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【読書記録】戦後史〜現代編:ショック・ドクトリン―惨事便乗型資本主義の正体を暴く

今回の読書記録は、カナダ生まれのジャーナリストであり、環境問題・気候変動の活動家でもあるナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン―惨事便乗型資本主義の正体を暴く』の戦後史〜現代編です。


ショック・ドクトリンとは何か?

上下巻で本文だけでも700ページ近くある本書ですので、まずは簡単にどのような本なのか、本書のカバー裏から引用したいと思います。(強調は筆者による)

本書は、アメリカの自由市場主義がどのように世界を支配したか、その神話を暴いている。ショック・ドクトリンとは、「惨事便乗型資本主義=大惨事につけこんで実施される過激な市場原理主義改革」のことである。アメリカ政府とグローバル企業は、戦争、津波やハリケーンなどの自然災害、政変などの危機につけこんで、あるいはそれを意識的に招いて、人びとがショックと茫然自失から目覚める前に、およそ不可能と思われた過激な経済政策を強行する……。

ショック・ドクトリンの源は、ケインズ主義に反対して徹底的な市場原理主義、規制撤廃、民営化を主張したアメリカの経済学者ミルトン・フリードマンであり、過激な荒療治の発想には、個人の精神を破壊して言いなりにさせる「ショック療法」=アメリカCIAによる拷問手法が重なる。

また、訳者あとがきでは『ショック・ドクトリン』あるいは『惨事便乗型資本主義(Disaster Capitalism)』について、以下のように簡潔にまとめてくれています。

著者のナオミ・クラインが本書で徹底して批判するのは、シカゴ大学の経済学者ミルトン・フリードマンと彼の率いたシカゴ学派の影響のもと、1970年代から30年以上にわたって南米を皮切りに世界各国で行われてきた「反革命」運動である。言い換えればそれは、社会福祉政策を重視し政府の介入を是認するケインズ主義に反対し、いっさいの規制や介入を排して自由市場のメカニズムに任せればおのずから均衡状態が生まれるという考えに基づく「改革」運動であり、その手法をクラインは「ショック・ドクトリン」と名づける。「現実の、あるいはそう受け止められた危機のみが真の改革をもたらす」というフリードマン自身の言葉に象徴されるように、シカゴ学派の経済学者たちは、ある社会が政変や自然災害などの「危機」に見舞われ、人々が「ショック」状態に陥ってなんの抵抗もできなくなったときこそが、自分たちの信じる市場原理主義に基づく経済政策を導入するチャンスだと捉え、それを世界各地で実施してきたというのである。p683-684

フリードマンが提唱した過激なまでの自由市場経済は市場原理主義、新自由主義などとも呼ばれ、徹底した民営化と規制撤廃、自由貿易、福祉や医療などの社会支出の削減を柱とする。こうした経済政策は大企業や多国籍企業、投資家の利害と密接に結びつくものであり、貧富の格差拡大や、テロ攻撃を含む社会的緊張の増大につながる悪しきイデオロギーだというのがクラインの立場である。自由市場改革を目論む側にとってまたとない好機となるのが、社会を危機に陥れる壊滅的な出来事であることから、クラインは危機を利用して急進的な自由市場改革を推進する行為を「ディザスター・キャピタリズム」と呼んでいる。これまでこの語は「災害資本主義」と訳されることが多かったが、「ディザスター」は自然災害だけでなく人為的な戦争やクーデターも含む語であることも踏まえ、より意味を鮮明にするために、本書では「惨事便乗型資本主義」と訳した。p684

これまでの本書に関する読書記録では、本書をより読み進めやすくするための前提を共有する前提編と事例編としてまとめました。

今回の記事は、ショック・ドクトリンおよび惨事便乗型資本主義がどのように生まれ、発展してきたのかを探る戦後史〜現代編です。

それでは、以下、見ていきましょう。

ショック療法の原型:精神科医による拷問的治療法

本書におけるショック療法の原型として、著者はユーイン・キャメロン(Donald Ewen Cameron)という精神科医の名を上げています。

ユーイン・キャメロンはスコットランド生まれのアメリカ人であり、アメリカ精神医学会をはじめ、カナダ精神医学会、世界精神医学会の会長という、自身の専門分野について頂点を極めた人物です。また、1945年、ニュルンベルク裁判においてナチ党副総統ルドルフ・ヘスの精神鑑定を行なった三人のアメリカ人精神科医のうちの一人でもありました。

何十本もの学術論文や講演記録を残したキャメロンですが、彼が1950年代にCIAが資金提供を行った洗脳実験に関する書籍も出版されており、これらの著書にはキャメロンと米中央情報局(CIA)の関係が詳細に記されていると言います。

ナオミ・クラインはこのキャメロンの患者の一人である、ゲイル・カストナーという女性に取材を試みています。クラインがカストナーに取材を試みた率直な理由は、以下のようなものでした。

私はショックに関する本を書いています。戦争やテロ攻撃やクーデターや自然災害などが、いかに国家にショックを与えるかについてです。そしてこの第一のショックが引き起こす恐怖や混乱に乗じた企業や政治家が、今度は経済的ショック療法によって国家に二度目のショックを与え、さらにこうしたショック政治に果敢に抵抗しようとした人々が、警察や軍、刑務所の尋問官などによって三度目のショックを与えられるという、そのメカニズムを探っているのです。私があなたの話を聞きたいのは、私の推測する限り、あなたはもっとも大きなショックを与えられた一人だからです。電気ショック療法(ECT)をはじめとする"特殊な尋問方法"を使った米中央情報局(CIA)の秘密実験を生き延びた、数少ない生存者の一人だからです。そして1950年代にマギル大学であなたに対して行われた研究が、現在ではグアンタナモ・ベイの米軍基地やアブグレイブの刑務所で応用されていると考えられる理由が十分あるのです」p32

ゲイル・カストナーは、クラインの所在当時、老人ホームに住んでいました。背骨には細かい骨折があり、関節炎が悪化するとひどく痛み、さらに立ち上がるのが不自由な状態です。これは、脳の前頭葉に150〜200ボルトの電流を63回流され、そのたびに処置台の上で激しく痙攣するなどした名残なのだと言います。

また、入ってきた情報は瞬時に忘れてしまい、残っているわずかな記憶も時系列がバラバラになってしまっている状況。他にも、ガレージの開閉スイッチを触ってビリッとした時に理由もわからずコントロールしようのないパニックに陥ってしまったり、ヘアドライヤーのプラグをコンセントに入れようとすると、どうしようもなく手が震えてしまうなど、本人にとって不可解な現象を抱えていました。

カストナーが自身に起こった事実を調べた始めたのは、1992年のこと。「洗脳実験 犠牲者補償へ」という見出しの新聞記事を手にとったことからでした。そこには、かつての彼女の担当医であるユーイン・キャメロン博士主導で行われた常軌を逸した実験について書かれていました。

新聞記事には、1950年代にCIAの依頼を受けたカナダ、モントリオールの精神科医が患者たちを何週間も眠らされて隔離しのち、強力な電気ショックを何度も与えた上、LSDやPCP(通称エンジェルダスト)などの幻覚剤を混合した薬物を大量に投与。これによって患者は言語習得以前の幼児のような状態に状態に退行したというのです。これは、カストナー自身にも身に覚えがある症状でした。

