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「オケバトル!」 41. エニグマ? それとも周知の事実?


41.エニグマ? それとも周知の事実?



「ともかく、崩壊シーンだけでなく全体が、なんか鈍重なんですよね。下手したら、どんどんテンポが遅くなっちゃう」

 退出しゆくリポーター宮永鈴音が扉をそっと閉める際、有出絃人による更なる指摘が聞こえてきた。
 一件落着と思いきや何やら不穏な気配だが、これから起こりそうな険悪やりとりは後で録画を拝見すれば良かろう。番組としては、「リハ時のバトル大歓迎」なのだが、目の前で繰り広げられる言い争いなんて、音楽家の立場としても見ていて辛いものがある。多少の勉強にもなるし、最初のうちこそ興味津々で眺めていたが、精神衛生上も、美容にも、全くよろしくないのだ。

「例えば〈ナッハ・ヴィーン〉のところ。もっと軽やかに。民族舞踊みたいに、いちいち踵をドスンドスン踏みしめないで」

 え……、どこ? 
 ナッハ・ヴィーンって?
 何のこっちゃ?

 という一同困惑の反応は、実は絃人も見越していた。ちょっとしたフレーズを、皆がどの程度理解しているのか確かめておきたいという好奇心も手伝ってのこと。
 やはり多くの者は意味が分からない様子。
 しかし当然のごとく誰もが知っているはずと決めつけているかの彼の発言に対し、
「それってどこです? ナッハ・ヴィーンって何のことですかあ?」
 なんて具合に、誰かが気楽に尋ねてくれさえすれば良かったのだが、全国放送、どころか世界中に配信されそうな撮影カメラの前とあっては、己の無知を堂々とさらけ出すには少々勇気がいるものだ。
 こういう時こそコンサートマスターの出番。
 指揮者の要求を即座に理解し、分かりやすくオケ全体に伝えてゆかねばならない。しかし当のコンマス自身にも意味不明となると、これは叱られるのを覚悟で尋ねるしかなかろう。
「あのう~」とコンミスさんが遠慮気味に言い出した時点では、温厚そうな彼女のこと、有出の怒りの爆発を引き起こしたりせずとも穏便に話をまとめてくれそうだと、誰もがありがたく見守っていた。しかし続く彼女の言葉は、医務室に駆け込みたいほどのキリキリ胃痛を、聞いている全員が引き起こしそうなものだった。
「そういったエニグマ……、秘密の暗号めいた指示じゃなくて、練習番号や小節番号、あるいは実際にメロディーを歌うなり、もっと具体的に分かりやすくおっしゃって頂きたいんですけど」
 責任ある立場として皆の不満や困惑を代弁すべく、思い切って有出氏に注文をつけねばという意気込みからか、更なる余分のひと言も。
「時間もないんですし」
 さすがに隣、大西嬢と同年代風のアシスタントコンミス役の女性が、そっと彼女の膝を抑えて警告する。もう充分。頼むから波風を立てないで、と。
「いちいち説明が必要ですかね」と、絃人はため息。
「なぜならば、そのメロディー ──」
 と、言いかけるも、大西に遮られる ── アシスタントによる無言の警告の甲斐もなく ──。
「有出さんご自身はこの曲や、その『ナッハ・ヴィーン』とやらに精通してらしたとしても、わざわざ分かりにくい引用で、そうした知識を暗にひけらかすことに、いったい何の意味があるんです?」

 ひゃー、彼女やっちゃたー。というのが、オケメンバーや、宮永鈴音に後を託された番組スタッフら、その場にいる全員の、心の悲鳴であった。

「どうしてかって?」
 カチンとくるような攻撃にあったとしても、怒りの感情とは反比例して逆に恐ろしく冷静になるのが有出絃人。Aの仲間の多くは彼のそうした習性を既に知っているから、大西コンミスの反抗心むき出しの態度には驚くばかり。大人しそうな白サギも、ひとたび責任ある立場につくと、凶暴な猛禽類に豹変するものなのか。
「なぜってそのメロディー、つまり〈ナッハ・ヴィーン〉のことですよ。最初のほうだけでなく、クライマックスの大波乱や、その寸前にも登場するんです。それ全部についての話をしてるんです。あちこちの小節番号を、いちいちスコアをめくって確認したり数えたりするほうが時間の無駄でしょ」
 筋が通った絃人の説明であっても、もはや後には引けないコンミスはどうしても納得がいかない。
「こうしたやりとりが生じてしまうこと事態が、明らかに時間の無駄なんですけど」
 恐れを知らぬ勢いに、彼女の挑戦的な態度をどうやって抑えられるか誰もが案じてしまう。

