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<閑話休題・哲学>リチャード・ローティ、そして近代科学とジョルダーノ・ブルーノ

標題の画像は、ロンドンナショナルギャラリーに展示のデジデリウス・エラスムス(15世紀の著名な人文学者=ユマニスト)のハンス・ホルバイン作の肖像。


1.リチャード・ローティ

 NHKの「100分で名著」でリチャード・ローティというのをやっていて、「ドナルド・トランプ大統領の出現を予言した哲学者」、「伝統的な西洋哲学を葬り去った」、「理性をもつ存在こそ人間という哲学の基礎付け主義が、現代の虐殺やヘイトスピーチにつながっているという指摘」というキャッチフレーズ(宣伝文句)で、番組紹介をしていた。

 このかなり刺激的かつ哲学を愛する者に対する攻撃的なキャッチフレーズに反応して、私も意見を書かせてもらう。もちろん原典を熟読しない以前に番組だけで判断することが不十分なものになることは承知しているが、TV視聴者のうちの大半は原典を熟読せずに、番組で紹介された内容だけでローティの哲学を理解・判断するのが自然であるため、私もその「原典を読まない一視聴者」という観点から意見を言わせもらうことにする。

 まず、簡単に言えば、ローティの「反哲学」というあり方は、既存の伝統的西洋哲学全般を意味がないものとして短絡的に無視していることに、どこか危うさを感じてしまう。つまり、既存の伝統的西洋哲学は「真理というありもしないものの探求をしていた」とか「理性をもつのが人間という不適当なイメージを作り上げた」としているが、果たしてそうした見方そのものが、正鵠を得たものなのだろうか。

 またローティが、既存の伝統的西洋哲学を批判するのであれば、その前提として自らの哲学に対する批判を措定してからでなければ、いわゆる「手前みそ」・「一方的な見方」ということに陥ってしまうのではないかと思う。(もちろん、伝統的西洋哲学に入らない東洋の伝統的哲学や宗教は視野に入っていないから、これだけでも「哲学」という名称を使うことの不十分さがある。)

 そうしたローティの「一方的な見方」を、あたかも既存の「真理」に代わる「新たな真理」・「絶対的な真理」であるかのように喧伝することは、いわゆる流行とかファッションとかポピュリズムとか、もっといえばファシズムにも通じる大衆先導の危うさにもつながる、軽々な言葉使いではないかと思う。実際、近代の歴史ではマルクス思想が、そうした軽々な言葉使いによるポピュリズムの悪しき前例である。(私が理解している)マルクス思想は、前提として人類社会が確実に進化・進歩するものであると措定しているが、これは当時の科学万能主義を背景に決めつけたものである。また、そうした盲目的な前提を踏まえて、労働者が社会を平等に支配することでユートピアが出現すると「予言」した。

 しかし、マルクス思想とは第一に経済理論であり、そのまま実社会に適用できる政治理論ではなかったが、その後(エンゲルスなどによって)その経済理論が政治理論にすり替わってしまい、マルクス主義=共産主義・社会主義になることが、人類進化の必然でありまた人類の幸福につながる素晴らしい政治思想であると喧伝かつ曲解されてしまった(ニコライ・ベルジャーエフ『歴史の意味』で的確に指摘されている)。

 それを自らの政治活動に利用した一部の指導者たちは、いたずらに多くの人命が奪われる革命(戦争)とこれに関連する圧政と虐殺行為を行い、自分たち一部の人間の独裁による民衆の強権的支配につなげたことは、これまでの歴史が証明している。つまり、マルクス思想で人類は幸福になったのではなく、逆に不幸しかも最悪の不幸に陥っているのが現状なのだ。こうしたこれまでの歴史の教訓を鑑みれば、特定の新しく見える思想に対して短絡的に「この思想が素晴らしい」と飛びつくことは、危険性が非常に大きいものであることを十分理解しなければならないと思う。

