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私は「そこに美はあるのか?」という風にしか観ないのです

芸術は、経済や実用とは関係の無い純粋な人間の創作・表現行為であり、何よりも尊くエライのだ。

・・・という意見の方と、わたくし、今まで沢山出会ってまいりました。

しかし、私はその「いわゆる芸術・芸術家論」を支持しません。

それはあまりにも無理がある論だと思うからです。

私は自作品を販売して生活しているので「君は作品を売っているから本物の芸術家じゃないね(嘲笑)」と、私の1〜2世代前の、そんな持論を持つ人たちに良くからまれたものです。

そもそもオレは自分で純粋芸術家だなんて名乗ってないんですけど?むしろ、オレは市井のモノづくりで生活する普通のアンちゃんだと言っているのに(当時、笑)なぜオジサンたちはオレにからむのだ?とゲンナリ。(便宜上、アーティストと名乗ることはある)

今の若い人でもそういう持論の方がいらっしゃいますね。

そういう人たちと出会う度に、わたくし、メンドクセーと思うのであります。

私が若い頃、いろいろな芸術書や美学の本を読んでも、矛盾ばかり感じて全然整合性を感じられないか、その整合性は極めて限定された環境でしか通用しない論だと思ったものです。

なので、私はその問題について、私自身の眼と感覚で納得行く考え方や把握方法を取る事にしたのであります。

そういう面で、オレはエライ人たちの意見を聴く気は無い。自分で考えるぜ!と。

最近はそうでもありませんが、以前は良く「工芸品は芸術足りうるのか?」ということが語られました。

そういう議論が好きな人たちは、工芸品の頂点に達したものは芸術品になる、みたいな感じにとらえているか、工芸の手法を使っていても、伝統とか実用とは関係ない、自由な創作をすれば芸術になると考えているのかな、と感じました。

当たり前ですが、工芸の最高度のモノが芸術品、ではありません。

秀才の頂点が天才ではない、というのと同じですね。

(ちなみに、秀才と天才のどちらがエライかということになると、それぞれ社会における持ち場が違い、どちらも必要なので、私はどちらの方が上、というようには考えておりません)

作り手が思うまま自由に制作したものが芸術作品というわけではないのは当然ですし・・・そんな簡単なわけがない・・・

それはそれで別の話題になるのでここでは書きませんが・・・

そういう話題を好んでする工芸家、あるいは、職業的創作人が制作する作品で、造形的に冒険した芸術作品と称するものからは、なんとも捻くれた芸術コンプレックスを感じることが多い・・・そのような「いわゆる芸術っぽいことをしている作品」を観せられると、感想に困ります。本当に困る(汗)

それなら100円ショップの器のほうが潔い、完成度が高い。10倍良い。

実際、そのような芸術志向の、必然があるとは思えない造形的な要素を強く出した工芸作品は、意味なく過剰でありながら、しかし作者の感性のリミッターを振り切っているものでもない・・・それが器系のものなら、器としても彫刻としても中途半端で、昔の茶盌ほどの過激さも美しさも厳しさも色気も自由さも無い。

もちろん、その手のものでも極々稀に良いものはありますが・・・

その手のものを観る度に「工芸を超えて(?)芸術を望んでいるのに、なんだかおかしな物が出来上がっている・・こういうおかしなものが彼らの言う芸術作品というものなの?」

という疑問が私の胸中に起こりました。

なんだか、言っている事とやっていることが随分違うなあ、という感じ。だから、その矛盾を糊塗するために、純粋な芸術行為云々を語って、実際にはそんなものは存在しないのに、そういうものがあるかのように振る舞っている・・・ように私からは観えました。

例えば【キモノは芸術か商品か?】という設問は良く使われますが、個人的にはそういうことに悩みません。

(私は制作の時間の多くを和装制作に費やしております)

