「オケバトル!」 51. 見てはならない狂乱ボレロ
51.見てはならない狂乱ボレロ
暴走ピアノ騒動の次なる課題は、同じくラヴェル作曲の〈ボレロ〉。
ベジャール版〈ボレロ〉のバレエの舞台を彷彿させる、裸老人の奇怪な姿が一同の心に否応なしに焼き付いてしまったせいもあり、Aチームのリハーサル室では早々集まってきた面々により、楽曲云々ではなく往年ダンサーらの忘れがたき名演への憧憬が熱く語られていた。
「わたし、ジョルジュ・ドンにサイン頂いたことあるんですよ」
とは「水かけマリア」こと安部真里亜さん。
「ほう? それは貴重なお宝ですね!」
「劇場で、当日出番のなかったドンさまと通路で鉢合わせになって、思わず掟破りを......」
「掟破り?」
掟破りとは、オフ時の有名人に話しかけ、プライベートタイムに容赦なく踏み込んでゆく、いわゆる「わきまえないファン行動」のこと。
「彼の写真も載ってるバレエのチラシ、ちょうどロビーでもらって来たばかりで手にしてたので、サイン下さい! と。ドンさま、嫌な顔ひとつしないで『お名前は?』とまで尋ねてくれて」
「マリアさんの名前はウケたのでは?」
「ううん。その夜は妹に子守りの留守番を頼んでたので、妹宛のサインにしてもらったの」
それは凄いお礼のお土産になりましたね! という一同に、真里亜さん、
「何年も経って妹にその話をしたら、全然覚えてなくて......」
残念なオチをため息まじりに語るのだった。
「今は亡きジョルジュ・ドンの貴重なサインも、いつの間にか紙ゴミに紛れて消えてしまったみたい」
「ジョルジュ・ドンの〈ボレロ〉の勇姿は、往年の名画『愛と哀しみのボレロ』で堪能できますよね」
「とっても長〜い、いい映画ですよね!」
「『午前十時の映画祭』で取り上げられたりすると、わざわざ観に行っちゃう」
「『午前十時の映画祭』って懐かしの名画を大スクリーンの大迫力、大音量、最高の音質で観賞できて、実にありがたい企画ですよねえ」
「やはり映画は大画面で観たい」
「今年はどんなラインナップか、チェックしとかないと」
話が脱線しかけたところで、ヴィオラの沢口江利奈が話題を〈ボレロ〉に戻す。
「〈ボレロ〉の代名詞は誰をおいてもジョルジュ・ドンさまとして、現役ダンサーの最高峰といえは、何と言ってもフリーデマン・フォーゲルと思うんですよ」
「フォーゲルさまですね!」
「あの狂乱の文化会館!」
真里亜やファゴット氏も目を輝かせる。
やはり皆さん当然のごとくご存知なんですね、と江利奈は当時をうっとり回想する。
「安全面を重視して、客席でのマスク着用は義務づけられた上で、飛沫感染予防のため、決して大声で叫ばないで下さいと、上演前に再三アナウンスで釘を刺されていたにも関わらず、フォーゲルが踊り終えるや、あの東京文化会館の大ホール全体が、半狂乱の大歓声に包まれて」
「それこそ、奇跡の舞台でしたねえ!」
ファゴット氏がうなずき、真里亜も、
「今、思い出すだけでも鳥肌が......」
ぞくっと身を震わせる。
「後継者は、ちゃんと出てくるものですね。今や〈ボレロ〉といえば、フリーデマン・フォーゲル———」
そこでどこからか、威勢のいい声が上がる。
「〈ボレロ〉といえば、Aチーム!」
すかさず小太鼓のさっそうとしたボレロのリズムが開始され、そうだそうだと、スコアの順序は関係ナシに、どこからともなく、あの馴染みのメロディーが奏でられていく。
安部真里亜がアップにまとめていた長い髪をさっと振り解き、指揮台に乗って陶酔したように踊り始めた。その姿は〈ボレロ〉を踊れる資格を持つ数少ない女性ダンサー、シルヴィ・ギエム、上野水香に、亡きマイヤ・プリセツカヤらを彷彿させるよう。
