聖徳太子になりきって飛鳥⇔斑鳩を20km徒歩通勤しようとした結果失敗した話(前編)
みなさんは聖徳太子、好きですか?
聖徳太子(574-622)
聖徳太子といえば飛鳥時代の政治家ですね。
日本に仏教を広めたり、小野妹子ら遣隋使を派遣して当時の中国(隋)と外交したり、十七条憲法を作って国家の基盤を作ったり、法隆寺を建立したり、仏教アンチマン物部守屋と戦争して打ち勝ったスーパーヒーローだったり、フライング摂政ポセイドンを発動したりと、彼の功績は色々言われております。
その一方で、聖徳太子にまつわるエピソードにはその真偽が疑われる部分もあり、「彼は実在しなかったんじゃないか」という意見から「聖徳太子非実在論」なんてのも提唱されたりして、彼の存在は多くの謎に包まれています。
私もいろいろ紆余曲折あって、聖徳太子のミステリーチックな側面に魅力を感じている人間の一人です。そして私はかれこれ気になっていたことがありました。
「聖徳太子って、どう通勤してたんだろう?」
その謎を解明するため、我は大和の奥地へと向かった――。
(※奈良県北部です)
ちなみにタイトルの通り失敗しているのでオチは決まってます。
1.飛鳥駅
11月27日(土) 11時07分
奈良県高市郡明日香村 近鉄吉野線 飛鳥駅
ここは日本史のふるさとのような駅です(大袈裟)。
この駅を出たすぐのところにレンタサイクル屋さんがあります。
飛鳥を旅する「飛鳥びと」達は、老若男女問わず皆レンタサイクルで自転車を借りて、古都・飛鳥を旅します。この村でレンタサイクルを飛ばしている人達は、性別・年齢・国籍・人種・宗教問わず、飛鳥の都に呼ばれている「飛鳥びと」です(多分)。
(ちなみに村内は意外とアップダウンがあるので、体力に自信のない方は電動自転車が超~~~オススメです。奥飛鳥まで行く人は特に。)
私もかれこれ明日香村には何度も訪れていて、その都度レンタサイクルを使って周遊していますが、今日は違います。今日は自転車は借りません。
聖徳太子(574-622)が生まれたのはここ飛鳥の地です。そして彼が生きた時代、すなわち飛鳥時代の政治の中心地だったのも、ここ飛鳥です。聖徳太子の時代に日本という国家の基盤が作られたとするならば、飛鳥は日本のはじまりの地と表現してもいいでしょう。聖徳太子にとって、飛鳥は生まれ故郷であり、そして同時に職場でありました。
しかし、皆さんご存知の通り、彼はあの日本最古の、いえ、現存する世界最古の木造建築で有名な法隆寺を建立します。
法隆寺
飛鳥と法隆寺って、20kmぐらい離れてるんです。
まあどちらも同じ奈良県内ですし、車で移動すれば1時間ぐらいの距離なんですけれど、千年以上も昔の、鉄道も自動車もない時代にこの距離って、なんか不思議じゃないですか?
いや、20kmが遠いっていうのは鉄道や自動車に頼りまくりの現代人の感覚であって、昔の人は鉄道や自動車がなくてもそのぐらいの距離は普通に移動するのかもしれない。権力者なら馬を移動手段として使うこともあるだろうし。
でも本当にこの距離が感覚として遠いと思うのかどうか、それは想像だけでは分からないですよね?
これが、私が聖徳太子に抱くミステリーの一つです。聖徳太子は飛鳥と法隆寺の間をどう移動したのか?
というわけで今回は、「飛鳥と法隆寺ってどのぐらい遠いの?」っていうのを肉体的に体感するために、この距離を実際に歩いてみることにしました。
ちなみに今回の旅路に使った地図はこちら(リンク先に地図のPDFがあります)。
この地図は「法隆寺スタート → 飛鳥駅ゴール」なのですが、私は逆で、「飛鳥駅スタート → 法隆寺ゴール」を目指して歩きました。というのも、飛鳥が聖徳太子生誕の地であり、太子の生きた軌跡を追うように法隆寺に向かいたかったのです。あと翌日の用事が大阪だったから目的地が大阪に近いほうが良かった(なお翌日は東方紅楼夢)。
……※ ちなみに地名について補足しておきますと、
村の名前は 明日香村
駅名は 飛鳥駅
です。
そして明日香村の中には更に飛鳥という地名があります(飛鳥寺があるところ)。
「明日香」と「飛鳥」、どちらも「あすか」と読みますが、村名について言及する時は「飛鳥村」とは書かないようにご注意ください。
愛知県には似たような字面で飛島村という実在する村があります。ここは明日香村とは関係ありません。
2.飛鳥の古墳
明日香村にはたくさんの歴史的観光スポットがあります。明日香村は既に何度も訪ねており、今回の旅路は歩くことがメインなので巡礼が目的ではないのですが、聖徳太子と関わりの深いスポットもあるので、紹介しながら歩いていきましょう。
徒歩で飛鳥駅を出て10分強が過ぎた11時20分、欽明天皇陵(梅山古墳)が近くにありました。せっかくなので寄りました。
(※被葬者については諸説あります)
欽明天皇(509-571)は、聖徳太子が生まれる少し前の時代の天皇・大王です。欽明天皇は飛鳥時代より前の古墳時代の大王ですが、飛鳥時代の黎明期の権力者と言えるでしょう。ちなみに聖徳太子も幼少期はまだギリッギリ古墳時代です。
百済の使者「これは仏様のお姿です。うちの国ではいま仏教がめっちゃ流行ってるんですんごい尊いものだから日本の王にもお裾分けするよ」
欽明王「なんかすんげー精巧な像が来たンゴwwwwうちは八百万の神々祀っとるンゴwwwwこれどうするンゴwwww」
っていうやりとりがあった時代ですね。大陸から朝鮮半島を経由して仏教が日本の大王に正式に伝わったのが欽明朝の時代だと言われています(諸説あります)。この仏教が後々日本史にいろいろ厄介事をもたらすわけですが、まあその説明はここではいいでしょう。
