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「オケバトル!」 25. トゥッティの、名もなきギセイ者くん


25.トゥッティの、名もなきギセイ者くん



 ファーストヴァイオリンの外側の席で、オランピア嬢の華麗なる歌声とダンスにうっとり酔いしれつつ、最高に幸せな気分でワルツのリズムに身を任せていた浜野亨。
 それでも彼女の、舞台ギリギリまでステップを進める無謀ともいえる危うさに、始終警戒心も同時に保ち続けていたので、「あっ」と思った瞬間には即座に飛び出すことができた。手にしていた楽器の存在も忘れて電光石火の素早さで身を投げ出し、オランピアもろとも舞台から転落する。
 落ちゆく彼女を引き戻せる腕力に自信はなく、細身で頼りなげな体格とはいえ、せめて自分が下敷きになることで、可愛いオランピアへの衝撃が僅かでも和らぐことにいちるの望みをかけての、とっさの行動だった。

 舞台の隅に佇んでいたゼンマイ係を初めとする派手なクラウンメイクを施した人形役らは、まさに本物の役立たずの木偶の坊であった。呆然と固まったまま驚きの表情でポーズをとるばかり。
 随所に配置された撮影クルーたちは、自分の受け持ちカメラで転落の現場やオーケストラの様子、審査員らの反応といった非常事態の状況を撮り続ける義務があり、持ち場を離れられず。
 審査員席のテーブルを飛び越えて猛ダッシュで駆け下りてきたジョージが真っ先に、続いて舞台の隅から恐る恐る下をのぞき込んだ宮永鈴音が状況を理解し、ほっと胸をなで下ろす。
 舞台真下の客席通路には分厚いマットが広範囲に渡って敷かれており、勇敢なヴァイオリニストがダンサーの少女をかばうように下側になって倒れ込んでいた。見た限りでは二人とも深刻な怪我はなさそうだ。

 ここでジョージだったら相手の目をしっかり見据え、“I got you.” とか何とかクールな決めゼリフでもつぶやいて完璧なナイトを演じ、二人の間に永遠の瞬間を創ってしまうのであろうが、浜野亮の関心は、ただ彼女が無事かだけに向けられていた。マットの上に軽く落ちるはずが、自分が下敷きになったことで、かえって怪我をさせてしまったのではないかと。
 とりあえずジョージがオランピア嬢を助け起こし、舞台の上にひょいと抱え上げて座らせてやる。
 このような事故が起こったにもかかわらず、Aチームの時と同様、ちょうど歌のない間奏の部分であったためか楽曲は呑気な調子で続いており、少女はその場ですぐに歌い出し──なんらブレることなく──、ジョージに支えられ、ようやく身を起こした助っ人青年に向かって、心からの感謝を込めて歌いながらうっとりと手を差しのべた。

 これがジョージであったなら、洗練された振る舞いが身についた紳士らしく彼女の手の甲に優雅なキスの挨拶でも送ったであろうが、純朴すぎるヴァイオリン青年は、無事で良かった! とばかりにウンウンうなずきながらブンブン握手。オランピアがにっこり微笑んで再び舞台に立ち上がり歌い踊り始めたので、彼の方は邪魔にならないよう客席通路の下手側に回り込み、短い階段からそっと舞台に上がり、持ち場に戻るのは諦めて隅で人形役らとともに様子を見守ることにする。

 が、オランピアの方は、ご婦人のためなら命をも投げ出す心意気の輝けるナイトを放ってはおかなかった。優しく歌いながら誘いに来て、さっと青年を踊りに引き入れてしまう。
《ホフマン物語》のオペラの世界に迷い込んでしまったかのような、これまた夢のような展開に亮くん、実は激しく打っていた肘や腰の痛みも忘れてオランピアとの優雅なワルツに興じ、例によって再び人形が力尽きた折には背中のゼンマイを一生懸命巻いてやるふりもして、ラストでは彼女をくるりと回転させる粋なサポートの上に、自分もバレエダンサーのように片足を伸ばしてひざまずき、今度こそは恋するホフマンになりきり、ありったけの憧れの想いを込めて彼女の手に頬を寄せるポーズで締めくくった。