キャメロン医師に治療を受けることになった当時のカストナーは18歳の成績優秀な看護学生であり、不安神経症を患っていたものの看護師たちから「明るく」「社交的」「きちんとしている」という評価を受けていました。ところが、入院から数週間後には「子どもじみた振る舞いをしたり、突拍子もないことを口にしたりし、幻覚を起こされているようにも、破壊的にも見える」と性格が激変。今や数は6までしか数えることができず、家族の顔も判別不能になってしまいました。また、当時のカルテには薬物による昏睡の誘発、中枢神経剤と鎮静剤の奇妙な混合投与、当時の標準の八倍もの回数の電気ショックが加えられたことなどが書かれていました。

当時キャメロンが発表した論文には、患者に健全な行動を取り戻させるた目の唯一の方法は、彼らの脳の中に入って「古い病的な行動様式(パターン)を破壊する」ことしかないと彼が確信していたことが示されている。その第一段階は「脱行動様式化(デパターニング)」であり、その目的は脳をアリストテレスの言う「何も書かれていない石板」すなわち「白紙状態(タブラ・ラサ)」に戻すという驚愕すべきものだった。脳に、その正常な機能を阻害するありとあらゆる手段を使って一斉攻撃をしかけることによって、こうした白紙状態が作れるとキャメロンは考えた。p40

キャメロン博士にとっては、健忘と退行とはそれまでの悪しき習慣が全て除去され、新しいパターンを書き込むことができる白紙状態を意味していたのです。

1962年の論文のなかで、キャメロンはゲイル・カストナーのような患者をどんな状態に持っていきたいのかについて、こう記している。「単に時間的・空間的イメージが消失するだけでなく、すべての感覚が消えてなくなる必要がある。この段階で患者には、他のさまざまな現象が現れる場合がある。例えば第二言語が話せなくなったり、自分の結婚歴も忘れてしまうなど。さらに進んだ形として、支えがなければ歩けない、自分で食事ができない、大小便の失禁などがある。(中略)記憶機能のあらゆる側面が大きく阻害されるのである」p42

このような処置の結果「完全な脱行動様式化(デパターニング)」が達成され、初期の人格が十分に消去された状態で、精神誘導(サイキック・ドライビング)というキャメロンが考案した方法が実施されました(「あなたは良い母親であり妻で、皆あなたと一緒にいることを楽しいと思っています」などと吹き込んだ録音テープを繰り返し聞かせるなど)。

電気ショックを与えられ、大量の薬物でほとんど植物状態になった患者の中には、1日16〜20時間、何週間にもわたってただテープを聞かされ続ける人、まる101日間連続でテープを聞かされ続けた人もいたそうです。

CIAが共産主義者向けの特殊な尋問方法の研究を開始

50年代半ば、冷戦および共産主義にヒステリックになっていたCIAは「特殊な尋問方法」に関する秘密プロジェクトをスタートさせており、その中で何人かの研究者がキャメロンの方法に興味を持ちました。CIAは1951年にカナダ、モントリオールにてマギル大学心理学科長ドナルド・ヘッブ博士と交流を持っており、ヘッブ博士の研究を元にキャメロン博士がCIAの支援を受けて研究を進めていくこととなります。

朝鮮戦争中に中国の捕虜となったアメリカ兵が、資本主義や帝国主義を非難する発言をしていたことから、共産主義国が捕虜の「洗脳」に成功したように見え、そのメカニズムについての研究が西側諸国にとって緊急課題となっていました。ヘッブは共産主義国が捕虜を極度の隔離状態に置いたり、感覚遮断を行うことで精神をコントロールしようとしているのではないかと考えており、CIAはそのことに強く印象づけられました。

ヘッブは大学の学生を対象に、目に黒いゴーグル、耳にはホワイトノイズの流れるヘッドホン、手や腕は物に触れられないように段ボールで覆い、何日間も過ごす実験を行いました。研究資金を提供していたカナダ防衛研究委員会では、感覚遮断が被験者の学生たちに著しい知的能力の低下が生じたこと、学生たちはテープに録音された事柄に対して驚くほど受容的になったことを報告しています。

被験者の学生の中には「この実験は拷問の一種だった」と自分から述べる学生が現れ、ヘッブ自身も自分の研究が一種の精神的拷問マニュアルになりうることを認めました。被験者を30〜60日間の長期にわたり(医療倫理に反する)感覚遮断状態に置くことが不可能であったため、明確な結論は得られなかったとヘッブは報告しています。しかし、1957年以降、同じ大学の研究者であったユーイン・キャメロンはCIAから研究資金を受け取り、ヘッブの研究を応用し、患者に対して治療と称してショック療法を行っていくこととなります。

その後、CIAによってまとめられた「時間的・空間的イメージを阻害する(自分が誰で、時間的・空間的に自分がどこにいるのかわからなくする)」尋問(拷問)マニュアルは、その後2000年代に至るまで、グアテマラ、ホンジュラス、ベトナム、イラン、フィリピン、チリ、イラク、キューバに至るあらゆる場所でテロリストに対して、容疑者に対して、適正戦闘員や異教徒に対して運用されていくこととなります。

以上のような、患者にショックを与えて混乱した退行状態にすることで、健全な模範的市民に「生まれ変わる」ための前提条件を作り出せるというキャメロンの論理は、医療的観点からは完全に失敗に終わりました。患者はたとえ退行した状態になっても、テープによって録音されたメッセージを受け入れたり、吸収することはなく、治療を受ける前より状態が悪化した患者は75%にのぼりました。患者の記憶と心はズタズタになり、回復や再建、創造は叶わなかったのです。

このようなショック療法による効果は、戦争やテロ攻撃、クーデターや自然災害に直面した際の人々の反応によって裏づけされることとなります。惨事便乗型資本主義の考えに立つ人々はこの「白紙状態」のうちに経済的ショック療法を行い、それに抵抗、対抗しようとする人々に対しては警察、刑務所職員、軍による弾圧というさらなるショックを重ねていくという、通底する思想のもとに動いていると言えるでしょう。

次の節以降は、この思想を受け継いだ国家レベルの政治的・経済的ショック療法……ショック・ドクトリンが生まれてくる社会的背景を見ていきたいと思います。

ショック・ドクトリンの思想的背景:経済学シカゴ学派

ある社会が政変や自然災害などの「危機」に見舞われ、人々が「ショック」状態に陥ってなんの抵抗もできなくなったときに乗じて、市場原理主義に基づく経済政策を導入するというショック・ドクトリン。

この経済的、社会的な背景は、大恐慌以降の世界情勢に求めることができます。まずは、市場原理主義的な思想の背景を見ていきましょう。

1950年代のシカゴ大学経済学部は、自らを「学派(School of Thought)」とみなし、当時主流だった「国家統制主義」的な立場(アメリカにおけるケインズ主義、ヨーロッパにおける社会民主主義、第三世界における開発主義)に対抗する革命的な砦としての意味を持っていました。

