一昨日にはこんなツイートをしたけれども、オンラインの哲学カフェをやってみたい/参加してみたいというのは本当のとこ

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ただ空白であるということ

 昨日は生活と熱に関するエントリを書いたわけだけど、一夜明けてみて改めて思うのは、創造性の涵養にとって実に大切な要素の一つが(少なくとも私にとっては)「空白」なのだなあということである。  河合隼雄がユング研究所に留学した際に、「少なくとも一日の半分はぼーっとしていないと駄目だ」と言われたと、どこかに書いていた記憶がある。わざわざ留学しに来ているのだから、当然に「勉強」や「実習」などで一日の時間を埋め尽くすのが「効率的」だと考えるのが普通だと思われるところ、敢えて「何もしな

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久しぶりの「生活」モード

 そろそろやるやると言っていた新生活への移行がとうとう現実的な話になったので、週末はニトリなどの家具屋をぐるぐるしていた。自分の思いどおりにデザインしてよい一定のスペースがあって、そこにイチから机とか椅子とか、ワードローブとかコンベクションオーブンとかを置いてゆくというのは、なんだか想像していたよりもずいぶん楽しくて、下見だけのつもりだったのに、ずいぶん時間を使ってしまった。  かつて塩野七生さんが「知識人というのは豪奢であることは求めなくても、快適であることならば求める人

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忘れられるもの

 四、五年も経てば多くのことを忘れることができる。今朝シャワーに当てられながら、そんなことを思った。「忘却と神の赦し」について思索した神学者は誰だったか。  一方で忘れ得ぬ痛みは存在する。歴史に事実として現象した地獄を、人は忘れることが出来ない。大規模な戦争、虐殺、大量破壊兵器の使用である。また中々忘れ得ぬものとして、被災の記憶がある。  しかし、これらを記憶に留めても、数世代を減れば、教科書の一行となり、やはり忘れ去られてしまう。  そして神も忘れることがある。神は、

助詞と外国人

 たまに牛丼屋で朝めしを食べる。卵かけご飯を海苔でつつみ、箸で挟んでひとくち。うまい。ひそかな朝の楽しみである。  そんな朝、向かいのカウンターにオッサンが座ろうとした。そして座る前に言う。「牛丼、大盛り、食べる」。  ぼんやりと外国の人かと思った。店員もカタコトの日本語に戸惑っている。直後、おっさんは「あ、ここで食べます」と言う。え?…日本人だったのか。  スポーツ新聞を開いているから間違いないだろう。刹那、理解した。あぁ、ぼくは「助詞」の使い方で外国人か否か判断して