 チームメイトから称賛の大喝采が巻き起こったことは言うまでもなかろう。 
 お辞儀を終えたオランピア人形を舞台袖までエスコートした後、やれやれとファーストの自分の席に戻ってきた亮は、仲間が拾って椅子に置いてくれたヴァイオリンと弓の無事な姿に安堵し、ごめんごめんと愛用の楽器をなでてやる。と、
 コロコロン……。
 ヴァイオリンの中から聞こえた音にぞっとする。「あ……」そしてがっくりとうなだれた。
「魂柱が」
 ヴァイオリンの表板と裏板を内部で支え、豊かな共鳴を導き出す役割の魂柱は、その名のとおり、弦楽器の魂ともいえる要の柱。これが倒れてしまったら楽器はもはや機能を果たさない。「ならば立て直せばいいじゃん」といった単純な話ではなく、その絶妙な配置加減は楽器制作や修理の専門家による熟練の技に任せるべきで、演奏家に手が出せる領域ではないのだ。馴染みの楽器職人を都内から当地に呼び寄せるわけにもいかないし、浜野亮は「これにて脱落」を覚悟する。

 両チームの講評を聞くべく、Aチームがロビー側の入口から客席にノロノロ入場してくる間、司会の宮永鈴音がオランピア嬢の驚異的な歌唱力と同時にバレエをも踊ってしまう、あり得ない巧みさを褒め称えていた。

「トゥシューズを履いたオランピアなんて、往年の名作映画『ホフマン物語』のモイラ・シアラーみたいでしたね! 同じスタッフによるバレエ映画『赤い靴』も有名で、公開当時は一世を風靡したのですが、みなさま、ご存知でしょうか。
 とはいえ彼女はバレエダンサーでしたので、映画の歌の部分はオペラ歌手による吹き替えでしたが、本日のオランピア役、ご覧になってお分かりのとおり彼女一人でこなしておりました。吹き替えじゃ、ありませんよ。本当にお見事でした。
 そして彼女を救った勇敢なる三人のナイトのとっさの行動も、実にかっこ良かったですね!」

 三人? ということは、相手方のチームでも同様の転落騒動が起きたのか? と、両チームのオケメンバーは首を傾げる。

「オランピア役のプロフェッショナルに徹した根性。もう、感動ものでした! 特に歌の場合、乱れた呼吸を整えるなんて並大抵のことでないはずなのに。先攻Aチームの舞台で、あわや転落を免れた時もそうでしたが、後攻Bチームでは実際に落ちてしまったあと、ジョージに抱え上げられて舞台の端っこに、お人形さんのようにちょこんと座ったオランピアが再び歌い出した姿には、心の底から感動してしまいました。
 本当に自動人形だったりして? って感もアリでしたけど、どうしてどうして。歌も踊りも技巧的でありながら、そこかしこに繊細な叙情性も秘められていて。こうしたことは、この先どんなに科学技術が進もうとアンドロイドごときには決してできない、感性豊かなアーティストならではの表現だと思います。でありながら……」
 ここまで一気に語って、司会はひと息ついた上で強調した。
「この歌では機械人形っぽいぎこちなさも出さなければならなくて、本当に難しい役どころなんです」
 オランピアさん、もう楽屋に行かれてしまったのかしら? と舞台袖の様子を伺うが、ステージマネージャーの「ノー」の合図。

 オランピア嬢が絶賛される中、怒りと疑惑が会場を支配していた。

 あれは事故なんかではなく、ソリストのお嬢さんまでも巻き込んだ主催者側による危険な罠だったというのか?
 そんなことが続くようなら、これはまさに命がけのバトルではないか!
 動揺と、底知れぬ不満が場内に広がっていく。

「床にマットが敷かれていた」とのジョージからの報告に、堪忍袋の緒が完全に切れた制作総指揮かつ審査委員長の長岡幹は、ある決意を固めることで何とか冷静さを保っていた。

──あの恥知らずのディレクターを番組から降ろしてやる──。

 例によってAチームのヤバおばさん、山岸よしえが「ちょっと! どーいうことなんですか!」とばかりに客席から立ち上がりかけたところで、

「まず、バトル参加のオーケストラの皆さん、及び視聴者の方々に、番組の制作責任者として謝罪します」
 長岡が、これまでとは別人のような低く落ち着いた非常に丁寧な口調で語り始めた。
「昨日の楽譜貼り付け事件に続き、このような不祥事が起きてしまいましたこと、深くお詫び申し上げます」
 そこまで語って深々と頭を下げる。
「たとえ分厚いマットが敷かれて安全策がとられていたとはいえ、舞台からの転落という極めて危険な行為をソリストに強いるという演出が勝手に図られたことは非常に遺憾であり、今後この番組において、こうした卑劣な工作がなされないよう、決してなされぬよう、私、長岡幹が責任を持って対処致します」