そのシカゴ学派に革命的な熱気を与えたのが、ミルトン・フリードマン(Milton Friedman)でした。

精神科医ユーイン・キャメロンが、ショックを用いて人々の精神を原始的な状態へ回帰させようとしたのに対し、経済学者ミルトン・フリードマンは政策を用いて、政府規制や貿易障壁、既得権を廃し、純粋な資本主義の状態に戻すことを理想としていました。

シカゴ学派創設者の一人であるフランク・ナイトは、個々の経済理論は議論の余地ある仮説ではなく「システムの神聖な特性」であるという考え方を学生に「吹き込む」ことが教授の使命であると考えていました。

シカゴ学派によれば、需要と供給、インフレーション、失業といった経済に影響を与える様々な力は、月の引力と潮の干満のような関係にあり、真の自由市場においてはこれらの力は完全な均衡状態にあると言います。

フリードマンはさらに進んで、経済が激しいインフレーションに陥るのはおしなべて政策立案者が誤ってシステムに過剰なマネーを流入させたことに起因すると言います。生態系それ自身の力でバランスを保っているように、市場もまたそのままにしておけば、生産される商品の数も、その価格も、それを生産する労働者の賃金も適正になり、十分な雇用と限りない創造性、そしてゼロインフレという地上の楽園が出現するというのです。

1950年代当時、シカゴ学派は、労働者の権利に関する急進的左派理論が世界中で支持されつつあったとき、経営者側の利益を守る方法を提示したという点で魅力的なものでした。

当時は労働者の権利に関する急進的な左派理論(マルクス主義等)が世界中で支持されつつありました。マルクス主義が革命によって現行の社会システムを一掃し、社会主義体制に入れ替えることを手段と考えていたのに対し、シカゴ学派にとっては、理想の社会の実現はそのような単純なものではありませんでした。

アメリカにせよ資本主義経済とされている他の国々にせよ、多くの国では商品を買いやすくするための価格固定、労働者の搾取を抑制するための最低賃金の設定、すべての国民が教育を受けられるように国家の手に教育を委ねていました。

このような混合経済……消費財の製造と流通における資本主義、教育における社会主義、水道など基本的事業の国有化、そして極端な資本主義を緩和することを目指すありとあらゆる法律がごちゃ混ぜになった状態は、シカゴ学派にとって見苦しい状態でした。彼らが希求していたのは、そうした汚染された資本主義体制からの「改革」を通した「浄化」であり、純粋な資本主義への回帰でした。

以上だけ見ても、1950年代当時には、冷戦という東西の社会思想的対立(資本主義と共産主義)だけではなく、資本主義においても純粋な自由放任主義や種々雑多な混合経済のあり方が乱立していたことが窺えます。

世界大戦後の潮流:自由放任の終焉と国による保障

では、この1950年代という時代は、シカゴ学派にとってはどのような状況にあったのでしょうか。

企業には一切規制を加えず、その意の向くままに活動を推進させようとは、とても表向きには持ち出せない状況だったようです。

当時はまだ、1929年の株価大暴落と大恐慌の記憶……一夜にして消え去った貯金、多発する自殺、炊き出しの長い列、仕事も家も失った人々……が生々しく残っていました。この災いのあまりの大きさに、徹底した管理を行う政府体制を求める声が高まっていたのです。

さらに、第二次世界大戦は貧困との戦いに新たな緊急性をもたらしました。ドイツでナチスが台頭したのは、第一次大戦後の膨大な賠償金の支払いによって経済が破綻し、さらに1929年の株価大暴落によって深刻な不況に陥っていた時期でした。

第二次世界大戦後、この教訓から欧米の大国は、市場経済は国民に十分な基本的尊厳を保障すべきであるという原則を支持するようになります。

近年の社会保障制度、公的医療制度、労働者保護制度などの制度の整備とは、幻滅した国民が再びファシズムや共産主義といった思想に心が惹かれることを防ごうという、実際的な要請によって進められたのでした。

発展途上国における開発主義の台頭

欧米の先進国が国家による経済の統制と富の再分配……ケインズ主義および社会民主主義に傾倒していく中で、発展途上国においては開発主義と呼ばれる潮流が生まれました。

発展途上国においては、自然資源の価格の下落が続く状態が続いており、貧困の悪循環から抜け出すためには自然資源の輸出に依存するのではなく、国内指向型の工業化政策を追求する必要がある、という考え方です。

具体的な政策としては、石油や鉱物をはじめとする主要産業の規制、国有化を進めると同時に、それらの収益のかなりの部分を政府主導の開発プロセスに注入することを目指すものでした。

1950年代には、この開発主義のもと、チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジルの一部で構成される南米南部地域(サザンコーン)は急速な経済拡大を遂げ、ヨーロッパや北米に近い様相を呈し始めます。

新しい工場で働く労働者たちは強力な組合を結成して中産階級レベルの賃金を得るべく交渉し、その子どもたちは新設された公設大学へ進学しました。また、この地域の一握りのエリート層と貧しい農民階級との間に横たわっていた大きな格差は次第に狭まり、1950年代にはアルゼンチンは南米で最大の中産階級を擁するようになり、隣国のウルグアイでは識字率は95%に達し、すべての国民に対し医療が無料化されました。

この時期、開発主義が目覚ましい成功を収めたことで、南米南部地域は世界中の貧困国にとって希望の象徴になりました。賢明で実際的な政策を積極的に実施することで、南北問題(今日的にはグローバルサウス)という階級格差が解消できることが証明されたのです。

この成功は、シカゴ学派にとっては失意の日々をもたらし、多国籍企業のトップにとっては苦々しいものでした。

企業経営者や株主にとっては、労働組合が成長し、強い要求を突きつけてくるようになった上に、経済成長に伴って膨大な富が創出されていたものの、それらは法人税や労働者への賃金という形で再分配することが求められていたためです。

だからこそ企業側は、企業側の見解を学者の口を通して発表してもらうことの重要性から、シカゴ学派に多額の寄付も行ったのでした。

フリードマンは主著となった『資本主義と自由』において、その後の世界の自由主義経済の基本ルールとなるものを打ち出すとともに、アメリカ国内では新保守主義運動(ネオコンサーバティブ)の経済政策となるものを作りあげました。

第一に、各国政府は利益の蓄積にとって障害となる規則や規制をすべて撤廃しなければならない。

第二に、政府が所有する資産で企業が利益を上げられるものはすべて民間に売却しなければならない。

第三に、公的プログラムに充てる予算は大幅に削減しなければならない。

この規制緩和、民営化、社会支出の削減の三つの柱に、フリードマンは具体的な提言も数多く盛り込んでいたのでした。

アメリカによる知的帝国主義:開発主義との戦い

1950年代のアメリカでは、フリードマン率いるシカゴ学派式の経済政策を取ることは到底考えられない状況でした。

アイゼンハワー大統領は当時2期目の当選を目指しており、国内でケインズ主義的政策に基づく公共サービスや労働者の保護は支持されていたためです。

しかし、海外において開発主義を打ち破ることに意欲的だったアイゼンハワーと、開発主義を掲げるラテンアメリカに支社を置く多国籍企業の利害は一致していくこととなります。

英米の多国籍企業は、自国政府に不満をぶつけ始めていました。労働者は賃上げを要求し、鉱山や銀行までラテンアメリカの経済的自立のために国有化すべき、という議論が立ち上がっていたためです。

