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言葉について考える

 ある人は自らが発する言葉を自分自身であると語り、またある人は言葉は液体だと語った。なるほど己が内から言葉が生じたときその言葉は紛れもなく自己そのものの一部または全体を示すものであろうし、人によって解釈が、また時代とともに言葉自体が様々に変化・変容するとか、善意であれ悪意であれ時おりそれが『沁みる』などといったところを捉えると、確かに液体と呼ぶこともできよう。

 言葉、というものについて考えたとき、そういえば私は(自分にとっての)『言葉』というものについて、明確な答えをいまだ持っていないことに気付いた。私はノベリストであるから、こうした率直な言葉ばかりでなく明確にフィクションとわかる物語の中にも思想や主張はちりばめられているし、物語を意図した方向に導くために、場面によってはある程度同じ解釈・想像・理解をしてもらったほうがいい場合もある。

 作品を、物語を、あるいはこうして記事を書くのは何故か。それは自分よりやや外側の部分に、読み手の存在を求めているからだ。自分から生まれたものが結局自分の中から出ていかずに完結してしまうと、そこに新たな刺激や発見はほぼない。未来の自分のために書いている、などと勘違いしていた時期もあったが、もし本当にそうだったなら日記帳かローカルファイルで充分に事足りたことだろう。こういった、多くの人の目に触れる場所に言葉を書き残すのは、やはり自分以外の誰か――読者を意識しているからに他ならない。

 ある程度同じ解釈を必要とする場合もある、とは言ったもののそれは物語の展開等に由来するもので、基本的には書かれた言葉をどのように解釈するかは読み手の自由だ。書き手の想定以上の想像が膨らんだり、意外な部分に意外な感想を持たれたりといった、感性の広がり――のようなものが発生していくのは、とても素晴らしいことと思う。時にはうがった見方をされる場合もあろうが、特定の個人や団体などに対して明らかな悪意を向けるのでなければ、それもまた自由だ。

 解釈や、扱い――大切に思うとか思わないとか、が読み手に委ねられているという点では、言葉は発する側から受け取る側に対しての『贈り物』であるといえるのではないか。また別の誰かが言っていたように、言葉というものが神様から人間へのギフトだとして、その力をより丁寧に、繊細に扱うのに『心』をこめたり『気』を遣ったりするのは、神ではなく人間の業ではないか。

 ――そう考えたとき、私にとっての言葉とは、ギフト。
 言葉を発した誰かから私への、あるいは私から言葉を受け取る誰かへの。
 時にささやかで、時に絢爛な『贈り物』であると、定義しておきたい。

……念のために言及しておくと、言葉が贈り物で扱いが読み手に委ねられているからといって、ある文章を無断でそこかしこに転載したり、自分のものと偽って使用していいということではない。一応。

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