 いったんは怒りと不信の度合いが極限にまで達していた一同であったが、制作者の誠実な姿勢に胸を打たれ、しゃーないね、おっさんがそこまで言うなら許してやるよ、といった空気に包まれていく。
 宮永鈴音としては自分も番組側の人間なのだし、ここで丁寧に謝罪したいところであったが、己の立場が容疑者のディレクター藤野アサミの支配下にある以上は、うかつな言動は控えねばならなかった。司会はあくまで中立の立場であらねばならない。ここは無難なフォローで進行を続ける役目を果たさねばと、まず冷静に現状を報告する。
「オランピア役のソリストに、Aチームの有出さんとコンサートマスターの稲垣さんは、身体に影響の出るような怪我は一切なかったと、既に無事が確認されています」
 それから舞台に残る浜野亮の元にハンドマイクを持って歩み寄る。
「何しろオランピアを全身で受け止めちゃったんですものね。勇敢な行動、お見事でした。ただ、見た目では分からなくても、身体のどこかをひねったとか、何か支障はありませんでしたか? えっと、すみませんが、お名前を」
「名乗るほどの者ではありません」
「まあそう言わずに」
「僕はトゥッティの一員にすぎない、名もなき者なんです。どのみち、これで降りることになるので」
「大変! お怪我されちゃったんですか?」
「ええ、楽器のほうが」
 亮はヴァイオリンを掲げてコロコロと鳴らしてみせた。
「魂柱が倒れてしまいまして」
 魂柱とは……、と鈴音はカメラを振り返って、その役割をひと言で説明してから青年に向き直り、
「それなら大丈夫」とにっこり。
「この館にはスゴ腕の楽器職人さんがいらっしゃるの。だから安心なさって」
 審査員席からも声がかかる。
「彼の腕は確かだよ。楽器づくりの本場で修行を積んで、それこそ弦楽器に関しては本物のマイスターの称号をもつ熟練職人だからね」
「ありがとうございます。ああでも──」
 と、亮は右腕をさする。
「実は腕もひねっちゃったみたいで。弓、持てそうにないかな。なので自分はここで脱落ってことで」

 ええーっ? ヒロインとのダンスだってあんなに上手く決まってたのに。これでAの地獄のダンスに仕返しできたと思ったのに。まさかの腕の故障だなんて。チームメイトは大ショック。その上またヴァイオリンが一人減ってしまうなんて。

「恐らく犯人は『非常事態が起きてもオケは演奏を続けるか、否か』といったことを見極めるのが狙いだったのだろう」
 深刻そうに長岡が続ける。
「オランピア嬢はただマットの上にふんわり落っこちるだけですむはずが、勇敢な助っ人が現れることで犯人の計算が狂ったわけだ。楽器が壊れたり怪我人が出るとは思いもよらなかったに違いないが、本当に申し訳ない」
 長岡は再び深く頭を垂れた。
「腕の方は絶対に無理しないでくれたまえ。すぐにドクターに診てもらおう」
「ぜひそうしてください。演奏家の身体を熟知した専門の先生が待機なさってますからね」
 鈴音もそう付け足してから、それにしても……と、ちょっと首を傾げて話を戻す。
「両チームとも結局、演奏は中断されませんでしたよね?」
「Aチームはわずかに空白の時間があったし、つなぎの二小節、まあ、割とどうでもいい三連符がかすかに消えちゃったがね。ごく一部、弾いてた者もいたようだけど」
 との長岡の指摘に対し、
「みなさん、あんまりびっくりして演奏を止めちゃいましたから。でも、それは当然の反応と思います」
 Aチームをかばう発言の青井杏香。
「オケをリードする指揮者やコンマスが、その場にいるか、いないかという物理的レベルの話じゃなくて、共演者が危ない目に遭った際の、人としての道義の問題ですよね」
 と、ジョージが補足する。
「私だって、あの状況で演奏が続けられるとは思わなかったがね」
 長岡も二人の審査員と同じ印象を受けたようだ。

 もはや「講評については後ほど……」なんて呑気に言ってる場合じゃないぞ。こうしたゆゆしき事態は今すぐこの場で解決してしまわねば、などと長岡が息巻き始め、審査員の三人はマイクをオフにして深刻な面持ちで審議に入ってしまったので、司会はおしゃべりやインタヴューで場をつないでゆくことにする。




26.「ひとたび音を出したなら」に続く...




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