すぐさま弦楽器男性の若い衆らが面白がって、「リズム役」と称して指揮台の周囲に円陣を組み、大きな身振りで膝を叩いて調子をとる。
このチームにはバレエおたくのみならず、芸術家の当然の教養として、オーケストラピットでの仕事として、バレエの世界にかなり詳しい者も多そうだ。
セビリアの小さな酒場。
中央の円台で一人の踊り子が軽い足慣らしを始める。それは次第に興じ、周囲の客らも巻き込みつつ発展し、やがては熱狂的なクライマックスを迎えゆく。
有出絃人と白城貴明がリハーサル室に足を踏み入れた際には、既に彼らのバレエ熱は頂点に達したか、あるいはここ数日のうっぷんを一気に爆発させたかったか、この曲の場面設定のごとく、異様な光景が繰り広げられていた。
中央の指揮台で、安部真里亜が長い髪を振り乱し、陶酔の表情で全身をリズミカルにくねらせている。数人の手下もどきの若者らが周囲を囲み──椅子や譜面台をご丁寧に取り払い──、膝や椅子を叩いてリズムを刻んでいた。
もちろん、小太鼓を筆頭とする全合奏による〈ボレロ〉の伴奏付き。
「裸の老人より、もっと怖いかも……」
というのが二人の受けた印象であった。
とりあえず狂乱事態が収まるまで、ドアの外で待つことにする。
「ここ、チームBのリハ室、じゃないですよね?」
悪夢としか思えない信じがたい光景を見てしまった、と言いたげの絃人。
「中身は確かにAの面々だった」
「しかしこれ、本番でやったら意外といけたりして」
との絃人の冗談に、
「だけどベジャール版のソロって、許可された特別なダンサーしか踊れないのでは?」
真面目に返す貴明。
「もしかして、じいさんの扮装は課題曲の暗示だけでなく、舞踏曲としての〈ボレロ〉を考慮せよっていうメッセージだったのかな」
「一理あるかも。だが揺れ動きの一切ない〈ボレロ〉に限っては、バレエ曲だろうと独立した管弦楽曲だろうと、捉え方は対して変わらないでしょう?」
「ですよね。昨夜の〈ラ・ヴァルス〉でも、そんなこと念頭に置きませんでしたし」
絃人もうなずく。
〈ラ・ヴァルス〉の作曲を依頼した興行家ディアギレフから「舞踏的でない」と、上演を拒絶されたラヴェルは、「何が何でも、これは舞踏の曲である」として、後年かのニジンスキーの妹による振付でパリ・オペラ座の舞台にて〈ボレロ〉と同時に、晴れてバレエ版の初演を果たしている。
今日の振付としては、〈ボレロ〉の定番がモーリス・ベジャール版であるように、〈ラ・ヴァルス〉はジョージ・バランシン版が定番となってはいるものの、ラヴェルのイメージしていた宮廷舞踏会とは関係のない悪魔などが登場するストーリー仕立てとなっているため、昨夜のAチームの演奏に於いて、有出絃人は舞踏としてのウィンナ・ワルツは意識しても、バレエの動きに関してはまったく考慮しなかった。
「今回はどうやら、水かけマリアさんが方向づけをしてくれたようですね。テンポ感も良さそうだし」
白城貴明が感心して言った。
「ありがたや、ありがたや」と、絃人も相づち。
「うちのチームに、きみ以外にあそこまで羽目を外す人がいるとはね」
「僕なんか大人しいほうですよ」
「Bに比べたら、明らかに真面目な優等生タイプが多そうな、うちのチームだったけど、型にはまらない絃人くんの影響は、かなり大だと思うよ」
「発想が普通でなくて、すみません」
「普通じゃないって、ある意味すごい才能だよね。周囲の概念を覆してしまうのだから」
「そうでしょうかね?」
謙遜しつつも、思い当たる節がなくもない。ドイツのオケを飛び出したりと、安定ではなく冒険の道に突き進んでしまうのも、そうした理由からなのだ。
