大人になりたいと願った時こそ、子どもらしさを手放したくない:映画『ビッグ』
おとなになりたい。
子ども時代、子どもならば、一度はそう願ったことがあるだろう。
小学5年生当時、私のクラス担任は、今で言えばコンプライアンス違反も甚だしい問題教師だったのだが、その教師主導で、阪田寛夫の「おとなマーチ」という詩(大中恩作曲とあるので、歌もあるらしい)を群読したことがある。
なりたい なりたい
なりたい なりたい
おとなになりたい たい
おとなになったら コーヒーをのんじゃう
ガッポ ガッポ のんじゃう
ぎゅうにゅうなんか いれないでさ ぎゅうにゅうなんか
さとうはボカボカ さとうは ぶっこんでさ ぶっこんで
ひとくちのんだら かためをつぶり
きょうのはすこし にがみがたりないね たりないね
おばさん
「コーヒーをのんじゃう」の箇所だけ、何故か「コーヒーをのおおおーーーーーーんじゃあーーーーーーーーう」という、謎の抑揚とロングトーンを付けろと、同級のK君が指示され、何度も何度もクラス全員の前でやり直しさせられていた。あれは立派ないじめであると思う。
詩の内容に戻ろう。
子どもからしてみたら、大人のイメージなんてこんなものだ。コーヒーさえ飲めれば、立派な大人になれるらしいのだ。ちなみに、かく言う私(28歳)は、砂糖やミルクを投入してもコーヒーが飲めない一人である。
年齢的には大人になってしまった私からしたら、子どもに戻って自由を謳歌したいくらいだが、それでも、子どもは子ども故の窮屈さを感じて大人に憧れる。そうして、調子に乗ってコーヒーを飲んでは、べええええーーっとするのである。
さて、大人になりたいと願ったら本当に大人になってしまった少年がいる。映画『ビッグ』の主人公、ジョッシュだ。
ジョッシュは、散らかり放題の部屋で毎日母親に叱られ、年上の可愛い女の子を指をくわえて眺めながら、同い年の友達と毎日馬鹿やって、という、どこにでもありふれた12歳の普通の男の子。
好きなあの子に良いところを見せようとジェットコースターに乗ろうとするが、身長制限で乗れず。おまけに、彼女は車持ちの男連れ。あっさり玉砕。あえなく失恋。
ああああもううううう!なんで僕はまだ子どもなんだ!!早くおとなになりてええ!!!
大人になりたくて仕方ないジョッシュは、遊園地の怪しげな機械に「僕を大きくして」と願掛け。そうすると、あれれれ、翌朝目が覚めるとビッグに、大人になっていた、というストーリー。
「見た目は子ども、頭脳は大人」なのは名探偵コナンですが、これはその逆パターン。「見た目は大人、頭脳は子ども」の男が仕上がってしまったのです。
子ども以上に生き生きとしたトム・ハンクス、32歳
大人になってしまったジョッシュを演じるのは、名優トム・ハンクス。
こうした、子どもが大人に、大人が子どもに変異系や他者との入れ替わり系はよく見られる設定ですが、これらの醍醐味がどこにあるかと言えば、役者のコミカル且つ達者な演技を見るところにあるだろう。
大の大人のトム・ハンクス(公開当時32歳)が、その中身は12歳の子どもとして、はちきれんばかりの勢いで、ありったけのエネルギーで立ち回る。いつだって眼がマジだし、終いには「一人じゃ寝られないよ…」とめそめそ泣く始末。くるくるコロコロ変わる表情が実に魅力的だ。
その、大人なのに子ども、というギャップが小気味良く、彼が思いっきり身体と心を動かす様を見ていると、こちらまで爽快な気分になってしまう。
演じていても、めっっっっちゃくちゃ気持ち良いだろうなあ。こういう振り切れた役って、一度やってみたいわあ(悪役でも良し)。
大人になりたい。いや、むしろ子どもでいたい
大人への階段をちっとも昇れていない人間も一定数いる現代社会だけれど、ジョッシュはひとっ飛び、いや20年分飛び越えて大人になってしまう(そう言えば、ドラマ『35歳の少女』では、目が覚めたら10歳から35歳になっていたな)。
一つ一つ歳を重ね、一段一段階段を昇ってこそ大人になれる。一人で寝られない様な子どもが、明日いきなり大人になんかなれるはずがない。ないのだけれど、30代のジョッシュ、意外と何とかなってしまう。意外と何でも受け容れられてしまう。
もしかしたら、変に知恵が付いた19歳の未成年が35歳になった方が右往左往するかもしれない。だが、ジョッシュはまだ12歳のあどけない少年。子どもならではの順応性と柔軟性と好奇心で、大人ライフをのびのびと満喫し始める。
そんなこんなで(詳しくは本編をご覧あれ)、大人のふりをしておもちゃメーカーに就職を果たす。そしてその後、商品開発部副社長にまでスピード昇進(戸籍の問題などに突っ込みを入れるのは無粋というもの)。
