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「オケバトル!」 35. 課題のヒントを見逃すなかれ


35.課題のヒントを見逃すなかれ


 次なる課題曲は《こうもり》序曲の可能性が大。もしくは劇中のアリアか何かかも知れないが、課題が《こうもり》には違いなかろう。

 絃人は確信を持ってAチームの仲間に通達した。
「指揮は、この有出絃人が全責任をもって振らせてもらいます。皆さんは、シュトラウスの、この名作オペレッタについて、ランチ休憩の時間にうんちくを語り合うか、仮に疎い者がいるならば正直に周囲にあれこれ教わるか、できればリハーサルまでにライブラリーに出向いて過去の名演を観賞するなど、ぜひとも各自で想いを馳せておいて頂きたい」

 ライバルチームには悟られぬように。との追加事項は当然すぎて、あえて触れなかったのだが、これが災いしてか、あるいは仮に釘を刺しておいたとしても、裏切り者の誰かさんによってバラされる結果は変わらずだったか、ともかくAのご一行様がランチもそこそこに、映像の鑑賞も可能なライブラリーのドアをいそいそ開けると、そこは既にBチームに占領されていた。

「一人たりとも、入る隙間なんてありゃしなかった」
 との報告に、
「なあんだ。Bも知っていたか」
 悔しがるAの幹部。しかし、
「本当に知っていたんだろうか」
 と誰かが言い出し、絃人が情報源は砂男=コッペリウス=ファルケ博士の朝の変装だったことを明かすと、Bがファルケの扮装を目撃したとしても、それが課題曲のヒントとはすんなり結びつかないのでは? 怪しい。絶対に怪し~い。と皆が騒ぎ出し、そこで弦の過激なおば姉様方の登場となる。

「またしても、あなたが妹に漏らしたわけ? 極秘の貴重な情報だったのに」
 双子の姉、クラリネットの早苗を問い詰める。
「口止めされなかったし、自分たちだけこっそり予習しとこうなんて、フェアじゃない。正々堂々と戦うべきでしょ」
 と逆襲され、あきれ果てた姉御らは、
「叱りつけるだけ無駄だから、次なるいけにえは彼女に決まりね」
 勝手に決定を下してしまう。

「で、Bチームが観てたのは?」
 憤る彼女らに問われ、
「そりゃあ、もう。我々も観ようとしてた、94年に来日したウィーン国立歌劇場の引越し公演ですよ」
 と、興奮気味に語るは、先にコンマスを務めた稲垣。《こうもり》おたくといえるほどの通であり、疎い者を先導してちゃっかりライブラリーでの観賞を目論んでいたのだ。

「ああ! ヘルマン・プライのアイゼンシュタインに、ヨッヘン・コワルスキーのオルロフスキー公爵ですね! 古今東西、あの夜の舞台こそが人類の誇る最高の《こうもり》だったなあ!」
 実際にライブで観賞したファゴットおじさんが悲鳴のような声を発する。
「よく映像が残ってますね。だってあの舞台、DVD化されてないでしょ」
「うちはVHSからちゃんと DVDにダビングして永久保存ですよ」
 とファゴット氏に、うちも。私も。と、幾人かのマニアが同調する。
「プライって、最高のバリトンでしたよね」
「浮気男のアイゼンシュタインに、フィガロやパパゲーノといった、ちょっとおどけた役をやらせたら、もうはまりすぎて右に出る者なんていなかったね」
「本当に味わいがあって。人間味があって」
「ですが、ドイツリートも素晴らしかった」
「97年の、生誕200年記念のシューベルティアーデの舞台で、6夜に渡ってシューベルトの一連の歌曲を披露して……」
 安部真里亜がうっとりと遠い過去の舞台を思い起こす。
「最終日の《白鳥の歌》のラスト、〈鳩の便り〉の歌い出しができなくなって、いったん袖に戻られたんですよ」
 ファゴット氏も、そうでしたねえ〜と、深いあいづちを打つ。
「『シューベルトは人生そのもの』と語っていたプライの、長年の集大成としての舞台で、感極まってのこと。と客席も皆、うるうる感動の渦でしたけど……」
 と、涙ながらの真里亜さん。
「後日の本人談によると、それまでのリュッケルトやハイネの詩と、ラストのザイドルの詩の雰囲気がそぐわなくて、仕切り直しが必要だったとかで」
「《白鳥の歌》って、シューベルトの実際の白鳥の歌で未完になってしまったから、おしまいの〈鳩の便り〉は、当時の出版者の判断で入れられたんですものね」
「でも、理由はどうあれ、途中で袖に引っ込むこと自体が、彼の温かな人間味を感じさせてくれましたよね」
「その翌年に亡くなられて」
「人類の貴重な世界遺産ですよ」
「課題の《こうもり》に話を戻しますけど、プライのアイゼンシュタインって、あんなに愉快でお茶目なのに、オペレッタの枠を超えて、完全なるオペラの風格でしたよね」
「粋なのに、格調が高くて」
「国立歌劇場の舞台そのものが、フォルクスオパーのノリとは完全に次元が違いますよね」
「どうでしょう?」
 稲垣が提案する。
「どうせBはまた、軽快で大衆的なノリで仕掛けてきそうだから、我々は格調高き国立歌劇場の舞台を目指しては?」
 皆がヤル気満々で賛同するが、誰かがぼそっと言った。
「でもBの奴ら、まさにその格調高き国立歌劇場の映像を、今のこの瞬間、じっくり研究してるんだよね」

