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助詞と外国人

 たまに牛丼屋で朝めしを食べる。卵かけご飯を海苔でつつみ、箸で挟んでひとくち。うまい。ひそかな朝の楽しみである。

 そんな朝、向かいのカウンターにオッサンが座ろうとした。そして座る前に言う。「牛丼、大盛り、食べる」。

 ぼんやりと外国の人かと思った。店員もカタコトの日本語に戸惑っている。直後、おっさんは「あ、ここで食べます」と言う。え?…日本人だったのか。

 スポーツ新聞を開いているから間違いないだろう。刹那、理解した。あぁ、ぼくは「助詞」の使い方で外国人か否か判断していたのか。無論、あくまでパッと見の、言語上の話である。

 考えてみれば、基本的にどんな言語でも、だいたいは名詞、動詞、形容詞で成り立っている。文法とは、これらの接続とその機微を示すものである。ちなみにクリンゴン語は、形容詞がないらしいので、これには当たらない。

 名詞は物体の指示、動詞は動作の指示、形容詞は価値の指示。文法と他の要素(品詞)は、これらの主たる言語内容の意味における位置関係を示す。たとえば屈折語は、動詞を格変化することで、また膠着語は助詞を追加することで、「言語」という意味世界を構築する。

 そう思うと、おっさんの発言「牛丼、大盛り、食べる」は、やはり伝わりにくい日本語だった。伝わらなくても仕方ない。

 このやり取りから非日本語ネイティブの日本での暮らしについて思い至った。そもそも、いつまで外国人が斜陽産業そのものである日本で働いてくれるかは分からない。しかし外国人労働者はいまや身近なものである。

 最寄りのコンビニ店員は、かなり前から中国の人とおそらくアフリカから来た人が担っている。難波の飯屋でも外国の人が働いている。その分、実感として、たしかに聞き返されることが多くなった。

 ふと、以前に東京の牛丼屋で見た光景を思い出す。老人が注文を聞き返した若い外国人女性店員に怒鳴り返していた。店内が振り向く程度には大声だった。こんな具合では早晩、日本で働いてくれる外国人はいなくなるだろう。

 ぼくは日本の良さの一つに「混濁」があると思っている。とくに「文化」は隙あらば、すぐにでも混濁していく。だから、いつか日本語がもっと混濁して、あのとき怒鳴られた外国人女性が母国語ベースの日本語で言い返しても問題にならないような、そんなイカれた国になってほしい。

 以前校正した中国人やスペイン人の日本語を思い出しながら、卵かけご飯と一緒に、そんな思いを腹におさめた。ちょっと朝からたべすぎたかも知れない。

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