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忘れられるもの

 四、五年も経てば多くのことを忘れることができる。今朝シャワーに当てられながら、そんなことを思った。「忘却と神の赦し」について思索した神学者は誰だったか。

 一方で忘れ得ぬ痛みは存在する。歴史に事実として現象した地獄を、人は忘れることが出来ない。大規模な戦争、虐殺、大量破壊兵器の使用である。また中々忘れ得ぬものとして、被災の記憶がある。

 しかし、これらを記憶に留めても、数世代を減れば、教科書の一行となり、やはり忘れ去られてしまう。

 そして神も忘れることがある。神は、は人の罪について、忘却する。それは歴史となっていく傷痕を否定することではない。もうそれを思い出さない、または意味を根本から変えてしまうことで、神は忘却する。

 いいかえれば、神の忘却という、茫漠とした巨大な時空は、そのまま人類の新たな可能性と意味世界となっている。

 こんなことを書いていたら、今朝ぼんやりと思って、すでに忘れていたことについて思い出した。日本語キリスト教について、である。はたして天皇制をも包摂するキリスト教は可能なのだろうか。日本語でこれが可能だろうか。

 もうひとつ何か思い出したいが、思い出せない。きっと神とともに神の内に忘れてしまったのだろう。

 車窓は、宇治川とともにぼくの記憶を流してしまったようだ。

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