 クラリネット嬢には、やはり抜けてもらうしかなさそうだ。



 実のところ、砂男こと楽器庫の番人=アントーニアの祖父は、早朝の散歩で出くわしたAのリーダー格の若者同様、Bのおなじみ青年にも課題曲のヒントを公平に与えていたのだが、アントーニア嬢にすっかりのぼせていた浜野亮は、楽器室での茶番が、実は貴重な情報源となっていたなんて露にも思っていなかった。
 指揮者の責務からようやく解き放たれたと、呑気にランチ後のデザート、濃厚バニラアイスにチョコソースとクラッシュアーモンドをトッピングまでして、しみじみ味わっていたところに、金管の強面チームメイトら──実際は強面なんかではなく、ただ態度が大きいだけ──が数人でやってきて、容赦なく回りを取り囲んだ。

「マエストロ、お願いしますよ」
 でかい態度ながら低姿勢の口調で切り出し、あなたはウィーン通のようですし、あのAのうっとうしい有出の奴と対等に張り合える人材として、審査委員長さんからも一目置かれてるわけですし、何とか続けて頂きたいんですけどね。と、すごんでみせる。
 続けるって、何を? という質問をしても答えは分かっていた。
 どうする? 辞退して元の名もなきトゥッティ族に埋没するか、踏ん張って挑戦してアントーニアに評価を請うか。
 少なくとも彼女が審査員席にいるうちは率先して活躍すべきなのか? しかし玉砕の危険だってあるのだ。

「マエストロ、あなただけが頼りなんですよ。ウィーンの音楽、シュトラウスなら、いくらだっていけるでしょう」
「シュトラウス? また? 課題曲が発表されたんですか」
「いや、正式にはまだですが、その筋の情報によると《こうもり》序曲らしいんで」
 既に仲間の多くがライブラリーを占拠して名作舞台のお勉強中でして──なんて彼らの言葉はもう亮の耳に入らない。

 なんてこった! 看守に扮したフロッシュじいさんに、アントーニアも〈僕の可愛い小鳩ちゃん〉の歌で次の課題をご丁寧に教えてくれてたってのに! 彼女に気をとられるばかりでまったく気づかなかったなんて! どうしようもないおバカさんじゃないか。
 浜野亮、重大ヒントを見逃してしまった負い目を真摯に受け止め、チームメイトへの謝罪の思いも込めて、再びタクトをとる覚悟を決める。アントーニアだって、きっと喜んで見守ってくれるだろう。それに課題が《こうもり》序曲なら、任せとけって叫びたいくらい、自分にとっては呼吸みたいな曲だしね。
 劇中、登場人物が思い思いの密かな思惑を隠しきれず、実は深刻な場面でありながら、ついついうきうきと歌いだしてしまう楽しいフレーズが亮の口から漏れる。
 不安そうな表情から一転、マエストロのご満悦な様子に安心した金管族も、ラン、ランラランラン、と上手な頬笛で調子を合わせ、一行はリハーサル室へと愉快に肩を揺すりながら仲良く行進して行った。



 地獄の番人ならぬ楽器庫番の翁が暗に示したとおり、バトル四日目午後にして八つ目の課題曲はヨハン・シュトラウスⅡの喜歌劇《こうもり》序曲と正式に発表される。これまではリハーサルの場に皆が集合してから編成や演奏の方向性などがあたふたと決められてきたが、今回は事前情報のおかげで、両チームとも早々と準備を進めることができていた。

「こうして前もって課題の曲に皆で慣れ親しんでおくのって、なんか、いいですよねえ」
 そろそろリハの始まる頃なのでと、きりのいいところでDVD観賞を中断し、後ろ髪を引かれる思いでライブラリーから引き上げてきたBチームの観賞隊ご一行。極上ワインに酔いしれたかのごとく素敵な名演舞台の余韻に浸っていた。
 ホルンの青年の素直な感想に皆がうなずき合う中で、
「しかし本来はバトルだから基本は臨機応変、迅速に対応してかないと。呑気に音楽鑑賞なんて、今後はそうそう出来ないでしょう」
 現実的な意見も述べられる。
「それにオケ人なら、それが熟知した名曲だろうと謎の現代曲だろうと、短時間のリハでさっと仕上げれる能力が要求されるわけですしね。バトルでなくたって」
「いやいやいや」
 と、トランペットの上之忠司。彼もまた、世紀の名舞台をリアルタイムで舞台からも客席からも目の当たりにしてきた貴重な生き字引の一人である。
「本番の幾日か前にパート譜が団員に渡され、たまにやってくる指揮者による一、二度の短いリハで、本番 ──曲によっては副指揮者が事前にあらかたまとめておく場合もあるが ──。そうしたことの繰り返しが大概のオケの実情だけど、果たしてそれで良いのだろうか」




36.「一括おやじの夢のオケ」に続く...




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