もちろん何の経歴も実績もスキルも無いジョッシュが、どうして会社で評価されたのか。それはやはり、彼の持つ、子どもならではの感性と発想とにある。
というのも、店頭でおもちゃ遊びに興じるジョッシュを社長(ロバート・ロッジア)が見掛け、それで、アイデアの豊富さ斬新さという能力と仕事に対する情熱とを見込まれたというわけ(ジョッシュが市場調査のために店舗を訪れたと、勝手に勘違い)。
この、おもちゃ屋さんでのシーンで、大人のジョッシュと社長とが織り成す上質な場面がある。
ピアノの鍵盤を模したピアノマットというおもちゃ(足で踏むことで音が出る。ダンスダンスレボリューションの先駆け的な)に興じ、2人で連弾を奏でる、愉快なシーンだ。
30過ぎのおっさんと、60過ぎのおじいちゃんが子どものおもちゃで堂々と遊んでいるのだから、冷静に考えれば引いてしまう光景かもしれない。
だが、2人はその時間を通じてしっかりと心を通わせ合っているし、周囲で見守る大人も子どもも、いつしか時を忘れて2人を見守っている。そこには「うきうき」という言葉が幾つも浮かんでいるかの様で、人々の間には一体感すら生まれてしまっている。
子どもが大人に、大人が子どもに、というストーリーは随分使い古された設定だが、ジョッシュは、大人になったからと言って大人らしく振舞おうとはしない。もちろん、大人になったからには社会人の義務として労働に勤しむわけだけれど、環境が変わったところでそう簡単に人は変わらない。
彼は、温かで柔らかな多くの人々の手を借りながら、子どもとして、子どものまま、大人を生きてしまうのである。
そんな、見た目は大人の彼の、子どものままの純真さに人々は心奪われ、心ときめかせ、心弾ませる。
子どものままの大人がいたって良い。子どもの感性や発想が、時に予想もつかない大きなものを生み出す。子どもにも勝る程の「わくわく」や「ドキドキ」を日々感じる人間が増えれば、世界は明るく豊かになるかもしれない。
そして、この場面のミソは、社長もまた高揚感に満ち溢れてゲームに臨んでしまう点にある。
大人になってしまった私達は、「大人として、いち社会人としてどう立ち振る舞うか」「立派な大人の生き方」ということばかり追い求めてしまうが、たまには童心に立ち返る時間も必要。だって、こんなにも生き生きと、溌剌としているではないか。
大人の女性がパートナーに求めるものは、子どもっぽさかもしれない
そんなジョッシュ、大人になったのだもの、ちゃっかり大人の恋まで経験してしまいます。
お相手の女性は、会社の同僚であるスーザン(エリザベス・パーキンス)。ブロンドの美人で、ザ・綺麗系のキャリアウーマン(雰囲気としては秘書っぽい)。ジョッシュからアプローチするのではなく、彼女からぐいぐい来る来る。自信に溢れた、余裕に満ちた故の美しさを纏った様な、魅力的な女性。
そんな彼女が、ビジネスの場面では、その艶やかな髪を綺麗にまとめ上げ、ヒールでカツカツ歩く彼女が、ジョッシュの前では柔らかな素顔を見せる(お家でのトレーナールックとかふんわり系の私服とか、スーザンのファッションも見どころの一つ)。
その可愛さったらもう!!!
ジョッシュとスーザンがトランポリンで遊ぶ場面があるのだけれど、これもね、秀逸な名シーンです(とかくこの映画は、鼻がつんとする様な、奇跡とも言える程の名場面が多い)。
スーザンはきっと、仕事でもプライベートでも、いつ如何なる時もデキる女・いい女を演じていて、羽目を外すことなど滅多にないのでしょう。最初はおっかなびっくりトランポリンに上がり、段々と楽しくなって来て、最後には心からの笑顔ではしゃいでいる。普段のスーザンも実に魅力的だけれど、あれ、こちらの彼女の方が、よっぽど可愛いじゃない。
ジョッシュと過ごす時間は刺激的で、でもどこか心が落ち着く。懐かしい、みたいな。彼は、スーザンの心を溶かし、その扉を開けさせ、子ども心に還らせてしまう。彼女にとってジョッシュは、「隠さずに何でも話せる」、かけがえのない、唯一無二の存在にまでなってしまう。
既婚者の友達に「どうして結婚したの?」と聞くと、「一緒に居て楽だから」と返って来ることが大半。それって、ありのままの自分で居られるから、子どもみたいに素直な自分で居られるから、ということですよね。互いに自分をさらけ出してこそ、人と人とは深いところで理解し合い、互いを大切な存在として求める様になる。だから私は、いたずら心に溢れて、自由で、大胆さと賢さを兼ね備えた、野原しんのすけ・5歳が理想の相手であったりします。
しんのすけには下心が大アリかもしれないが、ジョッシュには下心がない。だから、キザな台詞だってさらっと言える。