「未知の世界に飛び込んでいって、新参者が自由に振る舞って、出る杭は打たれながらも周りを引っかき回して、いつしか自分のカラーに染めちゃっている。どうしようもない習性なんだな」
「固定観念に捕らわれている周囲に一石を投ずるのは、良いことでしょう」
「でも、決して変えちゃいけない世界だってある。若い時分は、そうしたこともあんまり分かってなくて」
守らねばならないものは、何が何でも守り抜く必要がある。それはオケ全体のことだけでなく、楽器の奏法だとか楽曲の解釈といった個々のレベルから、舞台芸術の全般でいえること。確固たる伝統を尊重してこそ、発展してきた芸術世界なのだから。
偉大な作曲家の時代に設立されたオーケストラで、一世紀以上もかけて築き上げられた伝統の音質が、近年の革新的な常任指揮者によって数年で台無しにされたという残念な実例もある。かつての音色の栄光の輝きは、遺憾ながら二度と戻っては来まい。再び百年間もかければ、希望が見えてくるかも知れなかろうが。
「長年に渡って築かれた伝統の世界には、充分な敬意を払って慎重に身を置くべきで。それが、たとえ田舎の小さなオーケストラであろうともね。もちろん、若造の自分ごときに大した影響力はないものと、こちらは高をくくっていても、ただの思いつきなのに、説得力のある筋の通った意見だと、周囲も簡単に受け入れてくれるものだから」
「確かにこのチームでも、きみの意見は百パーセント通るものね。だが、それは思いつきなんかでなくて、核心を突いたものだよ。いつだって」
「自分は自然な流れに従ってるだけなのに、同時に何か、古き良き伝統といった大切なものを破壊してたりするんじゃないかと思えることもあって。そして気づいた時には、下手したら自分がいないと機能しないくらいの影響を与えてしまってて。好き勝手やっていただけなのに、そんなに頼られちゃ責任持てないや、と退散。その繰り返し」
オケの体制でも、人間関係でも。
「心地よい状況にしがみついているよりも、そこから離れて新たな道に進むことの方が、遙かに力を必要とする」
ゆっくりと、落ち着いた口調で貴明が言った。
「そういった格言も、ありますよ」
「心地よい状況から離れる……」
絃人は彼の言葉をかみ砕いて繰り返した。
「意を決して、思い切って。その方が、遙かにエネルギーが必要と?」
離れることは、逃げではなく、前進。
この教授の風貌のルームメイトに、絃人は抱きつきたくなるほどだった。
「何だか今この瞬間、自分の過去が変わった気がする」
リハーサル室では、途中をかなりはしょってラストの大団円になだれ込んでいた。ようやく狂乱が落ち着いたようなので、二人は恐々室内に入っていった。
「よく振付を覚えてるものですね」
皆が真里亜に感心している。
「最初の方の単純なとこだけを、見よう見まねの自己流アレンジで踊ってるだけですよ」
謙遜する真里亜さん。
「バレエダンサーの実際の複雑な踊りでなく、今みたいな、ただのまねっこ程度なら誰だってできますよ。この基本の動きって単純ながらも実はすごく奥が深くて。狭いところでもできるし、エクササイズにちょうどいいんです。こうしてお腹を前後したりは下腹ぽっこりに効くし、屈伸は太ももやふくらはぎ、関節にグッド。腕の動きは二の腕のぷるぷる解消ってな具合で。肩こり腰痛予防にもなるし、楽器奏者って斜めに構えたり前屈みになったり不自然な体勢が多いから、姿勢にも良いかも」
ベジャールの〈ボレロ〉を日常のエクササイズって? 水かけマリアさんって、いったい何者なんでしょね?
