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気ままに生きてる話

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日常でふと考えたこととか、ちょっとした生き方めいた話とか。
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#毎日note

らしくいきましょ

 これは自分でもたいへん意外だったことなのだけれど……。  毎日更新、どういうわけか続いている。まだ十日とはいえ。  確か前回チャレンジを試みた時は四、五日で体調を崩してそのまま断念してしまったので、とりあえず続いているこの十日ちょっとは自分にとっては奇跡的とさえ言える。こんなに簡単に調子悪くなっちゃうんじゃあぜってえ無理だろうなとわりと心から思っていたのだ。それが、何故か、できてる。  ではそれはなんでかなあ、と考えたとき、記事作成に対する気の持ちようというか、やり方、心

お金の話

 昨日さ。●氏のこの記事を読んだんだよね。ちょうど自分の記事と更新時刻が近くって、すぐ下に出てたの。  なんていうか、カンドーして。心動かされたっていうか。  お金とか、それを出してくれた人にめいっぱい感謝したり、嬉しくなったりする、その気持ち。すごいなあって。この記事の内容は今の自分に必要なものだと感じたので、迷わず買っちゃった。  記事の中でも触れられているけど、たいていの娯楽は無料で提供されたり、違法で出回っている世の中であるわけで、欲しいモノ、好きなものに『お金を払

限界の向こうは無限大

 去年の今頃……よりはちょっと前になるかな。不可思議短編集の発刊に向けた準備をしはじめる、少し前のことだけど。  それまでのだいたい10年くらいの期間、創作をほぼ完全にひとりでやり続けていたんだよね。特に誰かに直接的なアドバイスを求めることもなければ身近な人に読んでもらおうともせず、そこそこの勉強や読書で得たであろう知識や技術だけを頼りに賞に応募して、音沙汰もなく落選して、という繰り返し。web媒体だからといって読者もつかず、プロフェッショナルを目指すならコミュニケーション

ありがとうのありがたみ

 これもまた少し昔の話になるけれど、以前は何かにつけ感謝感謝と連呼されるのがちょっとばかり苦手だった。そんな毎回毎回お礼や感謝の言葉が必要なのかナァ、なんて思ってて。  結論から述べると、毎回毎回、間違いなく要る。どんなに小さなことでも、ちょっとしたアイサツ代わりみたいになっても、絶対要る。いまこれを読んでくださってる方々は『そんなの当然だよ!』と思われるかもしれないけど。  考えてみれば、ただただ生意気だったんだろう。連発するとありがたみ薄れそうじゃん? とか。  実際

言葉のちから

 世界が新型ウイルスの脅威にさらされはじめてから、もう半年くらいが過ぎてしまった。いまだに終息の気配は見えずに第二波が懸念されるばかりで、たまにテレビを見れば連日同じような報道が繰り返されている。思えば今年は花粉や黄砂の飛散予想などはほとんど聞かれなかった、ような気がする。  多くネガティブな影響が出ている中、なんとか深刻な事態を免れている……とは言っても、どこへ行くにもマスクが必要で、他の人との距離をできるだけ常に保ちながら、それでも県外ナンバーをほんの少しだけ警戒する日

つながれどこまでも

 ときおり、じぶんの役割、のようなものを考えることがある。  職業や肩書で何者であるかを定義付けするのとはまた違った感覚で、むしろもっとぼんやりと、なんとなく、ほのかに、けれどもそれなりに長いこと『わたしはたぶん、これができる、すべきであろう』と感じる、そんな役割。  それが『何かと何かを結びつける』こと――のような、気がしている。それまで他人だった誰かと誰かや、無関心だったモノとヒトなど、お互いがお互いの存在に気付くきっかけを用意する、といえばいくらか伝わるだろうか。  

生きるとか死ぬとか

 少し昔の話をすると、誰しもそれなりに抱えるであろう『死にたい衝動』というやつが、私にもあった。  で、今ではそこまでネガティブな感情を持ち続けることはなくなったのだけど、ここ最近のように雨ばかりでリアルに暗雲立ち込める日々が続いたり、なかなか疲れが抜けない日々が続いたりするとふと『生きるのめんどくせー』とか思うときはままある。  他にも先行きの不安とかギャップがどうとか、普段ならとりあえず放っとくような月並みな問題が頭をもたげてくるのだけど。  過去というやつについて考え