また、ラテンアメリカの封建地主は、かつて自分たちに膨大な利益をもたらし、農場や鉱山で働く貧しい農民が無限にプールされる状態に満足していたのですが、開発主義の浸透により自分たちの利益は他の部門の増強へと振り分けられ、労働者が土地の再分配を要求し、政府が農作物価格を意図的に低く抑えるようになったことに、強い怒りを感じていました。

こうした多国籍企業からの圧力により、米英の政策立案者の間に、開発主義を冷戦のような対立構造に引き込もうとする動きが根付いていきました。第三世界のナショナリズムは全体主義的共産主義への道の第一歩であり、今のうちに芽を摘む必要がある、というのです。

1953年、チリのサンティアゴで二人のアメリカ人が会見し、ラテンアメリカからいかに開発主義を追放するかについての協議が行われました。一人は米国際協力局(後の米国再開発庁:USAID)チリ支局長アルビオン・パターソン、一人はシカゴ大学経済学部庁セオドア・W・シュルツでした。

パターソンはラテンアメリカの「左翼がかった(ピンク)」経済学者たちの影響力に恐れをなし、「必要なのは人間形成のあり方を変えること。すなわち現在、きわめて劣悪な状態にある教育に影響を与えることだ」と話しました。

一方のシュルツも、「アメリカは海外に展開している経済政策を吟味数r必要がある。(中略)われわれは(貧困国が)自国の経済発展を達成するのに、わが国のようなやり方を取り入れ、わが国との関係を深めることによって経済的救済を成し遂げることを望んでいる」

二人の考え出した当初の計画は、アメリカ政府の資金でチリの学生を、当時の世界で最も「反左翼的」とみなされていたシカゴ大学で学ばせるというものでした。この計画はやがて国家主導型経済の中心的部隊であったチリ・サンティアゴを世界最先端の自由市場経済の実験場へと転換し、フリードマンに現実の国家で自説の有効性を試す願ってもない機会を与えることになります。

それ以前にもラテンアメリカの学生をアメリカで教育するプログラムは数多くあったものの、この計画がそれらと大きく異なるのはその臆面もないイデオロギー的性格でした。

チリのエリート学生たちが何を学ぶべきかについて、米政府が威嚇射撃を行ったようなものです。パターソンがはじめにチリ大学に交換プログラムを持ちかけると学部長はその申し出を断り、また、後にプログラムを助成することになるフォード財団もその思想的狭量さに懸念を覚えるほどのものでした。

結局、パターソンは経済学部が存在しない、より保守的なチリ・カトリック大学の学部長に同様の申し出を行ったところ快諾を得ることができ、ここのワシントンとシカゴで<チリ・プロジェクト>と呼ばれる計画が誕生しました。

シカゴ・ボーイズを生んだチリ・プロジェクト

1956年に正式にスタートしたこのプログラムにより、1957年から1970年までの間に約100人のチリ人学生がシカゴ大学で大学院レベルの教育を受け、その学費と諸経費はアメリカの納税者や基金によって支払われました。

留学生にシカゴ学派の学説を吹き込むことはシカゴ大学経済学分の最優先事項となり、チリのあらゆる政策(強力な社会的セーフティネット、国営産業に対する保護政策、貿易障壁、価格統制など)が詳細にわたって検討され、その欠陥が指摘されました。

学生たちはこうした貧困の緩和策を蔑視するように教え込まれ、博士論文でラテンアメリカの開発主義の愚かさを分析した学生も少なくなかったと言います。チリ人の妻を持ち、プログラムの責任者であるアーノルド・ハーバーガーからして、50〜60年代にたびたびサンティアゴを訪れて帰国しては、当時最高水準にあったチリの医療制度、教育制度について「後進国である身分に不相応の愚かな試みだ」とこき下ろしていました。

最初のチリ人学生が留学を終えて帰国する頃には「フリードマン本人よりもフリードマン主義に徹していた」とサンティアゴのカトリック大学の経済学者が評するほどとなっていました。

そのうちの多くがカトリック大学の経済学部の教授に就任し、サンティアゴのど真ん中に小さなチリ版シカゴ学派が形成されました。1963年には同学部の専任教授のうち13人中12人がシカゴ大学のプログラム修了者で占められ、学部長もまたプログラム修了者から選出されました。

シカゴであれ、サンティアゴであれ、このプログラムで学んだ学生はラテンアメリカ全域で「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれるようになりました

USAIDの助成金が増額されるに伴い、チリのシカゴ・ボーイズはラテンアメリカで「新自由主義(ネオリベラリズム)」と呼ばれる考え方をこの地域全体に拡大するためにアルゼンチンやコロンビアに赴くこととなります。その目的は「ラテンアメリカ全体にこの知識を広めるとともに、自由の実現を妨害すし、貧困と後進を永続化させた思想的立場と対決する」ことだと、あるプログラム修了者は述べています。

しかし、このプロジェクトは当初の目的どおりには進みませんでした。1957年にシカゴ大学から米国務省の資金担当者に送られた報告書によれば、「このプロジェクトの主要な目的」は「チリの経済問題において知的指導者となる」学生を数多く教育することにあったが、シカゴ・ボーイズは指導者となるどころか取り残されてしまったのです。

1960年代、南米南部地域における経済論議は自由放任型資本主義と開発主義のどちらを取りべきかではなく、開発主義の次の段階はどうあるべきかでした。マルクス主義者は国有化と徹底した土地改革の推進を主張したのに対し、中道派はラテンアメリカ各国間の経済協力を拡大して、ヨーロッパや北米に匹敵する強力な通商圏への転換を目指すべきと主張しました。世論調査や一般市民の意見では、左寄りの路線が大きな支持を集めていました。

1970年、チリでは三大政党すべてが同国最大の収入源である銅山の国有化(当時、アメリカの大手銅山会社に支配されていた)に賛成し、大きく左寄りの政策を取りました。シカゴ・ボーイズはチリの選挙における勢力地図に全く影響を及ぼすことができなかったのです。<チリ・プロジェクト>は高くつく失敗に終わり、思想的には歴史的敗北となりました。

チリの軍事クーデター前夜〜初のシカゴ学派国家成立

1970年、チリでは大統領選挙で人民連合のサルバドール・アジェンデが勝利し、同政権はそれまで国内外の企業が支配していた経済の主要な部分を国有化する政策を打ち出しました。アジェンデはチリにおける社会変革は武装闘争ではなく、選挙によってもたらされるべきだという信念を持っていた人物でした。

アジェンデが当選すると、アメリカ実業界は就任式を待たずにアジェンデ政権に宣戦布告しました。ワシントンに本拠を置くチリ特別委員会が中心となり、そのメンバーにはチリに子会社を持つアメリカの大手鉱山会社や、委員会の事実上のリーダーであり、間も無く国有化されるチリの電話会社の株式の70%を保有していた国際電話電信会社(ITT)が含まれていました。

メンバー企業はアメリカからチリへの融資を阻止した上で、「アメリカの大手民間銀行にも同様にするよう密かに促し、外国銀行筋にも同じ考えに立って協議する。向こう半年間はチリから物品を買うことを控える。チリから銅を買わずに、アメリカの銅備蓄を使用する。チリに米ドルの不足状態を作り出す」ことを目指すとしていました。

