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「なぜ伝わらないか、なぜ、伝わるのかの違いと社会考察と文章について。」

”伝わらないものは伝わらない“。
これが事実だとぼくは考えてます。
攻撃的で差別や偏見が強い記事や文章がウケるのは、
出版業界の本の売れ行き悪化とやソーシャルメディアの道徳心のなさによるものだとつくづく、ぼくは実感しています。
自由原理主義だとか、無政府主義だとか、個人主義だとか、キャンセルカルチャーだとか、まあ
なにかしら定義しないと、良し悪しが判断できないいわゆるいままで外見上、寛大でいるふりをしていた人々がパンデミック後に“人間の傲慢さ”に目覚めたに過ぎないのです。

お昼のワイドショーのお粗末ぶりをごらんなればあきらかでしょう。メディアリテラシーと超情報社会の時代にこんな言論が蔓延り腐敗していることこそ“お笑い“なんです。
おもしろくもない笑えないません。
法律家や専門家が出てこれはこうですと、論理的な説明すれば済むのです。視聴率を追求し自滅するテレビメディアや変なウケ狙いの芸能界に、産業として未来ないでしょう。これはすべてのものごとに当て嵌まりますが、
長いもの巻かれようとすればするほど、
人々は思考停止に陥ります。安堵と体系依存。
その代償は長期的停滞と腐敗です。(ぼく個人の見解です。)


自我同一性

自我同一性の誇示は悪くありません。
しかし、あなたの主義や志向を他人に無理矢理、
押しつけたり強要したりしてはいけません。
それは強姦と同じ行為です。 
これについて、ぼくも気をつけてます。
承認欲求と自己顕示欲は誰にでも備わってます。
もちろん、やはりぼくにもあるのです。
(最近、ぼくも気づきました)


ぼくときみの相違の違い。

結局は書き手と読み手の距離があるんですね…。
解釈の違いか受け取り方か、発信の仕方が問題なのか?
もはやマーケティングのプロの方々ではないとわかり得ないでしょうね。
ぼくも文章や歌詞を書いていると、なぜ、書いているのかわからないときがあります。承認欲求はそんなにないと前にも言いましたが、ならなぜぼくはnoteに歌詞を書き続けるんでしょうか? ある意味、ぼくすら矛盾している…。


なぞ。
ぼくにとって文章を書くことや作詞や作曲すること精神安定剤を服用するの同じことでありセラピーでありメンタルヘルスの一種です。
ぼくはだれか、どこからきてなにか?


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