例えば、「暗闇で光る魔法の指輪だよ。もう迷わない」とか。これをね、おもちゃの指輪を差し出して言うのです。いやあー、ちょっぴり弱っている時にでもこんな言葉を投げられたら、間違いなく泣いちゃうよね。
そもそも、彼には良いことを言おうなんて考えは毛頭なく、ジョッシュにとっては本当に何気ない、ペットの犬に話し掛けるのと同じ様な感覚で、めちゃくちゃ良い言葉を、まさに今!私が一番欲しかった一言!という台詞を投げ掛けてくれる。
この社会で、孤独さを抱えながら生きる大人こそ、子どもの様なあどけなさや飾らない優しさを求めているはずで。それは、厚い胸板で身体をきつく抱き締められるよりも、偉人の名言ばりの気取った言葉を伝えられるよりも、もっともーーーっと、私の心をひしっと抱きすくめ、明るく照らし、温かく包み込む(妄想)。
子どもは子どもだけの、大人は大人ならではの青春を
思い出しただけでも、きゅんっとしてしまいました。ここからは結末に触れるネタバレを含むので、ご了承下さいませ。
中身は子どものままながら、大人としての生活を楽しむジョッシュ。スーザンに男にして貰い(なぬ?!)、コーヒーをブラックで飲んじゃう余裕っぷり。「おとなマーチ」でもありましたが、ブラックコーヒーは大人の証、これは世界共通らしいですね。
大人に変身してからも、同い年の親友ビリーは甲斐甲斐しくジョッシュの面倒を見て、困った時には手を貸し、13歳の誕生日も祝ってくれたというのに、ジョッシュは、友より女、友より仕事を優先してしまう(なんと薄情な)。
そう、大人になってから恐らく数週間程しか経過していないにも関わらず、ジョッシュはいつの間にか、大人の男になってしまったのです。
社会で生きる以上、私達は大人にならなくちゃいけない。
でも、それは、ジョッシュがビリーとの付き合いをおざなりにしてしまった様に、大人になることとは、大切なもの達とさよならすること、かけがえのない時間を手放すこと、とイコールなのかもしれない。
人間たるもの、365日が経過しないと年齢を重ねることが出来ず、生まれてから20年が経過しない限りは大人として認められない。
それは、働くことが出来るまでの知識や技能を身に付けるには、社会で生きる上でのモラルや常識や対人能力を習得するには、それだけの時間と経験とが必要だから、ではある。
でも、それだけじゃないはずで。
12歳なら12歳の、やるべきことがあるはずで。12歳なら12歳でしか、感じられないことがあるはずで。
ちゃんと段階を踏んで、人並みの成長過程を辿って、そうして一つ一つ、その時代をゆっくり味わい尽くしたら良い。12歳という、一度きりの青春を、骨の髄までしゃぶり尽くしたら良い。時間が経てば、勝手に大人になれるのだから。
冒頭で紹介した「おとなマーチ」、実は3番まで続きがあるのだが、以下にその3番を引用してみる。
おとなになったら タクシーにのっちゃう
ガッポ ガッポ のっちゃう
おかねをうんとこ もっててさ おかねをうんとこ
かたてでひょいと かたてで とめちゃってさ とめちゃって
とびらをしめたら ふんぞりかえって
ゆるゆるやってくれ ぼくらのがっこうへ がっこうへ
おじさん
おとなになったら、タクシーにのっちゃう。乗っちゃうのに、その行き先は「ぼくらのがっこうへ」なのである。
大人になろうが、コーヒーをがっぽがっぽ飲もうが、お金をうんとこ手にしようが、やはりまだ、学校に通いたいらしい。子どもで居たいらしい。いくら取り繕っても、心では、子どものあれこれにしがみついている。焦がれている。仲間と顔を合わせられないと淋しくて、嫌いな学校でさえ恋しくて、家族に会いたくてたまらない。
そうして、ジョッシュは子どもに戻ることを決意する。
彼の心残りはスーザンの存在であるが、この別れのシーンもね、すんばらしく良くって。
「君も一緒に行こう」とジョッシュは持ち掛けるのだけれど、それをきっぱりと断るスーザン。「私はその歳を生きたわ。一生に一度で十分よ」という理由から。これ、きちんと納得しながら歳を積み重ねて来た人間にしか紡げない言葉ですよね。
スーザンは、やっぱり大人。そして、めちゃくちゃ良い女。
口づけしようとするジョッシュをひらりとかわして、おでこにキスをする演出も粋で。大人のスーザンからの「子ども時代をまだまだ楽しんで」という、全力のエール。最後まで美しいお姉さんでした。
そう言えば、今日は成人の日。私は、大人になることで、どれだけのことを手放してしまっただろうか。いや、まだまだ子どもであることにしがみついているだろうか。子ども心を忘れない、だけれど十分に大人、子ども性と大人性が両立してこそ、立派な大人。そんなおとなになりたいものです。
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