「飛鳥時代」という時代区分がある通り、飛鳥の地は飛鳥時代の政治の中心地です。それゆえ、ここ明日香村とその近隣地域には、当時の遺跡や寺、権力者の古墳などが多くあります(まあ明日香村に限らず奈良とか大阪って大体そうなんですけど)。
仏教という点では聖徳太子と関わりの深い人物なのですが、古墳巡りが目的ではないのでサッと巡礼して足を進めます。
11月も下旬だったので途中綺麗な紅葉がありました。
11時33分、左手側に森が見えます。この森も古墳です。こちらは欽明天皇とは反対に聖徳太子より少し後の時代の権力者の陵墓ですが、こちらは天武天皇・持統天皇陵(檜隈大内陵)で、第40代天皇と第41代天皇、二代続く天皇の合葬陵です。
天武天皇(?-686)は天皇の位につく前までの大海人皇子という名でも知られ、古代日本最大の兄弟喧嘩・「壬申の乱」に勝利したことで有名ですね。
ちなみにここを過ぎたあたりにちょっとした丘があってちょっとだけしんどい。
チャリ巡りの「飛鳥びと」に待ち構える最初の試練なので「飛鳥びと予備軍」は覚えておいてください。
3.聖徳太子生誕の地・橘寺
飛鳥駅を出発して寄り道しつつ30~40分が経った、11時45分。
橘寺に到着します。
飛鳥駅に着いた頃は晴れ間が覗いてたんですけれど、曇ってきちゃいました。
ここが聖徳太子出生の地と言われています。ある意味、今回の旅の始まりの地です。静かなお寺で、決して賑やかな観光地という感じではありませんが、太子の聖地としての佇まいをひっそりと守り継いでいる素敵なお寺です。
ちなみにここの往生院の天井にある天井画が非常に美しいんですけど、天井画があると知った状態で行かないとほぼ確実にスルーしてしまいます。見どころなのでご興味のある方はぜひ覚えていってください。
このお寺は聖徳太子スキーとして何度か訪れていますが、今日はお参りはしません。
なんかあんまり映えないので2018年の盛夏のときに撮った写真もあげときます。
飛鳥駅からここまで歩いた距離は2kmちょい。記念すべき太子の誕生地に着いたところで次々と足を進めていきたいものですが、時刻は12時前。おなかがすいたのでちょいと寄り道を。
4.明日香の農村レストランで昼食
正午。雲の怪しさッパないですね。この前の日本最長バス紀行(奇行)のときもこんな天気だったんですけど、私が奈良のnote記事を書く時の旅は天気運が良くないジンクスでもあるんでしょうか。バス紀行んときも天気良いときに撮った別の写真も一緒に上げてたしな。昼食のために石舞台古墳のある方へ行きました。ちなみに道行く人々はみんな自転車乗ってました。
農村レストラン 夢市茶屋 12時ちょうど。
古代米御膳(1,250円)
古代米とその定食が食べられます。古代米の味は雑穀米みたいな感じでしょうかね? そして明日香村で採れた野菜・果物を使った、ヘルシーでやさしい田舎料理という感じでとっても美味しいです。鶏肉も小鉢も全部おいしい。そんで右上のお吸い物の隣にある呉豆腐?がチート級に美味いです。意味不明な弾力感(褒め言葉)と粘り気(褒め言葉)のある美味しい新食感を味わえます(本当に豆腐なのかこれ?)。ちなみに冬季には「飛鳥鍋御膳」に変わりましてこれも美味しいです。飛鳥の昼食にオススメ。
このレストランのすぐ隣にある石舞台古墳は、蘇我馬子の墓と言われています(※諸説あります)。蘇我馬子は聖徳太子と共に飛鳥の政治に関わった重要人物で、それについては後述もしますが、古墳そのものは既に何度か見学してるので今回はスルーします。
ちなみに石舞台古墳はこちら。
元々はピラミッドのような墳丘があったそうなのですが、それは風化?と共に失われ今ではこのように石室だけが露出しているそうです。
蘇我氏は古代の有力豪族ですが、どうやらここ飛鳥の地が蘇我氏の拠点だったらしく、この時代、6~7世紀の政治の中心地が飛鳥近辺であったことを考えると、まあまあこの氏族の政治的権力の大きさはデカかったんだろうなと思われます。
ここまで古墳とかの寄り道含めて3km以上・40分以上は歩いてますね。ここは本来の旅路のメインルートからは外れているので、空腹を満たしたところで徒歩の旅に戻ります。
5.飛鳥板蓋宮跡
12時44分。途中こんなのがあります。
飛鳥板蓋宮跡。
板蓋宮というのは、7世紀半ばの皇極天皇の宮です。ここは今でこそ遺構しかありませんが、聖徳太子の死後に起きた一大事件の舞台、日本史で有名な「大化の改新」が起こるきっかけとなったクーデター「乙巳の変」が起きた場所です。聖徳太子と直接関係はありませんが、彼の死後の国づくりの変遷が偲ばれる場所となっています。
蘇我氏の全盛時代を築いた蘇我馬子(さっきの石舞台古墳の被葬者)は、聖徳太子と共に日本の国作りをしていましたが、聖徳太子の死後、そして馬子の死後も、蘇我馬子→蘇我蝦夷→蘇我入鹿と蘇我氏は力を持ち続け、やがてその代々続く蘇我氏の態度があまりにも尊大だったのか、蘇我入鹿はクーデターによりこの場で滅ぼされてしまいます。あの日本史の教科書で首が飛んでいる絵で有名なとこですね。
古代、政治の機能が置かれる宮というのは、大王・天皇が変わるごとに場所を変えて新しく作り直すのが慣例だったようですが、ここは珍しく、年代の異なる複数の宮が同じ場所に重複して置かれたところという不思議な例を持つ場所になっているみたいです。単に皇極朝の置かれた宮を指す「板蓋宮跡」だけでなく、それら複数の宮をまとめて「飛鳥宮跡」とも呼ぶこともあります。
