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『フェミニスト経済学』から政治・経済・歴史を捉え直す②

(①はこちら


金井 ありがとうございます。今のお話でもいろいろ質問したいことが出てきたのですが、あまりここで時間を取ると次にいけなくなるので、進めて行きたいと思います。お二人ともフェミニスト経済学に期待してくださっているということだったんですが、岡野さんは政治思想を研究されてきた中で、なぜフェミニスト経済学に注目されるようになったのでしょうか。

政治学が前提としてきた主体

岡野 ケアの倫理をマルフェミ(マルクス主義フェミニズム)の論争、家父長制か資本制か等々の論争に位置づけるべきだという自分なりの仮説があったからです。
 
今回読ませていただいて、特に第Ⅰ部の「理論と方法」にすごく関心が近いとあらためて認識しました。政治学がそもそも政治的な主体として観念するそのイメージは、普遍的な人間を語りつつ、健常な男性であり、もちろん階級も非常に限られている。私は西洋の政治思想史をもともと研究してきたので、そこでの特徴の一つは、ケアだけでなく、あらゆる労働から自由な人だけが政治を担えるという、なんとも傲慢な政治学の主体論です。

自由な主体、平等な主体というときの主体は(ケア)労働から自由な存在です。それと(ケア)労働から自由であるという意味での平等。つまり、かつては財産を持っている人だけが自由で平等であった。ちょうど10年ほど前に出した著作で取り組んだのは、政治学が前提にしている政治的な主体をどうやって脱構築するか、を考えることでした。この主体が、歴史的にいかに構築されてきたかを明らかにするとを通して、政治学が想定する理想的な政治的な主体などは存在しないということが明らかになってきました。どう見ても、たとえば今の日本を見たらそんな主体である政治家は一人もいませんというような理想化された主体です。ただ、ケアを担わない人が中心であるという点では、現実もそうした前提が政治的には維持されています。

ホモ・エコノミクス的な主体をどう覆していくか

岡野 ところが、とりわけ新自由主義、ネオリベラリズムの議論の中でそうした政治的な主体でさえ経済的なものへと変化します。合理的な判断ができ、それから普遍的で第三者的な広い視野に立って、あらゆる人に関わるようなパブリックな事象に対して、インパーシャルという意味での不偏、偏りのない判断をしないといけないという、歴史的に理想化されてきた主体像が、今や完全にホモ・エコノミクスに塗り替えられてしまったというのが政治学の中での現在の認識だと思います。むしろ政治的な主体、民主的な市民でもいいですけれども、どう担保するか、が主流の政治学では大きなテーマになっています。

ですので、フェミニスト経済学が第一の批判の対象としているホモ・エコノミクスについて、考えざるを得ないわけです。人が抱えるケアなどのニーズに対して自己責任論が支配的になっています。自己責任というのも実際には幻想ですが、自己責任論に則ってニーズは家族ですべてまかないなさいという規範、現実政治でもそうした家族責任の想定がネオリベラリズムの潮流の中で浸透しています。

そういう意味ではフェミニスト経済学が批判している労働者中心であるとか生産中心の経済の見直し、まさに本書が提唱するウェルビーイング中心の経済への転換は政治的にも重要です。経済学そのものの定義の見直しによって、ホモ・エコノミクス的な主体をどう覆していくか、ホモ・エコノミクスという前提で社会が構築されると私たち生きていけませんという訴えをしていかないといけない。人間の再生産という言い方がいいかわかりませんけれども、ケアを周辺化するような人間社会は持続できない。経済学内部でのホモ・エコノミクス批判という観点からも、私はフェミニスト経済学を、アメリカ中心ですけれども自分なりに学んできました。

政治学の分野ではフーコー研究者の重田園江さんが、『ホモ・エコノミクス』(ちくま新書)を書かれて、1960年代以降の政治思想においていかに経済学的な思考が浸透してきたかを論じています。古典的な経済学から現代的な経済学へと移行する中で、たまたま数学との連想がなんとなく客観的に見えることが分かり、経済学が数式を使い始め、量的に人の行動を測っていくような考え方が経済学を席巻して、それが政治学の中でも、特にアメリカはそうですけれども60年代以降、シカゴ学派を中心として、経済学的な方法論的個人主義が政治学でも取られるようになります。

重田さんは、政治学にもゲーム理論などが導入され、人間というのがとても平坦に捉えられるようになった、と批判的です。ですので、政治学において特にホモ・エコノミクスという人間像をいかに批判して、そういう人はいるかもしれないけれどそれは人間にとってほんの一面にすぎない、市場経済での人間の活動ってどんなに頑張ったって人生のうちで三分の一ぐらいだろうと思うんです。