 たまりかねた山岸よしえが、ついに口を挟んだ。
「『それは何のこと? 〈ナッハ・ヴィーン〉とは、どこですか?』と、尋ねるのは、何も恥じゃないんだから、コンミスの立場として皆の疑問を代弁して、ただ素直に聞いてみればいいんですよ、大西さん」
 よしえに続き、コンミスの態度を非難する声が上がり始める。
「誰もが知っていそうで、実は気づいてなかったり。皆がどの程度、楽曲を理解しているか、リハを仕切る側としては把握しておく必要、あるでしょ。謎を投げかけて反応を確かめるやり方、別に間違ってないと思いますよ」
「そう。その箇所を歌って手本を聞かせてもらって、皆が言いなりになるより、まずは『軽めってどんな感じかな?』てな具合に、いったんは自分たちで各々考えてみる過程だって、音楽づくりには大切なんですし」
「知識をひけらかすとか、この期に及んでありえない。チームの命運がかかっている上、ラヴェルの音楽をよりよい形で仕上げてゆくのが最優先の、真剣勝負のリハなんですよ。有出さんの言動を、己の才能や知識のひけらかしに結びつける発想自体、レベル低すぎない?」

 しかしこうした攻撃の集中砲火は険悪ムードを余計にあおり、コンミスの心象を逆撫でするだけ。初日は山岸よしえ自身がそうした目に合っているのだ。暴走コンミスの懲らしめも、そろそろ止めさせなければと、言い出しっぺのよしえが責任を持ってさりげなく、事態の収拾をはかりにかかる。
「《ジプシー男爵》第二幕フィナーレの、〈ウィーンへ!〉の節と言えば、皆さんおなじみですよね?」
 実は殆どのメンバーは、有出絃人が言った意味が分からずじまいで、なあんだ。《ジプシー男爵》だったか、とは理解するも、やはりまだメロディーが頭に浮かばない。
 そこでオペレッタ通の安部真里亜が「ラ、ラ、ラン、ララン♪」と口ずさみ、
「今のが、出だしの二重唱で……」

  ウィーンほど喜びあふれる街なんて、
  これほどまでに美しく楽しく明るい歌が
  ほとばしる街なんて、
  他にはどこにも見つけられない

 と、歌詞を紹介する。
「この歌の後半、主要人物五人の大合唱になるところが、今、有出さんが指摘されてるメロディーで……」

  昼も夜も愛が微笑む場所
  心も気持ちも美しきウィーンへ

 と、更に続け、問題のメロディーを口ずさむ。
「ラーンラ、ランラッラー。ラーンラ、ランラッラー♪」
 途中で同じく歌劇、喜歌劇、バレエおたくのファゴットおじさんの原語によるテノールや、金管辺りから、バスの歌声も加わる楽しい合唱によって、ようやく皆が「ああ、あの部分か!」と理解するに至る。
 引用された元の音楽、シュトラウスⅡ世の喜歌劇《ジプシー男爵》第二幕のクライマックス、〈ウィーンへ!〉の後半のメロディーは、このオペレッタの序曲でも効果的に使われており、良く知られていたとしても、それが目下奏しているラヴェルの曲中で、幾たびも楽しげに顔を出していたなんて、中々結びつかないものだから。

