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「関心領域」が広い人と狭い人は、何が違うのか。

最近、関心領域という映画を観てきました。

1945年、アウシュビッツ収容所の所長とその家族は、幸せに暮らしています。スクリーンに映し出されるのは、どこにでもある穏やかな日常。でも、その家族が暮らしているのは壁ひとつ隔てたアウシュビッツ収容所の隣です。

ふとした瞬間を切り取ると、幸せな暮らし。しかし違う瞬間を切り取ると、人が虐げられ、虐殺されている。壁を隔てたふたつの世界が、映画では映し出されます。

今回のnoteは、この映画を観て生まれた「関心領域が自分の世界に留まっている人と、関心領域を自分の世界だけでなく、外にも広げている人の違いは何なのか」という問いについて深めていこうと思います。

※ここからは映画の内容に触れます。


日常でも起きている構造


私は、この映画を観た時に、アウシュビッツ収容所の中にいる人たち(ユダヤ人)に関心を持っている人たちと、関心を持っていない人たちに分かれているなと思いました。

そして日常でも、この構造が起こっているように見えました。

例えば、同じ職場で、しばらく休職する人が出てきた時。「仕事が増えて大変だな。」と私に関心を向けるのか、「何があったんだろう。大丈夫かな。」と休職した人に関心を向けるのか。

例えば、公衆トイレを使った際に掃除しているスタッフの方がいた時。特に何も思わず通り過ぎるのか、「この人が掃除しているんだな。」とスタッフに関心を向けるのか。

これはあくまで日常の一例ですが、日常で、このような構造がたくさん起きているのだと思います。

関心領域が広い人の特徴とは?


特定の環境において、自分の周りに起きていることに関心を向けることができる人=関心領域が広い人にはどんな特徴があるのか。考えてみました。

同様の背景、経験を持っていること


まず一つ目は、自分自身が同様の背景、経験を持っていること。例えば、休職の例だと、自分が休職した経験があると、自分の経験に照らし合わせてその人のことを気にかけることに繋がります。つまり、多様な経験をしていればしているほど、関心領域が広がるのかもしれません。

映画では、家の雑用係(奴隷)としてでてきた、ユダヤ人の女性が当てはまるかと思います。同様の背景を持つ人、経験を持つ人は、平穏な家の外で行われていることに強い関心を持ち、コミットしていました。具体的には、夜に家から抜け出して、アウシュビッツ収容所の中に入り、労働者のために食糧を撒いていました。自分のできることは何かをを考え、行動していました。

好奇心を持っていること


二つ目は、好奇心を持っていること。「これは何なんだろう?」「なぜこのことが起こるんだろう?」目の前の出来事に対して、好奇心を持って見ていると自ずと関わろうとする行動が増えます。それは、他者への思いやりや想像力と必ずしも結びつくものではない可能性もありますが、関わろうとするという姿勢は関心領域が広がっているとも言えるのではないかと思います。

映画では、アウシュビッツ収容所の所長と妻の子どもたちが当てはまるかと思います。子どもたちは、アウシュビッツ収容所の中で何が起きているのか、その意味はわからなくても、起きていることに関心を向け、大人たちの行動をよく見て、真似をしていました。具体的には弟を虐げる遊びを始めたり、そこら辺に落ちている人の歯を拾って遊んだり。(アウシュビッツ収容所で殺されたユダヤ人の歯)好奇心は時に残酷ですが、「関心がある」ということなのだと思いました。

よそから来た人


三つ目は、その環境が当たり前になっていない、よそから来た人。自分がこれまでいた環境とは別の環境に置かれた時に、感じる違和感を見逃さない可能性があります。友達の家にいったり、海外に行ったりしたときに、そこの住人が当たり前にやっている習慣に気が付くことにも同じようなことが言えると思います。

映画では、家族の元に引っ越してきたおばあちゃんが当てはまるかと思います。家族からすればこんなに素晴らしい環境に引っ越してきて喜ぶだろうと思っていました。しかし、おばあちゃんからするとそこにある環境のひとつひとつが当たり前ではないので、周りで起きていることに関心をもち、違和感を感じ、結果、その場所から離れてしまいます。

家の窓から見える、アウシュビッツ収容所から出ている煙は何なのか。家の庭の外から定期的に聞こえる怒声は何のか。

おばあちゃんは、そのようなことに関心を抱いて、心に問いかけていた気がします。

自分自身も、関心領域を広げられているのか?

映画を観終わった後の私の感情は「恐い」という感情でした。それはなぜかというと、自分自身も、側から見れば幸せそうな家族と同じような行動を取っていないだろうか、と思ったからです。他人事だと全く思えなかったんですね。

自分に余裕がない時、忙しい時、いっぱいいっぱいな時こそ、関心領域は「自分」へと狭まっていくと思っています。

自分の周りにいる他者、そして環境は、どのような変化が起きているのか気づいているのに見ようとしなくなり、シャットダウンすることだってできます。そしてそれが、慣れとなり、当たり前となる。

そうなると、何が起こるのでしょうか。人の痛みにも、弱さにも、小さな声にも気づかず、「自分」が踊っている舞台しか見ず、その周りの多くの人や環境の「何か」が失われていってしまうかもしれません。

失われていったその先には、もう二度と取り戻せない世界が広がっている。そんな気がするんです。

この映画を観て、改めて自分だけではなく、外の世界へと関心領域を広げていくこと。自分しか知らない、自分だけが心地の良い世界だけに留まることは、危険だと感じました。

だからこそ、私はきっと、定期的に旅(=自分の知らない世界)に出るのだと思います。

自分の関心領域を、広げるために。


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