私は

【いわゆる芸術という概念は不備があるのでその設問は成り立たない】

と考え、面倒なことをもっと面倒にするのは無駄だから

【そこに美が宿っているかどうかだけが問題】

・・・としています。

それを解説すると、ちょっとバラけた感じに書きましたがこんな感じです。

まず、前提として、人間は望むと望まざるとにかかわらず、表現をしてしまう生き物であり、実際に生活のなかでも何かしらの表現をしないと生きていけない。表現は人間にとって特別なことではない。いわゆる芸術表現はそのなかの一部に過ぎない

人造物や人間の行為そのものに美が宿ったモノのみ、自然物と同列になれる

自然のものには例外無く美が備わっているので人造物や人間の行為とは別種のものである(自然物を利用したり、参考にしたりして人造物はつくられるけども)

美や品格が問題になるのは、人造物・人間の行為のみ

人造物・人間の行為に美が宿ったものは、普遍性と同時に、制作者の開花した個性を、矛盾無く同時に保有出来る

人造物・人間の行為に美が宿ったものは、時代を超えて人々の精神を刷新するものになりうる

それは、分野を問わず、あらゆる人造物・人間の行為において起こる

それは芸術という小さい概念では把握出来ないので、私はそれを使わない

・・・しかし、上記のものを芸術と呼ぶのなら、それが私にとっての芸術ということです。

私にとっての“美”は、強いて言うなら、透明で浸透率の高い高度なエネルギーのようなもので、確実に人々に影響を与えるものです。

それはレントゲン撮影時のように、それが自分を通り抜けた事を感じられないことも多く、影響を与えられた人は、自分が美によって何かしらの影響を受けたことに気づけないことも良く起こります。しかし確実にその影響は出るのです。なので、他人からは、美を受け止めた人の変化が分かったりします。

例えば、美を宿した絵画を観た後に、本人は気づかずとも美の影響を受け、木々の緑、池の波紋、雲の動きを、まるで初めてそれを観たかのように美しく明瞭に観え、それが心に響くことがあります。感覚全体が活性化したような感じです。

それは、美に触れたことによって、慣習に眠っていた感性が眼を覚ましたのです。

本人は「どうして今日はいつも観ている風景をこんなにキレイに感じるのだろう?」とは感じるものの、その原因に気づけないことが多いようです。美にそのような効果があると知っている人が少ないからです。

そのような事が美の直接的効果の一つで、受け止めた人の精神を刷新し、明瞭にします。その他、美は受け止めた人に沢山の影響を与えます。

それは比較的短時間で終わってしまうものもあれば、その人の人生を大きく変えてしまうほど衝撃的なもの、一生続くものもあります。

そのように、美というものは、ただ美しさに心動かされるだけではなく、実際の影響と効果があるのです。

なので、それは思念や概念の話ではなく「事実」なのです。「美は事実としてある」のです。ただし、美を直接観ることは出来ません。それは常に何かを介して表れます。

良く言われる純粋芸術の概念・・・「実用や経済を目的とした工芸品や工業製品は芸術ではない。実用や経済とは関係ない純粋な創作行為により産まれた物のみが芸術作品である」となると「それは限定された世界の問題」「自己申告で済んでしまう話」です。

これは私の個人的な価値観なのかも知れませんが、そうなると、芸術に最も必要なはずの、普遍性や自由や美が人間と関係なくなってしまいます。

それと「鑑賞は実用である」という視点が抜け落ちています。

そもそも人造物は、制作した人と、その作品だけでは成り立たず、必ず鑑賞者、使用者を必要とします。人造物は鑑賞者や使用者がいないと存在しないのと同じになってしまうのです。自然物は人間がいてもいなくても存在していますから、この問題では関係ありません。

(人間がいなければ、自然物も存在を認識されないじゃないか、という話ではなく、人造物の存在においては「価値観の共有」が必要になるということ)

人間はホコリ一粒もゼロから作れませんから(ゼロから何かを産み出せるのは神のみでしょう)人間のする行為には肉体的にも精神的にも制限があります。

そんな制限だらけの人間同士のお話が、いわゆる芸術や美・・・です。

しかし、時に人間の精神と、人と人との間にある価値観の共有の問題である創作が、人間の精神を超えるものになり、美を宿し自然物と同じ性質を持つと、人間の固定した概念を押し広げるような存在になります。