こうしてかつての大王・天皇が政治を行っていた場所を厭わずに重複して新しい宮を置くという習慣が、後の時代に奈良の「平城京」や京都の「平安京」のような恒久的な宮、そして都が作られる慣例に変わったのでしょうかね。
周囲は田畑です。雨は降ってないけど雲がヤバい。
6.飛鳥寺
13時00分
飛鳥寺に到着します。
ちなみに手前の五輪塔は「蘇我入鹿の首塚」です。
ここはさっきの板蓋宮から約1km離れています。そんで板蓋宮で起きたクーデターにより蘇我入鹿は滅ぼされますが、そのとき斬られた首がここまで飛んできた、というのがこの首塚の由緒なのだそうです。飛びすぎ。あるいは蘇我氏の邸宅(首塚のすぐ西側・甘樫丘にあったとされる)に助けを求めようと命辛々戻った途中で息絶えた場所、なんて説もあるみたいです。
まあそれは聖徳太子の死後の話なのでともかく……。
飛鳥寺は、さっきの石舞台古墳の被葬者とされる蘇我馬子が建立した、日本で最初の本格的な伽藍を備えた仏教寺院だとされます。それ以前にも仏教の小さな礼拝施設のようなものはあったみたいですが、本格寺院という意味ではこの寺が歴史上最初?のようですね(それまでは何かと廃仏派の物部氏の妨害があったので)。しかし、後に火災だの落雷だので伽藍はなくなってしまい、今では大仏さま(飛鳥大仏)が鎮座される小さなお堂が残るのみです。ちなみにその大仏さまは創建当初から場所が変わることなく千年以上安置されているだとか。
飛鳥寺の飛鳥大仏
大仏さまの撮影が許されている珍しいお寺でもあります(これは2018年撮影)。
もともと欽明天皇の時代に仏教が日本に伝わって、蘇我氏は仏教をはじめとする大陸の文化を積極的に取り入れようとしたのですが、蘇我氏に対抗する一大豪族の物部氏がそれに反対。やがて蘇我と物部は戦争をしかけます。そのとき聖徳太子こと厩戸皇子は蘇我側につき、結果、崇仏派の蘇我氏が勝利を収めます。
その勝利を記して、蘇我馬子はこの奈良・飛鳥の地に「飛鳥寺」を建立、そして聖徳太子は大阪に「四天王寺」を建立しました(法隆寺を建立したのはこれより後)。
住職さんのお話によると、この大仏さまは真正面(真南)を向いておられるのでなく微妙に正面から逸れており、その目線の先は南南西にある聖徳太子出生の地「橘寺」の方角なんだとか。
さてさて、そんなこんなで明日香村の中だけで聖徳太子とその前後の時代にまつわる色々な史跡やエピソードを紹介してこんだけ経ってしまいましたが、ここからが本番です。もうここまでで1時間以上、5km以上は歩いているでしょうか。これからは明日香村からだんだんと離れていって少しずつ観光色が薄くなりひたすら徒歩移動がメインになりますよ。明日香村およびその近隣地域には他にも古代日本の聖地がたくさんあるのですが、ありすぎて紹介しきれません。ご興味のある方は是非お調べになって、古代の日本の存在をより身近に感じてみてください。
ちなみに飛鳥寺のすぐ近くには、赤信号が4分・青信号がたったの20秒の信号がある。
ひたすら、田畑の道を歩きます。
写真だとただの曇天に見えるんですが、このときなんか雨がパラパラ降ったり止んだりの繰り返しで、しかも風が異様に強くて、しかも向かい風で、ここ遮るものが周りにほぼ何もなくて、寒くて泣きそうだった。つらかった。なんでこんなことしてるんだろう。
7.小墾田宮跡推定地
13時20分
雷という場所に着きます。この右奥の丘は雷丘と言うそうですが――、
この雷丘の東方(この写真より手前側)に、雷丘東方遺跡こと小墾田宮跡推定地があります。
雷丘の東方ではなく西方が小墾田宮跡だっていう説もあるんですけれどね。
あの一本だけ木が立ってるエモいところ(2018年夏撮影)。
どちらにせよ、ここは今でこそ田畑しかありません。が、こここそ、今回の旅路における重要な拠点になっています。
今回の旅は、「聖徳太子って、どう通勤してたんだろう?」という疑問から始まりました。この場所は、聖徳太子の職場跡そのものだと考えられます。
小墾田宮というのは、推古天皇の時代、推古朝が置かれた宮です(正確な位置については諸説あります)。推古天皇は聖徳太子が摂政を務めていた頃と在位期間がかぶっていて、いわゆる皆さんがよく知っている、「冠位十二階」の制定だとか、「十七条憲法」の発布だとか、遣隋使を送ったりだとか、現代に語り継がれる聖徳太子の政治的功績は、推古天皇とともにこの場所で行われたと考えられます。
すなわち、
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」
というあの隋の皇帝・煬帝が激怒した有名な国書をしたためたのもこの場所。
皇帝に激怒されながらも小野妹子ら遣隋使はなんとか対等な外交関係を得ることに成功し、答礼使として同行してきた隋の官人裴世清と共に帰国したのち、彼を招待した場所もきっとここでしょう。
田畑しかありませんが、ここはギャグマンガ日和的にも大変重要な聖地です。ギャグマンガ日和の聖徳太子と小野妹子の旅路を追体験するなら、ここから出発して海を渡って中国の洛陽に行きたいものです。
さて、ここから少し西に向かいます。
雷丘を見上げながら歩いていきます。
ここからやっと本題という感じなのですが、先ほどの小墾田宮の推定地が、聖徳太子が大活躍した時代の政治の中心地であり、聖徳太子の職場だと考えられます。しかし聖徳太子はのちに斑鳩の地に法隆寺を建立します。その法隆寺がここからまあ20kmぐらいあると。
飛鳥駅からここまで歩いてくるだけで既に実時間で1時間以上、距離にして6km以上歩いてますが、まあまあ疲れが出てきています。まあでもここから法隆寺までその3~4倍近い距離があると。うーん、どうなんだ?
