見出し画像

『フェミニスト経済学』から政治・経済・歴史を捉え直す④

(①はこちら、②はこちら、③はこちら


プロヴィジョニングの効率性?

金井 ありがとうございます。もし岡野さん、満薗さんから、今の私たちからの説明だけでなく、テキスト全体でもいいので、何か質問やコメントがあればお願いします。

満薗 本書を読んでいて、一番全体の基底にある概念がプロヴィジョニングという概念だと理解して、だから経済学なんだということがよくわかったんです。よくわかったんですけれど、一方で読み進めるなかでプロヴィジョニング概念そのものはちょっと抽象的だなと思って、つかまえにくい、輪郭がちょっと見えない感じを受けたんです。

それはたぶんアンペイドワーク、ケアの輪郭の見えなさを受けてこうなっているんだろうと思うんですけど、一方で経済学として……括弧付きの経済学なのかもしれないのですが、プロヴィジョニングの効率性みたいなことについてはどういう評価の仕方とか問題の立て方をしているのかが気になりました。

テキストの中だとプロヴィジョニングは「問題なく遂行される」とか、「ニーズが充足される」とか、それによって「一人ひとりの人間のウェルビーイングが高まる」とか、経済的な成功をそのように捉えるんだという表現があります。この記述自体はよくわかるんですけど、そのニーズが充足されることの効率性とか、そのプロセスの物的な生産性の問題なんかをどう捉えるのか。ひいてはフェミニスト経済学全体の中で経済成長、もうちょっと平たく言うと経済活動の規模が拡大していくみたいなことがどういう位置づけになっていて、どういう体系的な位置を占めているのかが気になりました。経済成長をもたらすメカニズムとかプロセスといった問題は、体系の中で内在的に位置づけられているのかどうかをお聞きしてみたいなと思いました。

あるいはちょっと読んでいて思ったのは、これは「脱成長時代の経済学」なのかもしれないと。もちろん開発とかいろんな問題はあるにせよ、全体としてある一定の段階に立ち至った経済のあり方について、より望ましい方向性を考え直すというタイプの議論なのかなとも思いました。いずれにしてもプロヴィジョニングという概念を巡って今言ったようなことについてどういうふうに捉えられているのかを伺えればと思いました。

金井 ありがとうございます。古沢さんからいかがですか?

古沢 実は私が先ほど申し上げたことは、満薗さんの今のご質問に関わることだったんですが、効率というものをどう捉えるか、誰が決めるのかという論点があると思うんですよね。

たとえばケアに関するプロヴィジョンひとつ取っても、既存の政策が効率的だったとは思えないんです。効率を費用対効果で考えた時、人を育む、ケアする費用を社会と企業が削り、女性あるいは家庭に負担させたことの帰結は、日本の深刻な少子化にも現れているのではないか。

フェミニスト経済学者は、1980年代、発展途上国の累積債務問題に対するIMFの構造調整政策を分析して、その社会的影響は甚大だと発言を始めました。そして、ネオリベ的政策は先進国をも席巻しました。緊縮の矛先は政治的に決定されます。そうした政策によっていかに人をケアする部門が切り崩され、社会の分断と荒廃がもたらされたかを明らかにしてきたのです。私はこの中で一番年寄りだと思うのですが、80年代から同時代的にそうした状況を見てきて、社会サービスの技術論を超えたところに問題があると感じます。

開発の現場にいると、プロヴィジョニングって、政治的に決定され実施されることを痛感します。たとえば、スマトラ島沖地震の後にインドネシアのアチェで、私の関わる日本のNGOが緊急救援に入った時のことです。何がプライオリティかと住民に尋ねると、男の人たちは瓦礫の撤去だと言うのですが、女の人たちと別に会合を持つと、生きるために水、水が必要だと。そうした声を受けて地域で調整した結果、モスクの水道を修復するお手伝いをすることになりました。水はみなが必要とするものですが、女性に調達をまかせていると切迫感が異なります。

金井 投入したインプットに対するアウトプットの大きさを生産性とか効率性と言うならば、もちろん効率性が高いほうがいいことには私たちも同意しています。ただし、何を資源の無駄と考えるかについて、たとえば、ケアの現場を見てみると、藤原千沙さんがご担当の第2章でも書いてありますが、短時間でケアしたほうがいいというわけではないので、そこは時間で測れるものではないというのが一方ではあります。