また、1972年にはITTとCIAおよび国務省との間で、アジェンデ大統領就任を妨害する計画が暴露されました。いわくITTがアジェンデの反対勢力に100万ドルに上る賄賂の提供を申し出、チリ大統領選の結果を操作する秘密計画にCIAを引き込もうとしたというのです。

それでも依然として1973年時点で依然としてアジェンデは政権の座にあり、市民の支持を得ていました。

アジェンデ反対派は、インドネシアとブラジルで起こった軍事クーデターを詳細に研究し、ショック療法の方法論が確立されていきました

大規模な弾圧を先制的に行うことで国全体がショック状態に陥り、抵抗運動が起きる前にそれを排除できるということ。また、クーデター以前に経済学者のチームが軍に接触し、経済学者の望むイデオロギーに軍部を転向させ、さらにその経済学者たちは新政権の重職に就くという図式です。

インドネシアにおいて経済プログラム作成に至った役割は、チリにおいてはシカゴ・ボーイズが担当することとなりました。

アジェンデ大統領就任から一年後の1971年9月、チリ実業界の大物たちは体制転換に向けて首尾一貫した戦略を練るため、緊急会議を開きました。会議は「アジェンデ政権はチリの自由および私企業の存在と相容れない。したがって国の破綻を回避するには、現政権を転覆する以外に方法はない」と結論しました。

また会議では「戦争のための組織」が結成され、その一部は軍と連携を取り、別の一部は「政府のプログラムに代わる具体的なプログラムを策定し、それを計画性を持って国軍に伝える」ものとされました。

クーデター計画は、軍がアジェンデとその支持者の壊滅を、経済学者(シカゴ・ボーイズ)が彼らの思想(開発主義)の壊滅をそれぞれ計画するという方針が取られました。軍事政権以後の指針となる経済政策プログラムは500ページにも及ぶ分厚さから"レンガ"と呼ばれ、その主要な著者10人のうち8人がかつてシカゴ大学で経済を学んだ者でした。

その後、チリのクーデターによって「シカゴ学派国家」第1号が生み出され、シカゴ学派の理論が実験室から現実へと適応される足がかりとなったのでした。

1970年代以降のショック・ドクトリンの事例

前述のチリのクーデターを皮切りに、世界中で実施されていくショック・ドクトリンの事例については、以下の記事にまとめています。

惨事便乗型資本主義の脱近代化-米政府部門の民営化


事例編にて、チリの軍事クーデターからアメリカ・ニューオーリンズを襲ったハリケーンやスマトラ沖地震前後に起こったショック・ドクトリンのケースを取り上げてきました。

2000年代以降の惨事便乗型資本主義を見ていく上で、9.11(アメリカ同時多発テロ事件)の果たした役割は大きいように感じられます。

9.11以降、ブッシュ大統領率いるアメリカ政府はセキュリティー上の課題解決のために、民間企業のソリューションを市場価格で買い上げる形で国防の民営化を促進、また、セキュリティー産業という新たな経済分野を生み出していくことになります。

この方針の念頭にあったのは、政府の仕事は統治することではなく、その業務をより効率的で一般的に有能な民間部門に下請けに出し、その仕事を監督することだというものでした。

アメリカにおける政府の仕事そのもの民営化していくブームは、80年代から90年代にかけて全米を席巻し、クリントン政権のみならず州政府や地方自治体も全面的に採用していました。

ブッシュ政権が成立する頃には、すでに水道や電気事業、ハイウェイの運営管理、ゴミ収集といった大規模な公営事業はあらかた民間に売却されるか、業務委託されていました。

国家機能のこうした手足が次々と切り落とされていった結果、後に残ったのは軍、消防、警察、刑務所、国境警備、秘密情報、疾病対策、公教育、政府機関の統括といった「中核」機能のみでした。

この中核機能における民営化について、9.11の前日。まさにこの日に、ドナルド・ラムズフェルド国防長官は国防総省における「戦闘活動」以外の業務(事務、保険医療など)の民営化を進めるべく、国防総省スタッフにメッセージを伝えるためのスピーチを行なっていたのでした。

しかし9.11以降、この政府機能民営化の取り組みはしばらくの間は中止かと思われました。9.11で露呈したセキュリティー上の失態とは、過去20年以上にわたり、政府業務や公共部門を切り刻んでは営利目的の民間企業に受け渡してきた帰結であったためです。

ニューヨーク市警察と消防署の無線連絡は救助活動の真っ只中に不通になり、航空管制官は旅客機がコースを外れたことに気がつかず、テロ実行犯は契約社員が担当する空港のセキュリティー・チェックを難なく通り抜けたのでした(こうした契約社員の中には、空港内の飲食カウンターの契約社員よりも賃金が低い者もいたと言います)。

これもまた、フリードマン流の政策の結果でした。レーガン政権が航空管制官組合を非難し、航空事業の規制撤廃を決定。その後の20年間で全ての航空交通網が民営化され、規制が廃止され、人員が大幅に削減された結果、空港のセキュリティー・チェックを担当するのはほとんどが十分な訓練も受けず、労組に属さない低賃金の契約社員となっていました。安価なフライトが十分にあるかぎり、そのようなことは誰も気にしませんでした。しかし、9.11以降はその空気が一転したのです。

また、続く10月には白い粉末の入った封筒が議員やジャーナリストに送りつけられ、炭疽菌パニックも発生。メディアは、もしこのような危険な病原菌を郵便物や食品流通、水道を通してバラ撒けるのなら、ブッシュが掲げる郵政民営化を推進するのは正しいことなのか?そして、すでに解雇されてしまった食品検査員や水道検査員を復職させることはできるのか?と書き立てました。

9月14日、ブッシュは消防隊員やレスキュー隊員と共にグラウンド・ゼロに立ち、これまで保守層としてはなんとか叩き潰そうとしてきていた組合に所属する公務員を抱擁し、スピーチを行いました。事件後の数週間、ブッシュは公立校、消防署、追悼集会、疾病対策予防センターなどあちこちの公共施設を慰問して回り、その貢献と愛国精神に感謝の意を表しました。人々は、危機においてリーダーに寄せる期待も相まってこの光景をメディアを通して見ていました。

国内版ショック療法:セキュリティ産業バブルの発生

ブッシュ大統領と側近は、9.11を境にケインズ主義に転向するつもりはなく、むしろ新たなセキュリティ上の課題に取り組む上で必要な情報や革新性を持つのは民間企業であるという信念を再確認したとクラインは述べています。

9.11以降、ブッシュ・チームは人々がショック状態に陥った時期に乗じて、戦争から災害対応に至る全てを利益追求のベンチャー事業にするという、急進的な政府の空洞化構想を推し進めるべく動き始めました。

ブッシュ・チームは「テロとの戦い」という名目のもと、初めから民営化を念頭においたまったく新しい枠組みを構築したのです。それには二つの段階がありました。

まず、ホワイトハウスは9.11の衝撃で引き起こされた国民の恐怖感情を利用し、警察、監視、拘束、戦争遂行といった政府の権力を大幅に強化しました。次に、潤沢な資金を投入されて拡大したセキュリティー、侵攻、占領、復興といった新事業が直ちに外部委託され、利潤追求を目的とする民間企業へと手渡されていきました。

