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「オケバトル!」 29. 都会のダンスと田舎のダンス


29.都会のダンスと田舎のダンス


 名もなきトゥッティ族の悲哀に酔いしれ、公の場で己の名前を出し渋ったがために、かえって「マエストロ」の呼称をつけられたあげく、指揮棒を持って仲間の前に立たされる羽目になってしまった浜野亮。正直に名乗っとけば良かったと反省するも、皆からの温かな、そして期待に満ちた拍手に迎えられ、辞退は不可能と察するのだった。

 Aチームのリハーサルを途中で抜けてきたエキストラのハープ奏者が、折しもBチームリハーサルの後半に加わるところであった。既に舞台に配置されている本番用に加えて、両チームのリハーサル室にも各々立派なハープが用意されている環境は、オーケストラのあらゆる楽器を網羅する楽器庫の充実ぶりからしても当然とも言えようが、何とも贅沢な待遇には違いなかろう。
 エキストラの前ということもあり、今更あがいても仕方あるまいと、マエストロ浜野はやむなく状況を受け入れ、
「では、まずは頭から。リハの仕上がり具合を見せてください」
 しぶしぶ音頭をとり始める。

〈美しく青きドナウ〉
 有名なホルンのソロに始まるゆったりした序奏の部分はまずまずで、いよいよ最初のワルツに入ったところで、
「なんじゃこれは?」
 亮は愕然。完全なる三拍子による ズン、チャッチャ! ズン、チャッチャ! ができあがってしまっているではないか。まさか。
「待った、待った」
 慌てて演奏を中断させる。
「これじゃあ〈青きドナウ〉どころか、〈重きドナウ〉ですよ」

 マエストロにご満足いただけるよう、マエストロの負担が少しでも軽くなるよう、みんなで気持ちを合わせて一生懸命仕上げておいたのに。いきなりダメ出しですか? と、がっくりのBオケの面々。かのミッキー氏だって、あの、のどかすぎるのどかさんだって、そんな否定の言葉なんて言わなかったのに?

「ご存じとは思いますが……」
 一同のプライドを傷つけぬよう、慎重に切り出す浜野亮。
「譜面上は単なる三拍子でも、ウィーン風の円舞曲においては、実際は一拍目が短めで、二拍目、三拍目と気持ち前にずらして演奏しますよね? う ぱっ、ぱぁ~。う ぱっ、ぱぁ~って感じで。今の演奏だと、どうしても重過ぎちゃうんですよ。軽やかに舞う都会の洗練されたワルツというより、ズン! チャッ、チャと、こう、足を踏みしめる陽気な田舎っぽいダンス、というか」

 異様なまでの静寂がリハーサル室を支配する。

 新人であろうと大御所であろうと、プロの音楽家として真剣に楽曲を仕上げる目的で一度でも指揮台に立った者ならば、何気ない己のひと言で、それまで和やかだったオーケストラ全体が一斉に凍りつき、寒々しい空気に満たされゆく──、といった経験を少なからず持っているもの。

 底知れぬ怒りや不満に満ちた波動が、一身に突き刺さり来る恐ろしき瞬間。

 これはアマチュアや学生オケがよくやる仲間どうしの娯楽としての指揮者大会で、順番に楽曲を振った程度では決して分からない、何とも身心地の悪い最悪の状況である。
 中には冷たい空気は指揮者の完全なる思い違いで、オケメンバーは「マエストロの言われること、ごもっとも。しっかりせねば」と反省しつつ、緊張と共に本気のヤル気を秘めていることだってあったりもするのだが。
 どちらにしても指揮者当人にしてみれば、否応なしに死刑台に立たされた気分になってしまうもの。

 指揮者がとてつもない孤独を感じる時。

 それは自分がオーケストラ全体を敵に回し、強烈な反発を招いてしまったか、実際はま逆で、大いに満足したり、なるほどと感心したりしているのか、状況が完全に判別不能な場合にしばしば起こり得る。
 先に、弦楽器の「譜めくり時でも変化しない音量」及び「一糸乱れぬ全合奏」が、「オーケストラ七不思議」として宮永鈴音によって話題に出されたが、指揮者の観点からして、「いきなり襲い来る、まったく読めない空気の変化」も、七不思議のひとつに数えられよう。

 やはり「トゥッティの名もなき者」が偉そうに指揮台に立つのが間違いの元だったか。
 そもそも早々に「脱落ごめん」を覚悟していた浜野亮にとっては、仲間からの反発を我が身に受けるくらい、どうでも良い問題に過ぎなかった。しかし自分の態度が全体の士気を貶めることにつながってしまうのは良くないこと。非常によくない。
 こうなったら、やるべき最低限のことだけは仕上げておかねば、と気を取り直して仕切りにかかる。
「第一円舞曲から、お願いします。重すぎないように」
「軽く、軽く、軽やかに」
 それでも中々イメージが伝わらないので、う~んんん。と、うなってしまう。