 このような用心深さを踏まえたうえで、TVで紹介されたローティの思想を考えると、ローティが敵対視した「哲学」と見なしているものは、実は歴史的な本来の「哲学」でなく社会科学や政治思想というのが適切であり、それを「哲学」と一方的に称することで、「ローティの哲学」の敵にしているのではないかと思うのだ。つまり、ローティの思想は「哲学」ではなく、社会科学及び政治思想とするのが正しい理解ではないだろうか。そのため、ローティの主張する「反哲学」という概念は、「反社会科学」・「反政治思想」とするのが適切だと考える。

 私は、哲学とは社会科学や政治思想ではなく、心理学や精神分析学に近い分野の学問だと理解しているのだが、一般的に「100分で名著」では、哲学をそのまま社会科学や政治思想という意味で使用しすぎているように思う(おそらくその背景には、心理学や精神分析学の切り口で紹介した場合は、内容がかなり難解になり視聴者がついていけないため、より身近な社会科学や政治思想の観点に限定することで、哲学的教養のない視聴者を対象にできているのかも知れない)。

 それは、例えばヘーゲルの扱いでもそうだったが、『精神現象学』という代表的な著作を、その書名からそのまま理解すれば「精神についての現象学」としか理解できないものを、現代の社会科学や政治思想につながる理論として無理矢理に理解したうえで、それが現代社会の政治などに有効とか無効とか判断しつつ紹介していた。しかしこれでは、ヘーゲル思想の紹介としては、まったく不十分であると言われても仕方ないだろう(もちろん、100分という時間でヘーゲル思想を紹介すること自体が無謀かつ不可能なことではある)。

 また、たしかにヘーゲル思想には、社会科学や政治思想に利用できる部分があるとしても、その場合はヘーゲル思想そのものではなく、社会科学や政治思想に援用できる部分だけを切り取って使っているだけであることを、きちんと明示すべきではないか。ヘーゲルは、(援用されることが想定内であったとしても)社会科学や政治思想のために自らの哲学を作り上げたのではないし、その目的は「真理」という究極のものを知ることであり、そのための絶え間ない思索という大きな努力を費やした結晶である。そして、そのヘーゲルが生涯をかけて目指した「真理」について、我々が簡単に知ることができると思ったらそれは大きな間違いだ。(当然、知ることができないものを全否定することは論理矛盾である。)

 また、ここで「真理」という言葉を私は使っているが、実はローティが想定した「真理」も、ヘーゲルが想定した「真理」も、「100分で名著」が想定した「真理」も、私が使用している「真理」も、いずれも微妙に意味が違ってずれていることを自覚しなければならない。同じ意味で使用しているつもりでも、言葉は使う人や文脈によって違ってくるのが当然だ。それをあたかも絶対的な唯一の意味であるかのような言葉として使うことは、上述した短絡的な思索にしか過ぎない。こうした視点は、(ローティが批判する伝統的西洋哲学の大家である)フッサールの行った厳しい「反省」の哲学の重要な要素であり、これを踏まえることで20世紀初頭に現象学という新たな哲学が誕生し、また現象学的還元という思索行為が広く認識されるに至っている。

 さらに、ローティにおける「反哲学」というキャッチフレーズは、哲学の重要な部分である心理学とか精神分析学などに対してのものではなく、社会科学及び政治思想という概念を「哲学」という言葉にすり替え、そうした概念の対象に対してのみ「反哲学」、「伝統的な哲学を葬り去った」と一方的に称賛しているようにしか見えない。そしてそうした言葉のすり替えは、フッサールのような「反省」という自己点検の行為がないからこそ、それができるのだ。

 もしもローティが「反省」を十分に行っているのであれば、「伝統的な西洋哲学」などというひとくくりの言葉にまとめることは、そもそも不可能であることを理解しただろう。また、そうしたものを「哲学」として「葬り去る」ことは、まずその「哲学」という対象の膨大さを承知しているのであれば、その全てを把握するということ自体が不可能であることとに気づくだろうし、その結果自ずと「哲学を葬り去る」という言葉は滑稽なものであることがわかるはずだ。