これは、表向きはテロリズムとの戦いを目標に掲げつつ、その実態は惨事便乗型資本主義複合体、すなわち、国土安全保障と戦争および災害復興事業の民営化を担う、本格的なニューエコノミーの構築に他なりませんでした。

その使命は、国内外に民営化されたセキュリティー国家を構築・運営することであり、大々的な経済刺激策は、グローバリゼーションとインターネット関連事業のブームの波が去ったアメリカ経済に活を入れたのでした。

ブッシュ政権下で創設された国土安全保障省の設立趣意書には、「今日、テロリストたちは時と場所を問わず、いかなる種類の武器を使ってでも攻撃してくる可能性がある」と記されています。これはセキュリティ産業も、いつどこで起きるかわからないあらゆる攻撃を想定しておく必要があるという都合の良い帰結を導くこととなります。

また、ディック・チェイニー副大統領の言う、脅威の可能性が1%もあれば、危険性は100%とみなして対応する必要があるという「1%原則」はこの流れを後押しし、後のイラク戦争を正当化しました。

「テロとの戦い」は上記のような考え方のもと、軍事的には無限に広がったつかみどころのない「勝利なき戦争」となりましたが、経済的に見れば、終わりのない無数のチャンスとなりました。

監視カメラと画像分析技術の市場を筆頭に、取引状況や旅行者の情報管理やデータ解析といった技術は、テロ対策や国境監視の名目のもとで一大産業を生み出したのでした。

さらに、疑わしき情報を元に「敵性戦闘員」「テロリスト」と見做された容疑者は、米国市民でなければ入国ビザの拒否、飛行機への搭乗を拒否され、民間企業が建設した収容施設へ連れていかれ、民間委託された尋問官に尋問を受けることも起こりました。

民間委託尋問官は、高収入の仕事を継続的に得るために米政府の求める「起訴可能な情報」を容疑者から引き出す必要があり、これが虐待の温床となりました。

容疑者の中には、アメリカ諜報機関の出した報償金のために引き渡された無実の人間も多数いたとのことです。

9.11以前には存在しなかったに等しいセキュリティ産業は、わずか数年のうちに映画産業や音楽産業を遥かに上回る規模へと脅威的な成長を遂げました。

しかし、最も驚くべきことは、セキュリティ・ブームがこれまでのフォード革命からITブームのように一つの経済分野として分析されたり、議論されることがほとんどないという点です。

新たな経済が台頭したときには、富の創出による劇的な変化がいかに人間の労働や移動の仕方、脳の情報処理や文化的に影響するのかが盛んに議論されたり、分析されたりしたものですが、この惨事便乗型資本主義モデルについて、そうした広範囲にわたる議論は見られません。惨事便乗モデルで富を得た人々は、ITバブルの寵児たちのように、メディアが取り上げることもありません。

このセキュリティ・ブーム(国内の安全保障と国外での脅威の排除機能の民営化)は、このまま進行すればどこに向かっていくのでしょうか?2021年現在、セキュリティ・ブームから、世界はどのような様相を呈しているのでしょうか?

テロとの戦い?:イラク戦争と惨事便乗型資本主義

2003年3月、「イラクの自由作戦」の名目のもと始まったイラク戦争の海戦理由については様々な仮説があるものの、ナオミ・クラインはこのイラク戦争の背景にも惨事便乗型資本主義の存在を提示しています。

イラク侵攻の正当性について説くのには大量破壊兵器への恐怖が使われ、また、テロの源はアラブ・イスラム世界の各地に点在しているというものでした。

では、なぜこの地域がテロを生み出すのか、と問われたとき、アメリカやイスラエルの政策が背景にあると説明するのではなく、この地域に市場経済と民主主義が欠如しているためだと言うのです。

もし、アラブ世界に自由市場経済と民主主義を導入するとして、まずは一国を足掛かりとする必要が出てくる。アメリカがその国へ侵攻し、「アラブ・イスラム世界のど真ん中にほかとは異なる国家モデル」を打ち立てることができれば、そこから周辺地域全体に民主主義/新自由主義の波を広げていくことができる。

このような、「モデル」理論と呼ばれる理論のロジックによれば、テロとの戦い、資本主義世界の拡大、選挙の実施の三つは一つのプロジェクトに統合されます。すなわち、中東からテロを「一掃」し、巨大な自由貿易ゾーンを構築したのちに事後承認としての選挙を実施して動きを封じるという三位一体の計画です。

後にブッシュ大統領はこれを「問題のある地域に自由を広める」という単純なフレーズで表現しましたが、ここでいう自由とは70年代のチリや90年代のロシアに提示されたような自由、つまり新たに民営化された国家を欧米多国籍企業が食い物にする自由であり、これこそがモデル理論の中核にある考えでした。

かつてCIAの資金で人体実験を行った精神科医のユーイン・キャメロンは、患者を幼児期の状態に退行させることで「脱行動様式化(デパターニング)」を図りました。脳内に存在するものすべてを消し去って白紙状態にした上で、新たな思考、新たな行動様式(パターン)を刷り込もうとしました。

イラクの侵攻と占領における戦略立案者は、世界中で用いられてきたショック戦術を研究し、そのすべてを採用しました。電撃的爆撃のうえに巧妙な心理作戦を加え、その後迅速かつ徹底した政治的・経済的ショック療法をあらゆる分野に施し、もし抵抗するものがあれば取り押さえ、「手荒な」虐待を加えるという形でバックアップするという戦法です。

イラク侵攻:国家レベルの暴力的な脱行動様式化

戦争が開始されるや、バグダッド市民は感覚入力の遮断に襲われることになります。通信省が爆撃され、市内四ヶ所の電話局が集中攻撃に遭い、市内全域の電話が不通となりました。まず、聴覚が奪われたのです。

次に奪われたのは視覚です。停電が起こったバグダッド市内では500万人の市民が真っ暗闇の恐怖に放り込まれました。市民は家から一歩も出られずにいる中、すっぽり頭巾で頭を覆われ、手枷足枷をつけられ連行されました。

その次は取り調べや尋問の場で衣服を剥ぎ取られ、また、当人の心の支えや慰めになるもの(コーランや家族の写真など)が踏みにじられました。さらに、混乱の中で数多くの国の重要文化財が略奪されました。これは、一部のイラク人による仕業でしたが、アメリカ側は後々民営化するべき国家の所有物、公共部門の縮小が進むとして、略奪の様子を傍観していました。

「何百人もの略奪者が国立博物館に押し寄せ、古代の陶芸品を叩き壊し、陳列棚を破って金製品や古美術品を奪っていった。まさに最古の文明の記録が掠奪されたのだ。(中略)博物館が所蔵する17万点の貴重な文化財の8割が持ち去られた」ロサンゼルス・タイムズ

「これは言ってみればロボトミー手術のようなものだ。何千年と続いてきた文化、その文化の深淵な記憶が取り除かれてしまったのだから」シカゴ大学の考古学者マグアイア・ギブソン