言葉について考える

 ある人は自らが発する言葉を自分自身であると語り、またある人は言葉は液体だと語った。なるほど己が内から言葉が生じたときその言葉は紛れもなく自己そのものの一部または全体を示すものであろうし、人によって解釈が、また時代とともに言葉自体が様々に変化・変容するとか、善意であれ悪意であれ時おりそれが『沁みる』などといったところを捉えると、確かに液体と呼ぶこともできよう。  言葉、というものについて考えたとき、そういえば私は(自分にとっての)『言葉』というものについて、明確な答えをいま

いつか見た夢の話

 あの夢を見たのはいつのことだったろうか。十年とまではいわないが、六年か、七年か……だいたい、そのくらい前の話になるかと思う。  ある日、夢の中で自分の姿を見た。その夢の中での私は書斎と思しき部屋でデスクに向かい、眼鏡をかけて白いノートパソコンを使っていたのだ。この夢が、とても強く印象に残った。他の雑多な夢はすぐ忘れてしまうのに、なぜこの夢ばかり印象に残ったのか。それは、夢の中で見た自分の状況と、その頃の現実の自分の状況とが、まるで違っていたからだ。  まずその頃の私は27イ

コンプレックスは武器になるか

 基本的には自分大好きでそれほど隣の芝の青さを気にしない方だと思うのだけど、それでもやっぱりあこがれというか、羨望のまなざしを向けてしまうものはある。ここ最近でもっともわかりやすく、もっとも目につきやすいのはTwitterや、ここnoteのフォロワー数だ。  フォロー数に対してフォロワー数が非常に多い人。芸能人著名人でなくても、クリエイターの中にそういった方は一定数いて、そういう風になりたいなあ、などと、何となしに思ってしまう。創作なり発信なり、精力的に活動してきた結果そう

つくってあそぶぞ

 最初にきっぱりはっきり言っておくと、つくるのは楽しい。 『つくる』とひと口に言っても、何をどのようにして作るかは人それぞれだ。音楽、イラスト、服、ハンドメイドの小物雑貨に、ここnoteなら文章で物語や詩、随筆なんかをつくっている人が多いかもしれない。  じゃあ、『つくる』という行為がなぜたのしいのか――『つくる』ことをきっかけに、それまでにない経験が増えていき、新しい仲間ができ、新しい世界がどんどん広がっていくから――というのはまあ、間違いではないにしろ『そうなったらも

『いつか』

 夢を見ている。  やりたいこと、なりたいもの、手に入れてみたいもの、創りあげたいもの。そのうちのいくつかは、本当に叶ってもいる。けれど。  夢や理想を思い描いて進むとき、ついつい『いつかきっと叶える』『いつか必ず』と、漠然とした『いつか』へと、ひた向きにがんばってしまうことがあったような……気がしている。それ自体が悪いことではない、けれど。  じゃあ『いつか』ってのは『いつ』だ。  何だかそんなようなセリフを、『南国少年パプワくん』の中で見た覚えがある。その時……普通にマ

のんびりと信じていよう

 夢を見ている。ただ、現実も同時に見ている。  わりと幼いころから、叶えたいこと、いわゆる『願い事』があるときには、それを紙に書いて分かりやすくしたり、自分ではない何者か、神や仏などに強く祈ってみたり、大きく声に出してみたり、ということをやってきたような気がする。たとえば七夕の時に書く短冊など。  それらが特別悪いということでなく、目標設定、決意表明、あるいはそういう目標をついつい忘れがちになってしまう自分への戒め、などには非常に効果的だと思う。しかし、あんまりしょっちゅう

作品中での生死観

 現実に生きる分には死に急ぐことはないと思っているし、基本的には『人生ってスバラシイ』ということにして、少々強引にでも生命活動を礼賛するスタンスでいる。現実で死んでしまえばとりあえずそこまで、よほどの偉人か変人、あるいはろくでなしでなければ、後には何も残らない。  が、感情的な部分を抜きにして事象だけをとらえたとき、選択の自由が本人にある限りは、生と死とは等価値ではないか、とおぼろげに考えている。生き(続け)るも死ぬも未知の体験ということに変わりはないし、死にたくないから生