 人類の長大な歴史における、ギリシア哲学から20世紀のウィトゲンシュタインなどへ至る西洋哲学の豊潤な水脈は、単純な社会科学や政治思想という概念ではくくれないほど、その範囲はとても広く、その思想は想像できないほどに深い。当然、これまでの西洋哲学の全てを文字通りに「完全に理解した」学者は地球上に一人も存在しておらず、例えばソクラテス・プラトン・アリストテレスからはじまり、デカルト・カント・ニーチェ・ハイデッカーなどの偉大な哲学者の思想は、未だに様々な研究者が多様な読み取りによる試論を発表しているのが現状だ。そして、そうした試論の最終バージョンが出てくることはないだろう。それほどに、言葉と思想の関係は、他者からの安易な理解を受け付けない難解なものである。

 伝統的西洋哲学の全てを知ることとは、単純にこれら哲学者たちの著作全てを読みこなしたとか、そんなコンピューターにデータ化すればできることを意味しているのではない。これらの哲学者たちは、独自の言葉遣いをしており、そうした独自の言葉使いを、我々が一般的に使っている言葉に「翻訳」することは相当に難しい。さらにそうした独自の「言葉」によって独自の思想体系を構築しているのであるから、例えば「こう考えていると理解できる」、「こういう意味ではないか」という試論を述べることはできても、「こういう意味以外にはない」と決定的な読み取りをすることはそもそも不可能でしかないのだ。

 従って、ローティ思想が「伝統的な哲学」の全てについて反対意見を述べる以前に、伝統的哲学の全てを完全に理解している者がいないのであるから、それを葬り去る者も存在できないという論理矛盾に陥ることになる。前述したように、紀元前から続く哲学の広大な歴史と様々な思想は、とても一言でくくれるほど生易しいものではない。それは、一人の研究者によって研究尽くすことすらできないほどの、不可能な高峰である。それを、「登頂した」といった瞬間に、その人は嘘つきだと言われても仕方ないだろう。

 なお、ローティが「伝統的な哲学」に代わる新たな「哲学」として提起している人と人とのコミュニケーションや言葉の問題については、ローティが取り上げる70年も前に、既に「伝統的な哲学者である」ヴィトゲンシュタインがテーマにしており、それらの解釈・研究については、現在進行形で進んでいることを申し添えたい。また、ヴィトゲンシュタインの哲学は、それこそ伝統的な哲学を根本的に変える要素を含むものだと思うが、だからといって「葬り去る」ことを目的にしていない。それは、むしろ伝統的な西洋哲学につながるものであり、その真摯かつ困難な思索は、そのまま壮大な人類の歴史と言い換えることもできる思想の正統な在り方だと思う。

2.ジョルダーノ・ブルーノ

 ジョルダーノ・ブルーノという、ルネサンス期にコペルニクスの地動説を支持したことで異端審問にかけられて火刑になった学者がいる。火刑になることもいとわずに地動説を支持したため、彼は近代科学思想の先駆けになったと一般的に称賛されている。しかしその実態は、近代科学思想とはまったく無関係に、コペルニクスの地動説を支持したのではないかと、最新の研究で確認されている。

 つまり、アリストテレスからスコラ哲学へ至るカソリックの中世というヨーロッパ表層の思想史(天動説)がある一方、その深層では古代エジプト発祥のヘルメストリメギストス(ヘルメース)思想という、現代では魔術と同一視される思想(天界=宇宙と人を結びつける地動説に近い考え方)が力強く生き続けていた。それは、ユダヤのカバラ思想等を経て、古代思想の再評価(復活)の契機となったルネサンス期という表層へ出るチャンスを得ることで、思想の表舞台に再び浮かび上がってきたのだった。

 コペルニクスとブルーノは、この古代からのヘルメストリメギストス思想から発想される地動説を学び直すことで、自らの地動説を確立することができた。それは、近代科学思想につながる科学的な思考をした結果ではなく、反カソリックとなる古代思想から浮上してきた考え方であった。それはまた、「世界の全ては、科学によって解明できる」という単純な近代的科学思想から、地動説が「発見」されたという既存の歴史観を否定するものである。