普段から腕を酷使するヴァイオリニストなら、二の腕のたるみなど元からないはずなのに、より美しく? 彼女の引き締まったボディ、年齢を重ねて益々磨きがかかっていそうなはつらつとした雰囲気は、こうした日々の習慣からくるものだろうか。
ともすれば妖しげな艶めかしさを伴う腰の動きだって、彼女からは清らかさすら感じてしまう。ゆったりした流れの繰り返しから、やがてはトランス状態になって、邪念や雑念も抜けて感性が研ぎ澄まされ、意識も高揚していきそうなエクササイズ、いいですねえ!
女性陣からの熱心なリクエストで、夜間の空き時間を利用してフィットネスルームでの「ボレロでエクササイズ」講習の構想に真剣に想いを馳せ始める真里亜さん。
「振付著作権の問題もあるし、番組で下手に流されたりしちゃ訴えられちゃう。仲間内で楽しむだけだから、オフレコですよー」
と一同に釘を刺すのも忘れない。
さて、皆が揃ったところで、まずは足りない楽器について迅速に対応を考える。
「今回もエキストラ不在だなんて、この曲ではきついですよね」
「でも、木管がついに一管編成になっちゃったBよりはマシですよ」
誰かサキソフォン吹ける方? との絃人の質問に誰も答えないので、
「では、クラとホルン、一緒に主題から応答までのソロ吹いてみて」
と指示。
半信半疑で、クラリネットとホルンの組み合わせを試してみると、当の奏者も含めて皆が驚いてしまう。
「すごい。サキソフォンそっくりの音色になった!」
「ソプラニーノ、ソプラノ、テノール、三種のサキソフォンの違いも感じられるよう、バランスは微妙に調整の必要がありますが」
絃人はてきぱきと続けた。
「ハープは、ピアノやチェレスタで代用するとして、1人しかいない打楽器奏者はスネア(小太鼓)に専念で、他の打楽器についてはこちらで考えましょう」
それから安部真里亜には、
「マリア・エクササイズのテンポがちょうど良いので、リハの仕切り役、お願いします。踊ろうと何しようと構わないので、スネアと完璧に息を合わせて仕上げちゃって下さい」
真里亜が何か言おうとしても、
「とにかくテンポはお任せしますから、どんどん始めちゃって。僕は音色や音量、楽器配置なんかを調整しなきゃならないんで」
ときっぱり。それから打楽器青年に向かって、
「あなたは前に出て、リハでは真里亜さんと向き合うこの位置で。本番では指揮台に上って指揮者の位置でオケに向かって叩いてもらえるかな」
「ええっ! 皆と向き合うなんて、集中できるかな?」
「中央で強面審査員とにらみ合いながら延々一七分間のほうが、いいですか?」
と返され、
「ソロの方たちに合図とかしなくてもいいのなら」
しぶしぶ絃人の提案を渋々受け入れる。
「どのみち叩き続けるばかりで両腕はふさがってるんだし、まあ、その都度ソロ奏者に目線を投げるのもいいかも知れませんが、その点はご自由に」
「ひとつ条件があります」
と、毅然と言うパーカッショニストくん。
「有出さんがコンマスやって下さるなら、僕も安心して指揮台に立てると思うんです」
自分が条件を出せる立場と彼が思っているのが不思議だなと、絃人が首を傾げていると、コンマスの席にいた女性が、
「どうぞ。指揮者不在のコンミスはちょっと不安でしたので」
と言って優しく席を空けてくれ、すぐさま一同からも、「お願いします、絃人さん!」拍手も起こったので、
「では、あなたは次回のコンミス保証ということで」
素直に彼女の席を譲り受けることにする。チェロの首席は信頼の白城貴明だし、これはいい傾向かも知れない。といった絃人の印象は正しかった。
この流れにより、Aチームはかろうじて地獄を見ずにすんだのだった。
とはいえ、地獄は見ずとも悪魔に王手をかけられたことには違いない。
絃人の機転と、それに応えた貴明の的確な反応による絶妙なキャスリング(交換作戦)で、いったんは回避するものの、チェックメイト(王手詰み)は免れられず、これにて先攻Aチーム、初敗北の結果となる。
52.「教えなかった、お前が悪い」に続く...
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