そういう「美を宿したもの」というのは、自己申告の自由や、〇〇からの自由ではなく

【自律的・自立的自由を持ち、時間から開放されたもの】

(何かからの自由ではない)

です。

あらゆる存在は、固有の特性による物理的制限と、他の存在との関係性による制限を受けますが、その固有の制限目一杯に完全に自由にふるまえるなら、それは自由であると言えると思います。(人間という厄介な存在以外は)

その制限は、その存在固有の物理的制限の他に、それを認識する人間の精神の制限もあります。

どんなに大きな存在であっても、その時点での人間の精神で扱える範囲までしか、人間は認識し、受け止められないのです。例えるなら、人間の精神はコップのようなもので、大きな湖の水を汲んだとしても、その精神というコップの分しか汲めない、ということです。それがその時点での理解の全てなのです

しかし、その湖の本質的摂理に触れることが出来れば、その人間の精神の範囲は押し広げられ、その湖の本性に触れる事が出来るようになる・・・。

そうなると、人間の精神が汲み取れた水がコップ一杯分でも、そのコップ一杯の水と、湖の全存在がつながり、湖全体の美しさ、存在の尊さを感じる事が出来るようになる・・・そこに美が宿ります。

創作する人間と、人造物自体と、鑑賞する人間の精神が、その存在が持つ固有の“摂理”に届けば、自由を得てその存在は美を宿します。その存在そのものは固有の制限や関係性の制限の中にあっても、その存在に宿った美そのものは自律的で自立的です。美を宿したものは時間からも自由になります。古臭くならず、いつも新鮮な存在になります。時代遅れの湖が存在しないように

ただし、この摂理は、公式で導けるものではなく、多く、天啓のような形でもたらされるのが厄介なところです。

存在は必ず制限を受けます。あらゆる存在は“絶対自由”を保有出来ません。それを保有しているのは神だけでしょう。(私は神に会ったことはありませんけども)

人と人との間の精神の問題に過ぎないのに、時に美を宿したそれは人間の固定した概念を超えて、時間も超えて普遍的な存在になり、人間の精神を刷新・拡張する存在になるのです。そして、その作品や行動に宿る美や普遍性は、その制作者の個性からしか出なかったものなのです。

なので、私は普段、芸術という概念は使わずに、とてもシンプルに

【人造物や人間の行為に美が宿っているかどうか】

という観察と把握をします。

繰り返しになりますが、なぜ「人造物や人間の行為」としているかというと、それ以外のもの、自然物には最初から美があるからです。どんなものにもあります。石ころひとつにも美があります。それをもし退屈なものとするなら、それはその人の感受性が鈍いのだと思います。

しかし、人造物や人間の行為には、美があったり、無かったりなのです。だいたいは、美が無い。

だから、私がもし「あれは芸術だ」と呼ぶ時には上記のような「美を宿したもの」(くどいですが、審美的にキレイという意味ではありません)であって、一般的に使われる「いわゆる純粋芸術」という言葉とは内容が違います。まあ、タイトルにある通り、私は芸術という言葉は、あまり使いませんけどね。

さらにクドく書きますが・・・

「営利目的や、他者へ娯楽目的として提供するのではない、純粋に個人的な創作活動によって産まれた作品が芸術作品」

ということは良く言われますが、

それだと上に書いたように

「数多ある人間の活動の一つに過ぎない普通の事」

です。

なぜなら、人間は、日常、表現をしながら生きているのです。他人と会っている時でも、一人の時でも、何かの刺激があると、何か考えが浮かんだり、顔の表情が変わったり、何かつぶやいたり、何かを書いたり、つくったりするのです。それが人間なのです!それは何のため、ということはなく。営利目的や他人の眼を気にしての表現ではないのです・・・