「バグダッドはアラブ文化を生み出した母なる地だ。あいつらは私たちの文化を丸ごと消し去ろうとしている。」ワシントン・ポストの取材に応じた市民

イラク占領:アメリカ中心の復興事業と経済政策

ブッシュ大統領に連合国暫定当局(CPA)代表に任命されたポール・ブレマーはバグダッド入りして以降4ヶ月間をほぼ経済改革に専念して過ごしました。

侵攻前のイラク経済は国営石油会社および200社に上る国営企業に支えられており、セメントや紙、食用油に至るまで主な食料と原材料の全てが国営企業で生産されていました。

ところがブレマーは就任翌月、「イラク経済復興のためには、非効率的な国営企業を民間の手に渡すことが不可欠である」として、国営企業200社を直ちに民営化するという、古典的なシカゴ学派ショック療法とも呼べる手段を取りました。

続いてブッシュ政権は、他国への侵攻、占領、復興を完全民営事業化した新市場として創出するべく、巨額の復興予算を投入しました。この復興予算は当のイラク人に渡ることなく、米政府はイラクの再建の設計、現地での実行をアメリカを拠点とする多国籍企業と外国人労働者に発注し、イラク人は復興計画の蚊帳の外に置かれることとなりました。

公務員の役割についても、アメリカ本国以上に政府機能の空洞化が進められ、最低限にまで削られました。人口2500万人のイラクを統治するブレマー以下CPAのスタッフはわずか1500人に過ぎなかったのです。

ブレマーが署名して発令した法律は民間の会計監査法人が運営することになり、イラクで新たに編成される軍や警察の訓練は民間セキュリティー会社や防衛企業に依託されました。さらに、米軍基地の設立と運営を委託されていた米企業ハリバートンは、社員5万人をイラクに派遣し、道路の維持管理から害虫駆除、映画館からディスコ・ナイトの実施まであらゆる業務を一手に引き受けました。

イラクの国営企業はその最大手の企業でさえ、自国の復興事業の孫請のそのまた下請仕事にもありつけない状態が続いていました。イラク側は暫定当局に何度も復興事業への参加のための設備や人員が揃っていることを強調したものの、援助も契約も何一つ与えられなかったと言います。

上記のような、外国企業を主体とする復興計画をイラク人が「贈り物」として受け取めるはずがなく、大半の人々が現代版の略奪と呼びました。

侵攻後11ヶ月後の2004年2月に行われた世論調査によれば、このとき過半数のイラク国民が世俗政権を望み、「イスラム国家」が望ましいと回答したものは21%、政治を動かすのは「宗教的指導者」が好ましいと答えたものは14%に止まっていました。

しかしその半年後、占領が暴力的に勧められた時点での他の調査では国民の70%がイスラム法を基本とした国家を望むと答えました。また、宗派間の暴力的抗争についても、占領一年目はほとんど存在せず、最初の大事件が起きたのは占領開始から一年が経った2004年4月でした。占領が宗派抗争の凶暴化や原理主義の台頭、暗殺集団の跋扈に至るまでをエスカレートさせたことは疑いようがありません。

この惨状についてクラインは、以下のように結論しています。

「現在のイラクの惨状は、ブッシュ政権の無能さや縁故主義のせいでもなければ、イラク国民の宗派抗争や部族主義に起因するものでもない。これは資本主義が引き起こした惨事であり、戦争によって解き放たれた際限のない強欲の生み出した悪夢にほかならない。」p510

この、資本主義というイデオロギー攻勢が、いかにイラクの混乱を長期化させているかについて、クラインは以下のように述べています。

最も顕著な例は、ブレマーのよる50万人の国家公務員(大多数の兵士のほか、医師や看護師、教師、技術者が含まれていた)の解雇です。ブレマーはイラクの国営企業や大規模な政府省庁を「スターリン主義経済」と呼んで嫌悪をあらわにしていました。しかしその結果、専門技術者の解雇による国家再建の可能性の阻害、世俗はイラク人の発言権の弱体化、抵抗運動の激化という三つの結果をもたらすことになりました。

同時に、ブレマーがシカゴ学派の教科書通りに貿易を自由化して無制限の輸入を許可する一方、外国企業がイラクの資産を100%保有することを認める法律に署名していた(および将来のイラク政府が改正できないようにする決定を下していた)ことが、イラクの実業家たちの激昂を招いていました。

また、自由市場原理主義という、占領統治の構造していた価値観そのものも、大きな障害と考えられました。政治学者であるマイケル・ウルフは以下のように述べています。

「ベジタリアンにとびきりの牛肉の赤ワイン煮込みが作れないのと同様、保守主義者がうまく国を統治できるわけがない。自分に課せられた任務に対する信頼がなければ、事がうまく運ばないのは当然だ。(中略)国の統治において、保守主義とは惨事の代名詞である」p514

130億ドルを投じたイラク復興事業を統括していたのは、ほんの数人の20代の共和党員であった、ということが取り沙汰されていますが、その若さと経験不足以上に、「国家統制主義」的なもの、政府や政治そのものに否定的な主義主張の仲間であったことが障害だったのです。

そのような反感は、本国アメリカで公教育システムや社会保障を解体、民営化することに有益であっても、破壊された公的機関を再建する任務には何の役にも立たなかったのです。

結果、何十億ドルという金を請負業社に分配し終えると、CPAは跡形もなく消えて無くなってしまいました。請負業社による数々の不祥事が浮上したときにはCPAの失態を説明できる責任者は誰一人残っていませんでした。

「何が復興だ?今だって未処理の水を飲んでるよ。浄水場は何十年も前に建てられたまま、放って置かれているんだ。電気だって1日2時間しかつかない。おまけにガスも来ないから、森から拾ってきた薪で煮炊きしている状態だ。生活は昔に逆戻りだよ」モスルのタクシー運転手

さらに、イラク復興の壊滅的失敗は、イスラム原理主義の台頭と宗教対立の激化を招く直接的原因の一つとなりました。占領当局が治安維持などの最も基本的な業務すら遂行できないことが明らかになると、その空白を埋めたのはモスクや各地の民兵組織でした。それら民兵組織の中には貧困地域で"影の復興"を推進し、心の拠り所となることで支持者を集め、より強大で残虐な武装勢力を形成するものも現れました。

もしも復興が適切に行われ、イラクの人々に職が行き渡り、民主的なプロセスを以て復興事業が行われていたら、このような状況は起こらなかったのかもしれません。

民主化の破棄と暴力的弾圧:民主主義<自由市場経済

2003年夏、イラク侵攻後のバグダッド市民は、日々の困難に見舞われながらも政治参加への熱い思いを滾らせていたと言います。

中でも市民の熱狂を集めたのは、国内各地で自発的に始まった選挙でした。フセインの支配からようやく解き放たれた人々は、新たな時代における市民代表者としてのリーダーを選出しました。サマラ、ヒラ、モスルなどの各都市では宗教指導者、世俗派の各専門家、部族代表者が集い、宗派対立や原理主義台頭といった最悪の事態を招かないよう、地元の復興を優先することで一致団結しました。

ところが、このイラク国民の民主主義への高まりと、その中で浮上してきたポール・ブレマー連合国暫定当局(CPA)代表の経済政策に対する明確な反対表明は、ブッシュ政権を困難な立場へと追いやることになりました。

