鈴木三重吉「桑の実」
久しぶりに本の話でも、と、自宅の小さな本棚を眺めてみました。
せっかく夏の名残の季節なので、女性が主人公の美しい恋愛小説という条件で背表紙を見つめてみたのですが、、
なんと、その手の本が自宅には極端に少ないということがすぐ判明。ちょっとショックなレベルです。
どうも女性が主人公の小説は、主人公のタイプが自分と違うと楽しめないということが多く、どちらかというと避ける傾向にあったようです。
そのせいでしょうか、モテない男性が主人公の本ばかり本棚に集まってきています。
いくらなんでも一冊くらいは、と、めげずに背表紙の見えない奥の列をあさってみると、
ありました、ありました。素晴らしいのが一冊。
鈴木三重吉が童話作家になる前の小説で「桑の実」という作品です。(以下ネタバレ注意)
読んだ後、しばらくうっとりと、すこし切なく、でもほんのり優しい余韻に浸ることができるお話です。
この作品では、淡々とただ優しい日常が流れてゆきます。
主人公の「おくみ」は控えめで、気だてがよく、一般的にお嫁さんに欲しいタイプの女性と思われます。
彼女は「青木さん」という画家の家に、ほんの臨時で住み込みのお手伝いさんとして雇われます。
その平和な日常のなかで、彼とのいくつかの印象深いエピソードがあるわけですが、そのエピソードそのものも、優しい日常のひとこまに過ぎず、日だまりのような小さな幸せを感じさせてくれるだけなのです。
淡い恋の気配だけはあるものの、もちろん、ふたりにはなーんにも起こりません。当時は恋愛至上主義的な世の中ではなかったので身分が違うと対象外だったのかもしれません。
ところがもの足りない、とはちっとも思わせません。
むしろ、当たり前の日常を同じテンポで保つ作品の緊張感が、たまらなく素敵です。
わたしが愛してやまない古い時代の音楽の緩徐楽章のような日常は、代わりのお手伝いさんが見つかったことで、ある日終止符を打ちます。
主人である青木さんは、結構しつこく「僕はおくみさんが行っちゃうのはなんだか厭だね。」みたいなことを何度も言うのですが、だからといって妻になってくれ、というわけではないようです。
おくみにしても、寂しい気持ちはやまやまだけど、どうすることもできない身の上なわけで、じたばたすることもなく、淡々と最後の日を過ごすわけです。
そのままこのお話は静かに終わります。
そして桑の実の優しげな思い出だけが、読者にもほんのり残るのです。
良い思い出にしたいために、お互いが傷つかないように、時々ひとは自分を鈍感にしてしまうことがあります。
わたしはそんな無意識の選択を「自分への嘘」「意気地なし」などと切って捨てるようなことはしたくないです。
しあわせな瞬間をしあわせな記憶のままにしておきたいと願うのは、その瞬間を大切に思う気持ちが大きすぎるから。
大切だと思うほど、小さく控えめな恋になってしまうこともあって、それもまた、その人のほんとうの気持ちであり、願いだと思いたいのです。
大きくて派手な花が好きな人がいれば、道端の小さな花が好きな人もいるように、大恋愛よりもささやかで控えめで不器用な恋愛を美しく思う人もいるわけで、どちらの恋愛にも優劣はないのです。
「桑の実」は、誰でも心の奥の方にそっと持っている、恋ともいえないような、でもいつまでもきらめいている切なくて優しい想い出に、こっそりと寄り添ってくれる物語です。
夏のお話ですが、夏の思い出を辿るように夏の終わりから秋にかけて、涼しくなった風に吹かれながら読むのがぴったりの作品だと思います。
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