8.筋違道を訪ねてひたすら歩く
聖徳太子は斑鳩の地に法隆寺を建立するために、小墾田宮、つまり職場から斑鳩まで何度も往復をしたのだそうです。どのぐらいの頻度かは知らないんですけれど。それで、その往復のための専用道路が当時あったのだそうです。それを筋違道または太子道と呼ぶのだそう。
小墾田宮からみて法隆寺のある斑鳩は北北西方向です。どうやらその筋違道というのは、その北北西方向に斜め一直線に整備された道だったのだとか? でも現代では、小墾田宮から法隆寺までの間に、斜め一直線の道が遺る箇所は部分的に見受けられども、
(たとえばここ)
その全てを結ぶ道は遺されていません。その道としての全貌がどのようなものだったのかは謎です。
9.飛鳥川と共に
13時25分
先程の雷丘を通り過ぎると、飛鳥川が現れます。私の解釈ですが、概ねこの飛鳥川と筋違道はおおよそ平行しているものとみられ、小墾田宮から法隆寺までを歩くには、この飛鳥川に沿って下っていくような形になります。ただし、あくまでこの飛鳥川は現代の治水がなされた飛鳥川であり、1400年前の飛鳥川がどうだったかまでは分かりません。まあいずれにせよ、この飛鳥川とは長い付き合いになります。
ほんと、曇ったり雨が降ったり晴れたりと不思議な日でした。
10.橿原市入り
飛鳥駅から歩くことおよそ8km、気づくと明日香村から離れ橿原市に突入していました。左が北、右が南です。
地図の上の方に香久山がありますが、これが万葉集とか百人一首とかで「天香久山」とよく歌われる有名な山です。
途中何度も飛鳥川を横切る小さな橋と出会います。
11.藤原宮跡を掠る
また案内地図と出会いましたが、この道中は遺跡とエンカウントする回数が明日香村と比べて多くありません。
近くには藤原宮跡があります。
(藤原宮跡・2020年2月撮影)
ここは列柱の再現があるのみで、周りはだだっ広い広場というか公園みたいな感じになってます。今回は寄りませんでしたが。
藤原宮跡は、遣隋使によって中国の国のシステムや都についてのノウハウが日本にも伝わり、中国の都に倣い条坊制すなわち碁盤の目で作られた日本で初めての都です。ちなみに藤原という名がついていますが、この藤原というのは地名らしくて藤原氏の都的な意味ではないそう(でも藤原氏の由来は藤原という地名由来らしいので関係あると言えばないでもない)。
このあたりから脱・飛鳥が始まり、やがてこのあと都は奈良市の平城宮に移されて奈良時代に入ります。
噂をすれば平城宮。この道は自転車道にもなっていて、奈良時代の都であった平城宮跡(奈良県北部の北部・奈良市)まで続くようです。
てかあのねえ、本当のことを言うと自転車があればいちばんよかったの。でも明日香村のレンタサイクルで村から著しく離れるのはアウトだし、輪行はできないし、ましてや距離の遠さを知るための旅なんだから公共交通機関を使うのはご法度だし、歩くしかないんや。
まだまだ飛鳥川。
14時ごろ
もうほとんど落葉していたけれど素敵な道があった。もう少し早い時期であれば綺麗な紅葉のトンネルだったんだろうか。
この飛鳥川の右側に沿ってる緑色で描かれた小さな歩道です。
そして飛鳥駅から歩くことおよそ10km、近鉄橿原線の線路下をくぐる。
まだまだ続く飛鳥川。
12.突如現る新ノ口連絡線
飛鳥駅から徒歩11km、そうして歩いていくうちに鉄オタスポットを発見。
近鉄の「新ノ口連絡線」です。この近くには近鉄の大和八木駅があるのですが、
この駅は東西を横切る近鉄大阪線(高架)と、南北を貫く近鉄橿原線(地上)が十字状にクロスする駅です。
さっきの新ノ口連絡線は、これらの近鉄大阪線⇔近鉄橿原線を結ぶ連絡線になっており、名古屋・伊勢方面からの電車と京都方面を直通する特急列車がわずかに通過する珍しい線路です。詳しく知りたい人はググって。
このへん(線路の地図はほっっっっそい線でしか表示されないのでGoogleマップではよく拡大して見て)
13.溜め池?幻の大和湖の謎
そして溜め池?がありました。飛鳥駅から徒歩12km。
ところでこのへんなんですけれども
地図上で溜め池らしきものがポツポツ見えるのが分かりますでしょうか。
私の地元、播磨も隣の晴れの国・岡山県と並んで似たようなところがあるんですけれど、奈良県の平野部ってまあまあ水不足になりやすいそうで、農業のために溜め池を作った場所が多いのだとか。現にいま一緒に歩いている飛鳥川もそんなに水量の多い川ではありませんからね。もしかしたら農業用じゃなくて防火水槽かもしれませんけど。
でも水不足だからといって農耕に適さない土地かというとそうではなかったみたいです。というのは、(本当かどうかは分かりませんが)話によるとこのあたりの広い範囲はかつては湿地であり、それよりもっと昔はかつて「湖」だったのだとか。いわゆる「奈良湖」とか「大和湖」と呼ばれてるみたいです。
聖徳太子と共に政治を行った第33代天皇・推古天皇の次の天皇、第34代天皇・舒明天皇(593?-641)が作った歌に、次のようなものがあります。
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ 美国ぞ 蜻蛉島
海原は 鴎立ち立つ
という一節があります。かまめはカモメのことでしょうか。
天の香久山というのはさっき橿原市の地図でチラっと出てきた香久山のことです。
いろんな和歌に頻出するこの香久山ですが、富士山のようなデカい偉大な山かというと全然そうではなくて、標高は152mしかありません。小高い丘みたいなお山です。
そんで奈良県は日本地図を見たら分かる通り内陸県です。海なし県です。
そんで奈良県から最も近いであろう海・大阪湾の前には生駒山地や金剛山地があります。日本で最も勾配がきつい国道(酷道)を持つ有名な暗峠もあります(標高455m)。
標高152mしかない天香久山から最も近いであろう海・大阪湾も、大和国と河内国を隔てる山脈に遮られて見えるわけがありません。なのに、