アメリカ政府は、占領開始から数ヶ月以内に国民が選出したイラク新政府に権限を委譲し、政策決定には即イラク人を参加させるという思い切った約束をしていました。しかし、今ここで権力を手放したら、イラクを広大な米軍基地の点在する民営化経済国家モデルにしようという構想を断念せざるを得ない。それだけ、イラク国民の経済ナショナリズム(特に貴重な国家財産とみなされている石油資源に関しては)が強固であることが明白になったのです。

そこで米政府は民主主義実現の約束を反故にしたばかりか、ショックのレベルを引き上げるように命じました。

ブレマーは就任からわずか半年間に、制憲議会の召集を取りやめ、先方立案者を選出することをやめ、何十という地方自治体で自発的に行われていた選挙を無効とし、国政選挙ではなく反英米ではない人物を任命する計画を進めようとしました。

占領初期のイラクに駐在していた人の中には、民主主義の実現を遅らせ、骨抜きにする

様々な決定と、反米武装勢力による攻撃激化との間に関係があると指摘する者も少なくない。

「イラクで最初に外国人が大規模な攻撃を受けたのは、2003年7月にアメリカが最初のイラク人による指導機構である統治評議会のメンバーを選んだ直後のことだ。ヨルダン大使館が爆撃され、次にはバグダットの国連事務所が爆破されて罪のない多くの人が死んだ。(中略)評議会メンバーの構成と、国連がその評議会を支持したことへのイラク人の怒りが明らかに感じられた」国連外交官サリム・ローン

抵抗運動が拡大するにつれ、占領軍のショック戦術もエスカレートしていきました。深夜または早朝に米軍兵士はいきなり民家に押し入り、懐中電灯で暗い部屋の奥を照らして英語で喚き散らしました。突如侵入してきた他人に驚き、女性は慌ててスカーフで顔を隠し、男性は頭部に袋を被せられて軍用トラックに乗せられ、刑務所や収容所へ連行されました。

占領開始から三年半の間に米軍は推定で6万1500人のイラク人を逮捕・拘留しました。このような方法を取らなければならなかったのは、軍の人員削減とアウトソーシングが進められたことにより、イラク市民の反発を正面から鎮圧することが不可能になり、手当たり次第に襲撃して刑務所などに打ち込むほか無くなってしまったためです。

2003年8月以降に刑務所内での虐待に関する報告がどっと溢れ始めましたが、その虐待は次第に思いつきのものから組織化された暴力……ユーイン・キャメロンの人体実験をもとに作られたCIAの拷問マニュアルに則ったものも実施されるようになりました。室温の上げ下げ、ストロボライトを浴びせる、大音量の音楽をかける、犬をけしかける、電気ショックを与えるといったメニューが整然と実施されたと言います。

虐待を受け、擬人逮捕であったと釈放されたあるイラク人はこう述べます。

「アブグレイブは反米抵抗勢力の温床となった。(中略)辱めや尋問を受けた連中は今すぐにでも報復してやろうという気になった。誰がそれを非難できるというんだ?」

米兵の中にも、そうしたイラク人の怒りや報復感情を理解し、恐れる者も少なからず存在しました。

「そいつが善人だったとしても、俺たちの扱いで悪人になっちまったわけだ」

ある国を「白紙状態」にするという夢想は、その土地の人々が過去や歴史を放棄することを拒んだときに「焦土作戦」へと変わり、「すべてを作り直す」とは「すべてを破壊し尽くす」へと形を変えてしまう可能性を常に帯びているのです。

イラク復興事業の監査報告と、その後

イラク復興事業の監査にあたったスチュアート・ボーウェン特別監査官の報告によれば、イラクが直接契約した数少ない事業の方が、「効率的かつ安価であり、イラク国民に職を与えたことで経済も活性化させた」という。イラクという国についての知識もなくアラビア語も話せない動きの鈍い多国籍企業を使うのではなく、当のイラク国民に資金を出して自国の復興を任せた方がよほど効率が良いことが判明したのです。

イラク駐留米軍の戦闘指揮官トップ、ピーター・W・キアレッリ陸軍中将もまた、

「怒りに燃えるイラクの若者を職に就けることが必要だ。(中略)失業率がほんの少し低下するだけで、宗派間の殺し合いを減少させる効果が大いに見込まれる。」「四年経っても、まだわれわれがそれに気付いていないというのは信じがたいことだ。(中略)私にとって、これは大問題だ。ほかのどんな軍事作戦とも同じくらい重要な問題だ」

と説明します。

また、2006年12月には「イラク研究グループ」という超党派諮問機関が報告書を提出しました。この報告書は、アメリカが「イラク指導者を支援して国営石油産業を営利企業として再組織し」、さらに「国際社会や国際エネルギー企業に呼びかけて、イラク石油部門への投資を奨励する」べきだと提言しました。

米政府はこの点において、直ちに実行にうつすためにイラク新石油法案の起草に力を貸しました。それはシェル石油やBPといった国際石油メジャーが30年の長期契約のもとで、数千ドルにも及ぶイラクの石油収益のかなりの部分を保持することを可能にしたものであり、政府収入の95%を石油に依存する国を高給的貧困に縛り付ける宣告にも等しいものでした。

2007年2月、イラク政権が最終的に採択した法律は予想された以上に酷い内容になりました。国民の選出によらない協議会が不特定の外国人の助言を得て石油に関するすべての事柄に最終決定権を持ち、イラクがどの契約書にサインすべきかを決定する全面的な権限を持つというものでした。

これは事実上、イラクの主要財源である国有石油資源を民主的管理の対象から外し、富と権力を持つ石油独裁者の管理に任せることに等しく、しかもこの独裁者たちは機能不全に陥っているイラク政府とともに存在し続けるというのです。

イラクの主要な労働組合は「石油の民営化だけは越えてはならない一線」だと反対を表明し、共同声明の中でこの法案は「未だ占領状態に置かれるイラク国民が自国の未来を模索している最中に」エネルギー資源を奪い取る企てだと厳しく非難していました。

2021年8月「テロとの戦い」であったアフガン紛争の終結

この章を書いている現時点(2021年9月4日)で状況が動いているため、つぶさにプロセスを検討できているわけではありませんが、「テロとの戦い」を掲げて始まったイラク戦争と軌を一にするアフガン紛争がつい先日、終結(米軍の完全撤退)しました。

アフガニスタンの侵攻当初、アメリカは当時のタリバン政権がテロ組織アルカイダの支援を行っていること、オサマ=ビンラディンの引き渡しを拒否したこと等を理由に「不朽の自由作戦」と称して活動を開始。

2004年にアフガニスタン・イスラム共和国が成立するも、2021年8月15日に首都カブールへ侵攻することで共和国の政治体制は崩壊しました。

ここまでこの記事を読み進めてきてくださった皆さんは、この事件をどのように考えられるでしょうか?

私自身も政治に明るいわけではなく、日々新しい情報を取り入れているところですが、『ショック・ドクトリン』というテーマについてまとめていた最中の出来事であったので、まず取り上げてみて、そこから検証していければと感じています。


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