 人類は、何もないところから科学思想を思いつき、さらに科学思想だけによって地動説に辿りついたのではない。実は古代エジプトから延々と続いた、またそうした故に人が容易に理解しやすいものであったヘルメストリメギストス思想から導き出された、マクロコスモス(天=宇宙)とミクロコスモス(人体=地上)という宇宙と人との関係を基礎として、実際の宇宙(惑星や星)の観察結果を研究したところから、地動説という概念が再確認されたのだ。

 ところが、こうした事実はヘルメストリメギストス思想を否定する学者らによって無視された(理解されなかった)一方、19世紀末からの単純な機械信仰を前提にした科学万能思想が、マスメディアによって大衆に喧伝される流れが作られる環境において、コペルニクスとブルーノは、本来持っていたヘルメストリメギストス的魔術的性格を隠匿され、近代科学思想の先駆けという存在に勝手に祭り上げられてしまったのが、哀しい現状である。

 しかし、そうした歴史の事実と異なる矛盾は、必ず反動が生じてくる上に、真相を求める流れが力強く表層に浮上してくることを、人類の歴史が証明している。それは、例えば、ルドルフ・シュタイナーの神智学であり、科学というよりも哲学に近い思想を述べたアルベルト・アインシュタインの相対性理論というものに、実例を見ることができるだろう。

 また、芸術の分野を俯瞰すれば、科学的なリアリズム(写実)追及ではなく、魔術的志向を強めたシュールレアリズムなどの運動が、人間の持っている本能的欲求からの科学万能主義に対するアンチテーゼとして出現したのだと見なせる。

 つまり、この歴史的事実からは、人間や人間社会を、単純に社会科学や政治思想のみで理解しようとすることには厳然とした限界があるばかりか、それは所詮一面的な見方でしかないことを証明するための、芸術の世界(つまり、人間であることの根源的な力)からの強固な異議申し立てであったと言い換えることができるだろう。

 ところで、ローティが「哲学」に代わって人類が必要とする思想概念として主張する、「語り」・「ボキャブラリー」という言語概念自体についても、一面的な用語の使い方だと指摘できるだろう。周知のとおり、我々の世界を構成する社会や民族が異なるように、世界の言語は異なっているため、例え翻訳という機能を使用したとしても、言語を一様に扱うことには困難がある。

 また、例えば日本語による意思疎通などの、同じ言語を使用している場合においても、個々人の経験や学習、さらに言語に持たせる個別のイメージによって、実は同じ言葉でありながら、その意味は遠くかけ離れている場合が多いことを認識しなければならない。例えば、Aさんが「犬」と言ってイメージするものと、Bさんが「犬」と聞いてイメージするものは、絶対に同じものではありえないことで、これは良くわかると思う。

 そして、「犬」という具体的な言葉であれば、まだしも話す者と聞く者とのイメージの差異は少ないが、それが「文化」・「政治」・「自由」・「幸福」などの抽象概念に至った場合は、それらの個人間の差異は非常に大きいものになってしまい、極端な事例では正反対の理解(イメージ)になる場合もあり得る危険性を孕んでいる。これは人類にとって、コミュニケーションに関する根本的かつ解決不能な永遠の課題であり、また古代から多くの真の哲学者たち(つまりローティが「伝統的西洋哲学」と否定した対象そのもの)が、苦労して追い求めてきた、人類にとって根源的なテーゼである。もちろん、ここで言うところのテーゼは、純粋に哲学的なテーゼであり、社会科学や政治思想におけるテーゼではまったくないことを改めて強調したい。

 従って、少なくとも私の理解している限りでの真の哲学者は、トランプ大統領出現等の政治現象を予言することはしない。こうしたことを予言=予想の対象としているのは、哲学者ではない社会科学者・政治思想家である。それゆえに、彼らは哲学者とみなせないと私は断言したい。なぜなら、哲学が求める「真理」のひとつである、思想と言語そして人と人の間のコミュニケーションの不可能さを、彼らは意図的に無視している上に、そもそも研究対象にしていないのだから。

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