そのなかの、何か特定の、例えば絵を描くとか小説を書くとか、彫刻を作るとかいった行為だけを特別視しても私は意味が無いと考えます。

だから、純粋な創作行為云々は、創作の成果物の出来具合とは関係ないのです。

本来的な芸術は(という言葉を使うなら。私は殆ど使いませんが)厳しい。

冷徹なまでに平等で、その存在が持てる自由の全てを持つもの=美を宿したものだからです。

それぐらい美は厳しいと思います。

自然は厳しいですよね。基本的に、自然は人間に優しくない。しかし、自然物にはあまねく美があるのですから、美が厳しいのは当然でしょう。

しかし、自然からは、恵みも沢山あるのです。人間はそれを産み出すことは出来ず、それをいただいたり、利用することしか出来ません。

美は、人間の努力や研究など全く関係なく、それはただ人間が“摂理”に偶然でも触れれば表れるし、“摂理”に触れられなければ、どんなことをしても表れない。だからこそ「それは普遍であり、公共であり絶対であり、同時に個性でもある」わけです。

なぜ、個性でもあるかというと「開花させる者は開花させられる」からです。美しい花を咲かせようと無心にそれを行う人は、同時に咲かせる人の個性も花に開花させられてしまうのです。

何かの対象の本質を捉えようとひたむきに何かを行うと、その純度が高いほど、その人の個性も同時に引き出されてしまうという事です。

しかも、その“摂理”は公式ではなく、常に変化するのです。決まった山の頂上へ登るのとは違います。

その不安定な状態から、意図して美を宿したものを連発出来る人が本当の創作家です。

もちろん、一般の人でも人生に数度はそのような美を宿した何かしらのモノを生みだします。それは専門家だけの世界ではありません。美は絶対的に平等で自由だからです。(それに経済的価値があるかは別の話ですが)

それは行為の種類の問題ではなく、絶対的な“摂理”に触れたか触れていないかだけのことなのです。

例えば、アマチュアの人が時に、プロが唸るような、むしろプロでは到底描けないような素晴らしい絵を産み出してしまうことがある、というのはそういうことです。ただし、それは「偶然“摂理”に触れた」からそれが産まれたのであって、単発に終わります。

「そこに美はあるのか?」というシンプルな把握方法だと、例えば数学の数式の美しさ、スポーツの劇的瞬間、ビジネスの効率的システム、絵画、彫刻、工芸品、音楽、舞踏、演劇、映画、デザイン全般、建築、工業製品、飲食物、何かしらのサービス、その他その他あらゆる文化的なもの、それら「全ての人造物と行為」に適用可能です。当然キモノでも可能です。「あらゆる人造物と行為に共通の特徴」だからです。

なので、これが私としては最終結論です。 

「そこに美はあるのか?」 

それだけです。

まとめ的に繰り返しますが、人間を取り巻くいろいろなモノは、

【人造物以外のものは、みな美をたたえている。対して、人造物には美の無いものが殆どだが、時折、美を宿すことがある。しかし、その成立に人が考えた“公式”は適用出来ないから美を宿す事は簡単ではない】

【品格というものは、人造物のみ、問題となる。自然物には品格は無い。品格を超えているからだ。自然物にあるのは畏れ、荘厳さである】

と、私は捉えています。

それと、

自称芸術家が「これは仕事でやったものだけど、これはホントの芸術作品」と自作を紹介することがありますが、事実を観察すると、作者自身が制作時の意図や体験で「あれは芸術作品で、こちらは芸術作品ではないと分けることは実際には出来ない」のです。なぜなら、それだと芸術は自己申告になってしまうからです。

一人の人間が、そんな風に自らの精神を意図的に分裂させ使い分けることは出来ません。

しかし、多くの自称芸術家の人たちはそう出来るとしています。

例えば、どこかの写真家が

「これは仕事としてやったものだけど、こっちは作品として撮ったものだから芸術作品だよ」

なんて説明しながら作品を見せてくれたりするのです。

しかし残念ながら、現実問題として、そういう彼らの作品は、仕事としてやったものの方が、純粋な芸術作品として制作されたものよりも、ずっとレベルが高い事が多いのです。それは社会性を意識し、他人の眼があり、要望があり、お金を稼ぐための商品だから責任があるため、本人の気持ちがどうであろうと、出来上がったものは良いものになったわけです。