「ですがね、マエストロ」
 金管の誰かが言い出した。
「我々日本人がウィーン人の身にも心にも染みついた独特のワルツのリズムを再現しようたって、どうしたって猿まねの域をでないと思うんですよ」
 それをきっかけに、皆が口々に意見を述べ始める。
「むしろウィーン節にこだわらないで、我らなりの楽しいワルツでもいいんじゃないですかあ」
「ルノワール風の『田舎のダンス』ね」
「それに元々は男声合唱向けの曲として書かれているわけで、踊りじゃなくて歌なんだから、本来はそこまで軽やかなノリでなかったのでは?」
「そうだ! 弦の皆さんに弾きながら歌ってもらうってのはどうでしょう」
 木管辺りからのトンデモ提案に、
「無茶言わないでくださいよ!」
 飛び上がる弦の面々。
「歌詞を口ずさんでいただくだけでも」
「それなら堀内敬三さんの昔ながらの名訳が、いいですね」
「遙かに~、果てなく~♪」
「だから無理ですって」
「でも合唱付なら、ラストの長大なコーダを省けますよ。歌が終わったところでそのまま短いコーダに入って、すぐ終わり。ですからね」
「Aに勝つためには、何か特別なことをしないと」

 恐れ知らずのBのメンバーは、放っておくと話が一挙にとんでもない方向にいってしまう。彼らは本気で言っているのか? それともただ思いついたことを後先考えず、そのまま口に出してしまう習性なのか? 
「ちょっと待ってください。ウィーン流のワルツの感覚がつかめないからって、合唱に走るのは論外ですよ」
 マエストロ浜野が大まじめに一同を制す。
「まずは、オケだけで楽曲をきちんと仕上げて、ゆとりがあったら歌ってことで」
 言いながら、歌なんてありえないということは亮にも分かっていた。ルノワールの名画「都会のダンス」と「田舎のダンス」を引き合いにしたのはマズかったにせよ、どうしたらイメージがすんなり伝わるか……。
 そうだ。
「クライバー調で、いってみましょう!」
 誰々調で、とか、誰々風に、といった例を安易に持ち出すのは短絡的な発想だし、亮は言いたくもなかったが、この際やむを得なかろう。
 ウィーンフィルのかつてのニューイヤーコンサートで、カルロス・クライーバーが振った〈青きドナウ〉も含む数々のウィンナ・ワルツは、これまで誰も振ったことがなかったほどノリノリの、ノリ過ぎなほどの軽快なワルツであった。あまりの軽快さについていけず拒絶反応を示したクラシック音楽ファンも大勢いたにせよ、現地ウィーンっ子らには大ウケだったらしい。
 もちろん、巨匠にしかできない神業演奏をこうした寄せ集めオケで手本にするなんて、無謀すぎる危険な賭けであろうが、単純なB連中のこと、イメージで洗脳するくらいは許されるのではないかとの、浜野亮の苦肉の策であった。

 予想どおり、「クライバー調」のひと言で、「了解!」といった具合にオケがすんなり理解を示し、とたんに本来の陽気なBオケの魅力全開、「重きドナウ」から一気に「軽きドナウ」へと変貌を遂げた。あまりに軽快すぎて、いずこへか勢いよく飛び去ってしまいそう。
 もはやどうにも止められない。
 逆にこうなると制御不能。マエストロ浜野は、指揮台で否応なしに躍らせられる己の姿を想像し、愉快にノリノリの一同とは反対に、寒々しい思いをつのらせる。
 またしてもBの暴走となってしまうのか。
 プロオケならば通常、こうした曲は一、二度のリハーサルで仕上がってしまうもの。というより、仕上げねばならない。指揮者が、ちゃんとしていれば、の話だけれど。詰めれば詰めるほど、このチームは良くなるどころかおかしな方向に行ってしまう気がするし、そろそろ切り上げるべきか。それに、ひと晩たてば、この暴走気分も少しは落ち着くかも。

──今夜の本番は、明日の午前中に延期──。

 医務室の女医さんがこっそり教えてくれた情報を、ここで自分が知らせてしまって良いものか。
 そこへ、ちょうど良いタイミングで出入口に宮永鈴音が現れた。
── そろそろ終わり? ──
── ええ、終わりにします──。
 と、少しばかり首を傾げる問いに、軽くうなずく答えで、リポーターと指揮者が無言による確認をし合った後、
「皆さーん、嬉しいお知らせですよー」
 と、鈴音が明るく宣言する。
「〈青きドナウ〉の本番は、様々な事情によって明日に延期になりました」

 つまり今夜はオフということか!
 えー? リハのノリノリの勢いで、このままやっつけてしまいたかったな。と、宿題を出されたような落ち着かない気になる者も若干いたが、多くは、
 ここに来てから気になりつつもガマンしてたフレンチレストランの極上フルコースディナーを、今夜こそいただいちゃおうっと。
 在庫が心許なかったリード作りに、少しは専念できるかな。
 頑張ってくれてる我がホルンくんをゆったり風呂につけて、ピカピカに磨いてやるか。
 よおっしゃ! ようやく酒を存分に楽しめるぞ。
 などと、つかの間の休息タイムに各々きらりと、あるいはぎらりと目を輝かせながら、素敵な思いを馳せるのだった。




30.「うさぎレベルの陰謀」に続く...




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