海原は 鴎立ち立つ
とはどういうことなんでしょう。
実は奈良県って北部に限って言うと、小さな川はたくさんあれど、それらから海に注ぐ川は大和川ぐらいしかありません。故に、私がいま歩いているあたり、たくさんの川が大和川に合流する前の広い範囲では、大昔は水が溜まっていて幻の奈良湖・大和湖なる湖があって、海原というのはその湖のことを指しているのだとか。そしてその水はやがては大阪湾に注ぐので、沿岸部に生息するはずの鳥がたまたま大和湖まで飛んできたのを見た一句かもしれないと。
琵琶湖とか諏訪湖も流入河川は多いのに流出河川が1本だけなので水が貯まっているということから、大阪府・生駒山地を前にして水が貯まり湖が出来るというのは想像できなくもないですね。
でもその湖は大阪湾への流出量が増え、次第に小さくなり消滅、とっくの昔に陸地化して現在のような大和平野になり、奈良湖・大和湖は幻の湖となったみたいです。既に弥生時代からこのあたりは水田が進んで作られたとも言われており、仮に後世の飛鳥時代に舒明天皇が詠んだ「海原」が幻の奈良湖・大和湖だとして、それがどのぐらいの大きさだったのか、あるいは沼地が点々としていたのか、謎は深まります。
舒明天皇の国見歌についてはこちらのページにもより詳しい説明があるので興味があればぜひ詠んでみてください。
14.大和平野を歩く
現代でも確かにこのあたりは田畑が多い。
12月目前なので稲刈りはとうに終わっていますが。
この近辺は今では宅地化も進んでいますが、大昔は湖で、次第に水量が減り、やがて小さな沼地や湿地化、そして陸地へ、という経過でこのあたりの土地は変化してきたんでしょうか。縄文~弥生時代にかけて稲作が日本に伝わったといいますが、もともと湖であり湿地であったこの辺一帯の土地を使って、大和の権力者が広大な稲作を始めた可能性はありますね。
故に、ここらの大和平野は、農業を推し進めるには良い場所であったが、湿地であったため都などの重要な機能や施設・拠点を置いたりするには適していなかったのでしょうか。考えてみれば、この辺も広大な平野が広がっているのに、藤原京があるのはここより南、平城京はここよりもっと北、飛鳥の都ももう少し南部の山側に近い地域に集中していて、これらの政治的機能を持つ都はこの辺には作られていないし、めちゃくちゃ広い平野があるにも関わらず古代人はここを有効活用せずにそういった施設や拠点を置いていないという点で不思議だったんですよね。
さっきの溜め池自体は奈良湖・大和湖の片鱗というわけではないと思いますが、このあたりは溜め池が多いこと、平野部なのに藤原京や平城京クラスの遺跡が見受けられないこと、田畑が多いことから、大昔にはたくさんの水を湛えて土地を豊かにしていたんじゃないかと、大地と歴史のロマンを感じることが出来ます。
さらに聖徳太子のエピソードを信じれば、どんなに遅くとも飛鳥時代には、いま私が歩いているこのあたり、小墾田宮から法隆寺までの間をほぼ一直線に結んだ筋違道が存在したということになります。そこを聖徳太子が往復していたということは、当時どのぐらい立派な道として整備されたかは分かりませんが、そういう道が短期間のうちに容易に整備できるぐらいにはここは何もなかったか、あるいは聖徳太子の時代以前から人々がなんらかの意味を持って作られていたか、が考えられます。(聖徳太子に関係なくとも、そもそも飛鳥方面から大阪湾方面に抜けるにはどのみち法隆寺方面に進む必要があるわけですからね。)
聖徳太子がこの筋違道を移動したときに目に映る景色はどのようなものだったんでしょうか。豊かな田畑が広がっていたのでしょうか。それとも平野を潤す湿地だったんでしょうか。夢が広がります。
飛鳥川も昔からここを水が流れていたんでしょうか。それとも後世になって治水を重ねた結果ここになっているんでしょうか。
もしかしたら聖徳太子が筋違道を何度も往復すること自体が、かつて湿地だった大和平野の視察も兼ねていて、川の治水だとか田畑の区画整理とかに一役買っていた可能性も考えられるんですよね。これも伝説の話なので眉唾なのですが、聖徳太子は現代の奈良市あたりの広大な地域を見て、
「やがてここに大きな都(後の平城京のこと)が出来るだろう」
という未来予知をしたというエピソードもあります。さきほどの舒明天皇のように山の上から「国見」をするのとは違い、聖徳太子は陸路を移動することで聖徳太子なりの「国見」をしていたのかもしれません(愛馬の黒駒で空を飛んだってエピソードもありますけれど)。
平城宮跡(2016年5月撮影)
15.田原本町入り・笠置山地
14時40分ごろ、飛鳥駅から歩くこと13km。田原本町に入りました。
景色の開けたところが出てきて、笠置山地が見えてきました。っていうかあれ笠置山地でいいんかな?向こう側が三重県になってて、奈良盆地の東側に南北方向にズドーーン!!!って立ち並ぶ山々。
うっすら紅葉しているんですかね?山粧っていて綺麗です。青々とした夏の山とは違った趣があります。
Googleストリートビューで見るとここ。
この景色は私のとっても好きな奈良の景色です。具体的にどこそこから見た場所の景色、というんでなく、この広大な奈良盆地の平野部と、その奥に映る横一面に広がる山々の景色。ザ・大和って感じでほんすこです。美しい。ただの山と平野なんですけど、私自身にとっては地味に感動します。「うましうるわし」とか「あきつしま」ってこういうことを言うんだなあと。JR桜井線(万葉まほろば線)もこの笠置山の麓に近いところを並行して走っているので素敵ですよ。
おそらく真正面奥に見える山々のどれかが三輪山です。何も遮るものがなければ大神神社の大鳥居が見えてたのかもしれないなあ。見えてたらとってもロマンチックだけどなあ。
大神神社の大鳥居(逆光の写真しかなかった・2017年4月撮影)