 真里亜が心から嬉しそうに言った。
「まさにウィーンへの憧れ、そのものじゃないですか。ラヴェルが意図的に引用したのは明らかな気がしますけど、調もリズムも微妙に違うから、まあ、無意識に取り入れたのかも知れませんが、〈青きドナウ〉の中のモティーフだって、そこここに隠れてるわけだし、シュトラウスへの礼賛として、あえて用いた感が強いでしょうかね。
 いずれにしても、有出さんが〈ナッハ・ヴィーン!〉って言われたら、皆が、『あっそうか。なるほど』って即座に理解するくらいの反応が、本当は大切なんじゃないでしょうか」
「ウィーンへの憧れ、という意味でも、この曲〈ラ・ヴァルス〉を理解する手がかりにもなる大事なフレーズですよね」
 と、ファゴット氏も大きくうなずく。
「とんだ脱線で遠回りしちゃいましたけど、みんな、有出さんをもっと信頼しましょうよ」
 よしえが言った、「みんな」の意味が大西コンミスのみを意味していることは、当人も含め、誰もが気づいていた。
「初顔合わせの寄せ集めオケといっても、こうして毎日寝食までも共にして顔をつき合わせてるんですもの。もっと、つうかあの仲になってチームの結束を強めるべき。でないとチーム戦の意味がない。この曲の中で例えば、『第九のところ』って言われたら──」
 よしえが言葉を切ったところで、真里亜が即座に「タン、タタン!」と、〈ラ・ヴァルス〉の中の、ベートーヴェンの〈第九〉二楽章冒頭リズムに似た音型をヴァイオリンで奏でてみせる。
「そう。このフレーズ、実際は〈第九〉じゃないはずで、ただ似てるだけ。だけど、『第九のとこ』イコール『第九の二楽章冒頭みたいなとこ』イコール『ここんことね』って、いちいち余分な説明抜きで、その場でわかり合える空気って、オケとしては最重要のことでしょう? 
 例えば、言葉が殆どわかり合えない外国の指揮者が通訳抜きでリハを振ったとして、随所での説明を正確には訳せずとも、ニュアンスは各自その場で組み取れなきゃならなかったりするんですから」
 待ってましたとばかりに、あちこちから声が上がり始める。
「練習番号Aからだったら、『アントンのAから』が、ドイツ系音楽の常識ですもんね」
「ブルックナー、ブラームス、ベートーヴェン。Bは色々アリかな」
「フランスの指揮者が『エトワール』と言うなら、『はい。Eですね』」
「英国人だったら、Eはエルガー!」
 とは、エルガー好きの白城貴明。
「片言の日本語が話せる指揮者が気を利かせて『フルサトから』と言ったとしても、Fなのか、Hと言いたいのか、当の指揮者の母国語や性格からその場で判断しなきゃならない」
「それは、ちょっと難しいなあ」
「そんなの、オケがボイコットしますよ。分かりやすくスムーズにリハを進めるための言い換え表現なんですから。『エルガーのEから』って感じで、言い換えた後にちゃんと元のアルファベットを言ってくれないと」
「しかし軍事用語のアルファ、ブラヴォー、チャーリーなんかの場合は、アルファのAとは言いませんよね」
「命に関わる暗号の伝達だから間違いは許されないにしても、そもそも、聞き違いようのないよう厳選された言葉が置き換えられてるんだから、いちいちアルファベットの付け足しはいらないんですよ。第一、迅速さが肝心で、もたもたしてたら敵に殺られちゃう」
「以前、ロシアの指揮者が『ハチャトリアンのKから』と、言って大ウケだったことがありましたね」
 そりゃおかしいや! と、楽しい笑いに包まれる。ハチャトリアンと聞けば、大概はHを思い浮かべてしまいそうだが、実はKから始めるスペルであることは、少しでもロシア語をかじったことのある者や、クラシック音楽に親しんでいる者なら気づくとはいえ、いかにも混乱ジョークにはもってこいの一例だ。

 コンコンコン、と指揮者の譜面台がタクトで叩かれる。ああ、おかげで余分な時間をとられてしまった。もはや誰にも口を挟ませない勢いで、絃人は改めて本題に戻りゆく。
「つまりですね、ターッタ、タアラン! じゃなくて、たあらっ、ふわり。という感じで。フォルテでも背中に羽のついた軽やかなワルツ、宮廷舞踏は軽めでお願いします」




42.「貫禄勝ちへの切ないため息」に続く...





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