それは「その人自身の創作熱よりも、社会からの要望と関係性の方がずっとその人の創作を動かした」ということです。(←この仕組の理解はとても大切です)

(もちろん、仕事以外の作品としての写真は大いにやるべきだと思いますが、それを仕事じゃないから芸術云々言う事についての話)

そのように自称芸術作品ではなく、仕事でやった作品の方に美が宿ってしまうことは良くあることです。だから、いわゆる純粋な芸術行為とされている事をしても芸術作品は産まれるとは限らないのです・・・

当然、私が上に書いている「美、云々」の話は「把握方法」であり「芸術を産み出す方法」ではありません。美を産み出す公式は無いからです

美は、制作の際の能動的行為時の臨界点に特有の、完全受動状態が起こった際に、舞い降りる傾向が強いように思います。

矛盾しているようですが【極めて能動的な姿勢が臨界点に達すると完全受動の状態にも同時になる】その時に、その渦中にいる人は、人間の意図や知識を超えた美を受け止めるのかも知れません。

これは、宗教的な世界に近いかも知れません。

同じ内容を何度も違う言い方で繰り返しますが・・・

【自由に自立歩行を続けるような本質を持ち、かつ摂理に則っており、普遍性と公共性と強い個性を持つもの、それが芸術】

芸術というのなら、私はそういうものだとしています。

なので

「あらゆるものに存在出来る可能性がなければおかしい」わけで

→「ゆえに一般に言う芸術という概念は不備がある」

という結論に、私はなります。

もし、いわゆる芸術なるものが、人造物の最高位にあるものなら、なぜ分野が特定されてしまうのでしょう?

現実には、そんなことはありえません。 

そんな壊れたバケツのような考え方は捨ててしまって、ただ人造物を観れば、いろいろな場に絵画や彫刻その他の芸術なるものと同格、それ以上の美を宿したものが星の数ほどあります。

その気づきは、精神生活を豊かに、喜びに満ちたものにしてくれます。

私は、例えば、画家がギャラリーで個展をするのと、機械メーカーが新製品を展示会で発表するのと、全く同じ創作行為だと思っています。その機械に美が宿っていれば素晴らしいものです。どちらも人間の表現行為の一つに過ぎません。

機械にも、古びない名品というのがあります。そこには美があります。

例えば、車にも名品は沢山ありますね。その車の構造自体は技術の進化によって古くなっても、その車に宿った美によって、その車自体は、古びる事なく、ずっと魅力的で光を放つ存在になるのです。

一般的な芸術という概念は、私はむしろ人の眼と感覚を濁らせるものだと思っています。

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ついでに【鑑賞方法の成立も大切】というお話をもう少し・・・

上の文章でも触れていますが、もう少し・・・

自然物は、ただ存在するだけで美を宿しています。

しかし、人造物の場合は、ただあるだけではダメで、モノだけでなく「鑑賞方法の成立」という創作もしなければなりません。

そして、鑑賞方法の成長と共に、作品も成長します。

それが人造物の特性です。

人造物は、つくる人と、受け取る人の両者がいないと成立出来ないのです。

しかし、そんな制約はあっても、創作する人と、受け取る人の間には、自立・自律的な美をたたえた存在が産まれ、人々の精神を刷新するわけです。それが人造物に美が宿った際の面白さです。

人間の精神のなかに産まれるのに、精神を超えた発見や生命力を体験させてくれるもの。それが美を宿したものです。

ただし、そうなるには、その作品を「正しく価値づくる人」が必要になります。

そのような価値観が全く無い状態で、新しい何かを受け止め理解出来る人もいますが、それは非常に稀です。優れた創作者の存在と同じぐらいに稀な存在です。

だから「正しく価値づくる人」が必要になるわけです。

まあ、「正しく価値づくる人」というのも滅多にいないワケですが・・・

そもそも、新しく産まれた創作品の総体を把握するのは、制作者当人だけでは無理なのです。

なぜなら

「作った本人ですら初めて体験する、新しいものが宿った、美が宿った作品だから、制作者本人ですら、作品の特定の部分しか自分では把握出来ない」

からです。

例えるなら・・・自分の子供だからといって、自分の子供の全てを把握出来ないし、自分の子供の未来を観ることは出来ませんよね。そういうことです。学校の先生や、子供の友達から、自分の子供の知らなかった一面を知らせてもらうことがある・・・良いことも、悪いことも、です。