さっき奈良湖・大和湖の話をしましたけれど、大神神社とか石上神宮とかがあるのもあっちの山の方角(東側)なんです。まあ一般に神社が山側にあるのは神様が高いところに降りてくるからという解釈で分かるとして、他にも権力者の古墳とか、あと邪馬台国畿内説として有力視されている纒向遺跡があるのもあちら側なんですね。そしてこっち側(平野部)にはそういった遺跡はあんまりない。やはりこっち側は湿地で、農耕には適している反面水害のリスクも高く、あちら側の山沿いの方が古代では何かと政治的拠点を置くのに良い場所だったんじゃないですかねえ。
でもこのあたりからの景色は綺麗ですよ。昔は遮る建物がなくてもっと美しかったんでしょうか。いや、遮るものがなさすぎて冬とか風が寒かったんでしょうか。
なんか、「この地域に古墳が集中しているのは、ここが陵墓として宗教的に良い意味を持つ場所だからなのではなく、そもそもここ以外に作れる場所がなかったから」みたいな話を感じますね。例えば日本最大の前方後円墳、教科書の写真でもよく見る仁徳天皇陵(大仙陵古墳)も、現代では周りに人がたくさん住んでいますけれど、建設当初はすぐ西側は大阪湾だったとか言いますし。一説にはここに古墳を作った意図は、「渡来人が大和を目指して海から陸に上がってきた時にまず目にすることになる偉大な権力者の墓だから」というのがあるそうです。
(現代では埋め立てが進み、古墳から西の大阪湾まで少し距離がある)
16.県営福祉パーク
14時50分、県営福祉パークとやらに着きました。
別に観光地ではないんですけれど、自販機とお手洗いと休憩所があったので少し休憩。
そろそろ足がヤバい。
再び川に沿って歩き始める。
もう、絵に描いたような大和平野・奈良盆地の景色です。川があって田畑があって人家もあって、そして奥には山々が並んでて……。これぞ我の愛する奈良の景色です。足がヤバい。
さっきお見せした笠置山地の写真は奈良盆地東側の山の景色だったんですけれど、反対の西側の山の景色も綺麗なんです。JR桜井線(万葉まほろば線)の車窓を見ていると、人家が少ないところでは東西両方に奈良盆地を囲む青垣山が見えたりして美しい。
しかし足がヤバい。死ゾ。
17.限界を感じる
15時過ぎ、飛鳥駅から歩くこと15km。
飛鳥川はまだまだ続く。
そろそろ足がヤバい。
きけん。
まだ15時で日没までには時間があるが、とはいっても12月目前、日が暮れるのは早い。既に日の傾きを十分に感じており、歩き続けようと思えば足がぶっ壊れるまで歩き続けることはできなくもないが、このまま法隆寺まで歩いても着く頃には真っ暗、それに翌日は東方紅楼夢があり、宿に着くのが遅くなるのも体力的によろしくない。
それに現在地は田原本町。飛鳥から法隆寺までの筋違道は、おおよそ田原本あたりが中間地点になるのだという。つまり、今が折り返し地点である。
実際は明日香村の関係ありそうな史跡を軽く寄り道しながら巡ってきたので、実距離ではとうに半分以上の距離を歩いているのだと思うが、11時から歩き始めて、15時の時点でまだ半分というのはちょっとヤバい。
事前にGoogleマップでテキトーに検索したら最も効率の良いルートで約4時間半・約20kmなんて出るものだから、「まあ休憩込みで5時間ちょいぐらいで夕方には着くかー」なんて思いながら当日筋違道の地図を開いて(寄り道しつつ)なるべく地図の通りに歩くと思いの外時間がかかってて、いやこれはちょっとあかんなと。
今はたまたま晴れてるけれどこの日はずっと天気が安定しておらず、また雨が降ってもおかしくない状況でもあった。あと風が吹くと寒い。
そうこう考えてるうちにまた太陽光の陰りを感じる。
曇った。また溜め池。
再び雨が降りそうである。てか降りそう。ヤバいゾ。
(このあたり。飛鳥駅から徒歩16km)
法隆寺はさらに北西方向であるが、ここまでの諸々の判断により、交差点で進路を変えて東へ。
18.旅路の途絶え
15時32分、飛鳥駅から歩くこと17km。
近鉄田原本線の西田原本|駅に緊急着弾。
にわか雨が降った。
ポツポツポツポツ………。
足も痛い。
もうダメだ。この旅は、ここまでだ……。
目的地にたどり着くことなく、旅路は中断されました。
西田原本駅のすぐ隣には、田原本駅があります。
西田原本駅と田原本駅はほぼ隣接しています。
田原本駅が近鉄橿原線、西田原本駅が近鉄田原本線の駅で、両方とも現在は近鉄の駅なんですが、なんかいろいろ歴史的経緯があって二つの駅は統合されることなく、駅舎も別個になっています。橿原線と田原本線との間の渡り線はあるけれど相互直通列車はない。詳しく知りたい人はググって。
19.電車でワープ
徒歩の旅はここ田原本でギブアップということで、
西田原本15時41分発 田原本線 新王寺行きに乗車。
ちょっと田原本について調べてみました。
まず、田原本という地名の由来です。自治体の公式HPなどには地名の解説などがなかったので特にこれという正確な由来は特定できないのですが、
低湿地、地形の下がったところ、低地などを意味する地名
という説が多く出てくるようです。
この説が正しいとすれば、やはり歴史のある地名はその土地の特性を紐解いてくれる……。
実際は田原本よりも標高が低いところはあるのですが(大和川が大阪府に流れ込む直前の王寺町の方とか)、あとで調べてみると、出発地点の明日香村がおおよそ標高100m程度であったのに対し、田原本の標高はおよそ50mです。小墾田宮から出発してここ田原本駅に来るまでの17kmの間に50m分下ってきたということになります。体感としてはずっと平坦な道という印象だったんですけれど、やはり飛鳥川が上流から下流に向かうにつれて少しずつ標高も下がっていったようでした。
そして田原本には特筆すべき遺跡があります。「唐古・鍵遺跡」です。
ここは弥生時代の大変大規模な集落の遺跡が残っている場所です。当時の農耕具なども発掘調査で出土しており、弥生時代が農耕社会であったことを裏付ける遺跡となっています。