でもそちらばかりを強調するとむしろ見えなくなることもあって、たとえばインフラ整備で水道水を整備すれば、水くみをするようなアンペイドワークがなくなって効率性が高まるので、社会インフラを整備してプロヴィジョニングの効率性を高めることも推進していかなければなりません。測れないから効率性を高められないということをあまりに強調しすぎると、本当は社会インフラとか効率性を高めなければいけないところまで高められなくなってしまうことには気をつけながら議論していく必要があると、ご質問をいただいて改めて気づきました。

古沢 同感です。時間資源の利用が効率化されるわけですから、生活時間調査等でその効果を確認していきたいですね。ただ、どの資源をどこに配分するのか決定する政治過程で女性はものを言えていないという問題があると思います。たとえば、途上国でこれほどトイレの整備が遅れているのは、ジェンダーがネックだとしか思えません。野外排泄を余儀なくされることは、女性の尊厳、安全、健康に有害であるだけでなく、コミュニティの衛生環境も損ないます。女性と男性の間で、また、権力を持つ者とそうでない者の間で、費用と便益の算定がフェアに行われているのかをフェミニスト経済学は問題にしています。

経済成長とウェルビーイング

金井 あともう一つの質問のほうで、経済成長をもたらすメカニズムをフェミニスト経済学としてどう捉えているかということに関しては、明示的には私たちのテキストでは書いていないのですが、経済成長と人間のウェルビーイングの高まりがどういう関係にあるのかを考えていくことが必要だと思っています。GDPの成長はウェルビーイングを高めるための一つの手段としては位置づけられると思います。経済成長するとウェルビーイングが高まる関係もあると思うし、ウェルビーイングが高まると経済成長するという関係もあるので、どういう条件のもとでそれらがどういう関係にあるのかということ自体が分析対象だと思います。

特に最近は経済成長と女性の関係はとても注目されていて、女性のエンパワーメントや女性の労働参加が高まると経済成長が促されるのか、経済成長があると女性のエンパワーメントや労働参加が高まるのか、ということに関して、論争的な議論があります。でも一義的なものではなく、その関係は条件や文脈、時代背景でも変わりうるので、その関係性を議論していく必要性があると思いますが、その際の目標は人間のウェルビーイングの向上にあることはフェミニスト経済学がこだわっている点だと思います。

経済社会を動態的にみる

満薗 ご本を読んで、フェミニスト経済学の体系にはエージェンシーの問題が組み込まれていることもあって、静態的だなとは思わなかったんです。ダイナミックな学問だとよくわかって、動態的だなと思ったんですね。ただ経済学で普通考えるのは経済成長とか発展とかいう問題としてダイナミックな変化を捉えようとすると思うので、「効率性とはなんぞや」というところから考え直すとか、あるいはそこに社会の規範の影響を見るという点では、社会のあり方、私からすると歴史のあり方を具体的に併せて見ていく必要があるという話なのだろうと受けとめました。広く社会にひらかれてるところが「いいな」と思いました。

長田 今の満薗さんのご指摘とおそらく関連すると思いますが、私は経済成長や経済発展に伴って、先進国、途上国を問わず、女性たちはどうなったのかという問題だと考えています。

それは、第1章のフェミニスト経済学の分析視点で紹介したように、ケイパビリティやエージェンシー、エンパワーメントの関連を注視することだと思っています。

たとえば、貿易自由化の章で紹介しましたが、競争優位の源泉として女性が位置づけられている場合、貿易自由化に伴う経済発展や経済成長から得られる女性の恩恵は限りなく少ないと言えます。その反面、私がバングラデシュの状況を見て思うことは、多国籍企業の進出に伴う輸出向け縫製産業の発展は、それが興らなかった状況からすれば、格段に女性たちや、女性たちを取り巻く社会・経済状況には変化をもたらしているということです。その変化や効果を過小評価するべきでなく、だからこそ、「脱成長」ともまた異なるのではないかと考えています。

古沢 満薗さんは経済をダイナミックな過程と捉えるべきと言われました。であるならば、重要なのは女性たちが低賃金ながら雇用を得て、一方企業は儲かった、その後にどんな変化が起こっているのか注視することではないでしょうか。女性たちが家庭外で働き収入を得た。それによってどんな自由と不自由を同時に抱え込んだのか。家、社会、資本、さまざまな関係性の中で女性たちは苦闘している。労働組合を組織して社会を変えようという動きだってある。さまざまな変化の重なりあいの中でどのように社会が動いていくのか動態的に見る、まさに今おっしゃっていただいたことかと、腑に落ちちゃったんですけれど(笑)。

へ続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?