だから、他者に自作の、自分が制作時に意図した面と違う、他の面を教えてもらう必要があり、良さがあれば、それを理論立ててもらう必要があるわけです。

そこで、作者と鑑賞者・使用者の間に“発展的な価値観の共有”が行われます。

そして、作品そのものは物理的に変わりませんが、鑑賞方法が成長すると、作品も成長します。

それが、大きく成長し、社会に広がります。

それが広がり社会に定着するには、数十年や百年単位で時間がかかる場合もあります。もちろん、早期に広まり定着する場合もあります。

「その作品は早すぎて社会に理解されにくい」ことは良く起こります。しかし、少数でも理解する人がいれば、後に社会に周知される可能性は高まります。もちろん、消え去ることもあります・・・

そのような事で、作者以外の他者に、自作の解説をしてもらう必要があるのです。作者自身は、キチンと評価される前に死んでしまうかも知れませんしね。それでも理解者がいれば作品の価値を広めてくれる可能性があります。

そのような価値観の共有を起こすには、価値の創造、販売価格の設定、広報、本質的な解説、その他、いろいろ商行為も含まれます。そのような商行為にも美が宿る可能性があります。

上に書いたように、そういう「人間の行為、人造物、それによる結果」全てに美が宿る可能性があるわけです。

そう考えると、私自身、自分の仕事全般に美が宿る可能性は多いにあると分かって明快になり、良い意味で気楽になります(また逆に美という指標により厳しくもなります)

私個人は、そんな感じに創作全般を捉えております。

そして、上の文章の続きのような内容に戻りますが、

例えば、デザインは商業・実用と密接だから芸術ではない、という言われ方をされることがありますが、価値として凡百のいわゆる芸術品よりもずっと素晴らしい、そして美しいデザインは星の数ほどあります。

それほどに価値があり、美しく、かつ人間の精神を刷新し続け、実用的にも有用なのに、人造物で最上とされる芸術ではない?おかしなことです。人間の精神活動の最上のものなのに、芸術ではない・・・

そこでも「いわゆる芸術を至高とする概念の矛盾」が出てきます。だから「いわゆる芸術」という概念はむしろ視野を狭めるのです。不備がある概念だと私は捉えます。

だから、やっぱり私にとっては「あらゆることに美が宿る」(美が宿る可能性がある)ただそれのみが明快です。

(会話や一般的な文章の上では芸術という言葉も時に使いますが)

それはもちろん「生真面目や堅苦しい」のとは対極で、美という指標があるので、むしろ全く自由に振る舞えるのです。

自分の仕事に常に「そこに美があるのか?」という問いだけして、後は全く自由なのです。創作上変なものを背負わず、楽しく、自由で、なおかつ美の絶対的厳しさに律される感じです。

「芸術のような高尚なものは結論があっちゃいけない、単純であってはならない。そんなことは自分で考えてはいけない。誰かエライ人の言うことを学ぶべきで、それ以外のことをしてはいけない」という変な思い込みは根強く人々の頭と精神にこびりついています。

それが問題なのかも知れません。

(私が考える)「芸術の本質は自由と美」ですから「いわゆる芸術の概念そのものを疑ってみる」「再検証する」という視点が、いちばん最初になければならないはずなのに、です。芸術は、芸術という概念からさえ自由であるべきだと思うのです。

・・・何にしても「そこに美があるのか?」というシンプルな視点だと、どの人為にも美がある可能性があることに気づけます。私はこの姿勢でいつもおります。

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この手の話題で、インタビューをまとめていただいたものもあります ←リンクで飛びます


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