今回はここに寄ることは出来ませんでしたので簡潔にご紹介しますが、ここまで大規模な村というか集落というか、この広さのコミュニティがこの時代に築かれたというのは、やはり「大和平野に広がる肥沃な土地を使って大規模な農耕ができる」と睨んで、それを実際に行った大豪族がいたんではないでしょうか。
もう一つ、田原本は、聖徳太子の側近である秦河勝と関連が深い町でもあります。
田原本には、秦庄という地名があります。
秦氏は大陸からの渡来系の一族とされており、一説には本当かどうだか分かりませんが秦河勝や秦氏は中国の始皇帝の子孫であるなんて話も。それで読んで字の如くその秦氏の人達が開発した土地というのがこの秦庄なのだと。
そしてこのあたりには、雅楽の楽人や、能のルーツである猿楽に携わる秦氏が多く住んでいたとも言い、そんな話が秦楽寺に伝わっているそうです。
このお寺は日本の仏教寺院にも関わらず門が中国風になっているようで独特の雰囲気があります。秦国を意識しているのでしょうか。
広大な大和盆地の中央部に位置する田原本。平坦かつ広大な土地を持ちながらも、低湿地であった故なのか、政治機能を持った都市や宮が置かれた形跡はありません。皇族などの大規模な古墳も極めて少ないです。その一方、広大な土地には田畑が多く広がっており、弥生時代には大規模な集落があったり、秦氏が住んだと思わしき場所があり、また今回は触れていませんが古事記の編纂で有名な太安万侶と関係がある皇別氏族・多氏の拠点があったりなど、権力者が紡いできた歴史の表舞台には出てこないけれど、その舞台裏を垣間見れるような歴史が眠っている場所の一つ、それが田原本だと言えます。
20.新王寺駅
西田原本駅を出発しておよそ20分、電車は10kmほど走行して時刻は16時ちょうど。
終点、新王寺駅に着きました。
晴れやがった。電車乗った時は雨だったのに、乗ったらまた晴れやがった。本当天気がコロコロ変わる変な一日だったぜ。眩しいぜ。
新王寺駅という名前ですが、JRの王寺駅と隣接している乗換駅です。東京都北区の王子駅じゃないですよ。こちらは奈良県北葛城郡王寺町です。乗換案内検索で変換を間違えると大変なことになります。
王寺町も聖徳太子推しの町なんですよね。
駅には聖徳太子の愛犬と呼ばれるクソデカマスク付きの雪丸像が。
王寺駅の隣がまさに法隆寺駅なんですけれど、今回は飛鳥から、ちょうど筋違道折返し地点である田原本でギブアップということで、残り半分の田原本~法隆寺については自分の足を使わず、近くを走る近鉄の田原本線でワープしてきたという形で終わりました。
ちょうど王寺駅を出発して法隆寺駅へ向かう大和路快速。
今回は田原本でギブアップしたということで、別にこれから電車で法隆寺駅に向かっても、そして法隆寺駅で下車して夕方の法隆寺まで歩いたとしてもそれに今回の旅の意味はないので、法隆寺方面の電車には乗りません。
法隆寺とは反対の大阪方面の電車に乗り、翌日に備えて宿に急ぐことにしました。ボッッッロボロのクッッッタクタの足で。
速達の大和路快速でなくあえて王寺駅始発の普通列車に乗ることで着席権を得て足を休ませる奈良ライフハック。
翌日は東方紅楼夢に参加しました。楽しかったけど足がヤバかった。膝が爆発するか、膝に土砂崩れが発生するかと思った。
21.結論・まとめ
今回聖徳太子が移動に使ったであろう筋違道を訪ねて、自分の足で徒歩で移動チャレンジをしてみました。結果はご覧の通り、翌日のことも考慮して田原本でギブアップという形になってしまいましたが、実際にこうして歩いてみて得られた知見があります。それは……、
たとえどんなに時間があったとしても、徒歩で通勤できる距離ではない
ということです。断じて。
一旦この道を毎日徒歩通勤するのは難しい話だとしましょう。
もし仮に現代の一週間で、平日はずっと飛鳥の職場で寝泊まりしてて、そんで土日は斑鳩に行って法隆寺の建設具合の様子見をしにいく、なんてライフスタイルを考えたとしても、金曜日に仕事を終えて毎週末20km移動して、そんで月曜日にはまた飛鳥に仕事しに行って……、ってのはちょっとしんどいんじゃないかと。ただでさえ半分の田原本でギブアップしてるのに。別に県境超えとかしないし、山や峠のような勾配はなくほぼ平坦な道だからずっと歩き続ければ着くやろなんて思ってた自分もいましたが、まあまあ甘かったみたいですね。
この距離を定期的に往復するには絶対に馬が必要です。
このクソボロの脚をもって実感しました。
飛鳥駅スタートじゃなく本当に聖徳太子の職場、小墾田宮スタートだったとしても、全体の行程から見ると飛鳥駅と小墾田宮の距離なんて誤差みたいなものですから、結局法隆寺に着く頃にはもうボロボロになるのは想像に難くないんですよね。
西田原本駅から法隆寺までGoogleマップで適当に経路を出させても、徒歩で2時間、距離にして10kmあります。
小墾田宮から法隆寺まではおよそ20km、徒歩で20kmというのはやはりそれだけでほぼ一日が終わってしまう(特に日が出ている間に行動するとなれば)。
残り半分のルートはまた今度機会があったらチャレンジしてみましょう。おそらく後半のほうが、かつての本物の斜め方向に整備された筋違道の片鱗が残っているはずなので。
ちなみにこの後半ルート、やはりさっき乗った近鉄田原本線と並行しているフシがあるので、筋違道の鉄路バージョンが田原本線という解釈もできそうですね。
22.馬での移動を試算してみる
斜め方向に直線に走るという特殊な整備がなされた筋違道ですが、馬を走らせる必要性があったのであれば、確かに奇抜ながらも直線に整備される必要性はあったのだろうと考えられます。
聖徳太子は、愛馬の黒駒と共に日本中を駆け巡ったどころか空を飛び富士山を登ったなんて伝説もありまして、その伝説をそのまま鵜呑みにするんなら飛鳥と斑鳩を往復するなんてさぞ容易いことでしょう。
こういう伝説めいたエピソードがたくさんあるから聖徳太子非実在説なんてのが提唱されるんですが、実際問題、この筋違道、飛鳥と法隆寺のある斑鳩を馬で移動するとしたらどのぐらいかかるんでしょうか?
馬のことは詳しくないのでちょろっとググってみると良い感じの情報に当たりました。
以上のページを参考に、情報を整理しつつ考えてみます。
サラブレッドなどの競走馬がひとたび襲歩をすると、なんと時速60~70km
競走馬が全速力を出すと60~70km/h出せるそうです。が、一日5分程度しか走ることが出来ず、この速度で移動できるのは4~5km程度なのだと。
これでは20kmある筋違道を走破できない。
お馬さんも体力を消耗するので、速度に応じて一日に走れる距離は決まっているそうです。一定の速度や距離を走らせると休息が必要になります。
駆歩だと20~30km/hで、一日で最大約30km走行可能だそうですが、駆歩は一度に30分が限界。
ということは、30分では10km程度しか走れないので、途中で休憩を取らせないと一度に筋違道を走破するのは不可能。ましてや一日で往復するとなると40kmになるので、少なくとも同じお馬さんで斑鳩⇔飛鳥を一日のうちに行って帰ってするのは不可能です。行きと帰りで馬を交代させればワンチャンあるかもしれませんが。
速歩だと13~15km/hで、一日に数回繰り返しで約30~45km移動可能、速歩を継続できるのは1時間程度。
これだと途中折り返し地点の田原本で休憩させればなんとか行きと帰り同じお馬さんで筋違道を往復できるか? でもお馬さんのペースに合わせつつ遅刻しないようにしないとだなこれは。
太子「河勝おっはよぉ~~黒駒に水やってよぉ~」
(イマジナリー田原本の存在しない記憶)
常歩が最も長く継続的に移動できて、速度は5~6km/h、一日約50~60km移動可能、何日も継続して長い距離を移動できるとのことで、これが最もお馬さんにとって負担が少ないそうですが、常歩だと人間の歩行速度より少し速い程度、人間の代わりに馬が歩いてくれるって感じなので、時間短縮を目的に走るという点では効果は薄そうです。
よって、同じお馬さんで筋違道を一日に往復するのに最も現実的な速度は、13~15km/hの速歩だと考えられます。
しかし、上記のページを読み進めると、新たな事実に気が付きます。
飛鳥時代でなく江戸時代の話ですが、江戸時代の日本で使われていた馬はサラブレッドのような速度が出せる大きな競走馬ではないと。
どちらかといえば小柄で脚が短くずんぐりとした在来馬で、人を乗せたうえで走るスピードは速くても時速15kmほど、加えて街灯のない真っ暗な暗闇の中では馬は走ることができないため、活動時間は日の出ている間の10時間程度に限られてしまいます。
速くても時速15kmほど……、活動時間は日の出ている間……。
飛鳥時代の政治家のライフスタイルは詳しくないんですが、たしか平安時代ぐらいの話ですかね、平安貴族は午前3時ぐらいに起きて日の出前の薄明かりの状態から出勤し、早朝から仕事をして昼過ぎには仕事を終えるみたいな話を聞いたことがあります。日没するともう明かりがない故、夜はただ寝るだけか、人に言えないことをする以外にすることがないので……。飛鳥人も午前3時ごろに起きるのかどうかは分かりませんが、もしそうだとしたら、日の出前のまだ暗い大和平野を馬が走れるのか。走れたとしても飛鳥の出勤に差し支えはないのか。馬に乗って移動するだけでも人間の体力は必要ですし。
調べれば調べるほど不確定要素が増えます。ここまでの情報が出揃ってしまうと、むしろ、やっぱり黒駒は空を飛べるぐらいのスーパー馬だから日の出前の暗闇の大和平野など物ともせず余裕で20km走破しちゃうみたいな絵空事の方が却って説得力ありますよね。やはり黒駒伝説は本当なのか……?
23.おわりに
徒歩で筋違道を移動するのは体力的にも時間的にも無理がある。しかしお馬さんで筋違道を移動しようにも現実的に厳しい部分がある。本当に聖徳太子はあの道を定期的に往復したのか? 謎は深まるばかりです。
そもそもなんで聖徳太子は法隆寺をあの斑鳩の地に建立したのかってのも謎があるんですよね。飛鳥から20km離れてるんですよ。しかも日常的に移動できるかどうか分からない微妙~~~な遠さ。
大阪の四天王寺なんかは、廃仏派のリーダー物部守屋を打倒し物部氏の領地を没収してその上に建てたなんて説があるのでその理屈は分かりますし、蘇我馬子が建立した飛鳥寺は文字通り飛鳥の地、蘇我氏が拠点にしていた場所且つ小墾田宮にも立地的に近いところに建ててあるので合理的です。問題は法隆寺。
個人的にはやっぱり、聖徳太子が意図的に飛鳥から離れようとした気配が拭えないんですよね。
一説には斑鳩は大和川沿いにあるので、たとえば遣隋使が帰国してくる時に大阪湾から大和川に沿って遣隋使一行が大和に帰ってくるとしたら、法隆寺のある斑鳩はその中継地点になるので、遣隋使一行が飛鳥に入京する前に遣隋使の情報をフライングゲット出来るとか、隋から持ち帰ったものを見れるとか、そういう地の利もありますけど、それ以外にもなんか、聖徳太子にとって日常的に飛鳥にいたくなさそうな理由がありそうな気がするんですよね。
晩年の聖徳太子はあんまり政をせず仏典の研究に熱心だったとも聞きますので、政治よりも仏教にお熱で、そのお勉強を人に邪魔されたくなかったんじゃないかとか、あるいは聖徳太子が実はもっと政治的権力めっちゃ欲しいマンで、
「蘇我氏がいなくなったら今度はここ斑鳩の地を都にしちまうぜヘッヘッヘ」
みたいなことを密かに企てていたとか、そういうのが考えられるんですよね個人的に。(まあ聖徳太子の子である山背大兄王は天皇の後継者候補であったものの、天皇の座につくことなく、挙げ句には蘇我入鹿に襲撃され自害するという悲しい結末を迎えるのですが……)
こうして筋違道を歩いてみるという目標のもと、実際に飛鳥を出発して20km近く歩いてみましたが、目的地の法隆寺に着くことなく田原本でギブアップ、その日常的に往復するには現実問題としてしんどいことを実感しつつ、かといって馬で移動できるかというとその保証もなく……、
「聖徳太子って、どう通勤してたんだろう?」
この疑問は解決することなく、むしろ謎がより深まる形で未完となりました。
ところで、飛鳥からはるばる20km馬を走らせて斑鳩にやってきて、
「隋に行ってて忘れてたけどそろそろ建設中の法隆寺が完成してる頃なんだよな……楽しみだ……」
なんてぶつぶつ独り言を言いながら斑鳩に来たら完成してるはずのお寺がひどくこざっぱりしてるとだいぶショックを受けますよね。そうだとするとギャグマンガ日和のあのネタもまあまあ現実味を帯びてくるか?
残り半分(田原本~法隆寺)はまた機会があれば歩いてみようと思います。もしその時が来たら応援してくれると、嬉しい!!!
おわり(未完)。
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