ひるがえって日本の市民は、政治活動ってほとんどしてませんよね。政治的な活動の必要性を政治学者は唱えますが、よくよく見ると市場経済に絡め取られている今の私たちの生活のあり方を政治学もちゃんと見直さないといけないという関心は高まっています。ネオリベラリズムの潮流の中で政治、あるいは民主主義をどう、再構築するか、あるいはもうできないんじゃないかっていうのはウェンディ・ブラウンがたとえば、『いかにして民主主義は失われていくのか』(中井亜佐子訳、みすず書房)で考えています。民主主義だけでなく、民主的な市民性も、つまりわたしたちの内面からホモ・エコノミクスに全部作り変えられちゃったという、ある意味で絶望的な見通しで終わるような本なんですが。

主体論の先駆者としてのフェミニスト経済学

岡野 そういう意味ではフェミニスト政治思想にとってもホモ・エコノミクスとどう対峙するのか、私たちの思考のあり方を問い直さないといけない。本来誰もホモ・エコノミクスじゃないのに、なぜか経済合理性が優先され、今の教育システムも財務省の言いなりみたいになっている状態。そういう経済の指標が政治学的な政治のあり方を規定している状態を一番分析してきたのはフェミニスト経済学じゃないかなと思います。

ケア経済という考え方とともに、こうした主体批判を近年私がとても学んでいるところです。資本主義と女性の関係、社会全体における経済的な思考の席巻をどう政治的に理解したらいいのかという点から、議論の蓄積が多いフェミニスト経済学から学んでいます。

ホモ・エコノミクスという前提が経済学においては、政治学よりもディシプリンとして揺るぎないと思っていまして。たしか10年くらい前に頑張ってフェミニスト経済学のホモ・エコノミクスを扱う本をいろいろ読んだんですけれど、微妙に単語が似ているようで政治学とは理解が違って、専門外からフェミニスト経済学は理解しにくいところがありました。英語だと同じ単語だけれど、日本語のターミノロジーは違うみたいなところのギャップをこれまでは独学でなんとか埋めてきたのですが、フェミニスト経済学のテキストがこうして出版されてもう一度そのあたりを復習できるというか、自分自身で確認できる機会にもなっていて有難かったです。

経済学の再構築

岡野 私にとってはフェミニスト経済学は、政治的な主体をどう脱構築するのかという課題にとっての、ある種先駆者だと思っています。すごいですよね、近代経済学が前提とした概念を覆す、経済学そのものを根底から問い返した。経済の最小単位はたぶん労働力だと思うんですが、ILOとかの労働の定義まで変えてきたのがフェミニスト経済学。それから国民総生産もそうですね。

フェミニスト政治学というのがあるとすると、という言い方は変ですが、あってほしいんですけれど、学会がないですし。そういう意味ではとても頼りになる、先輩、先駆者として私の中では位置づけられています。フェミニスト経済学は、50年くらいの歴史ですから、政治学でやらないといけないと思っていたモデルがフェミニスト経済学にはあるなと感じています。

金井 ありがとうございます。少し補足すると、私たちのテキストでも書いたのですが、フェミニスト経済学は、一つのまとまりのある体系を目指しているわけではないというところにも特徴があると思います。フェミニスト経済学と名乗っている人たちも、経済学のルーツもいろいろですし、フェミニズムのルーツもいろいろな人が混じっています。

今回私たちのテキストはどちらかというと、新古典派経済学で考えられている人間像やその経済学で扱う範疇を考え直して、経済学を再構想したいということを書きました。岡野さんが前段で言われていたマルフェミ論争をケアの倫理に位置づけたいという点については、2024年度に他の出版社ではありますが、「フェミニスト政治経済学」の本が出版される予定と聞いていて、マルクス経済学を批判的に発展させてきたフェミニスト経済学の展開はそちらの本でより詳しく書かれるのではないかと思います。本書と一緒に読んでもらうと経済学の多様性という意味でも理解できると考えております。

古沢 マルフェミの、資本制と家父長制の結合が女性の抑圧の根源であり、中核に再生産労働の搾取があるという捉え方は、様々な議論はあるものの、現場で闘っている人にとっては日々実感されることかもしれません。長田さん担当のグローバル化のジェンダーインパクトでも地べたではそういう話なのだと思うのです。女性は、アンペイドケアワークと低賃金労働の両方を担い、二重に搾取されているが、それが経済成長の前提条件になっていると。

消費にジェンダーから迫る

金井 それでは満薗さんに、最近、ジェンダー研究に関心を持つようになったきっかけをお聞きしたいと思います。

満薗 私の専門は歴史学で、歴史学もいろいろなんですが、特に何か特定の方法を前提にしているようなタイプの歴史学者ではなくて、史料に即して素朴に歴史を明らかにしましょうというタイプの歴史家です。その意味で私からすると、先に問題関心があったというよりは消費という対象があって、対象に即して歴史を理解するにはどういうことを考えたらいいかを見ていくうちにジェンダーの問題に視野が広がってきた。

これは歴史学をやっている人からするとわりとよくあることで、対象を理解するためには歴史学は学際的になんでも使うので、あんまり不思議なことではないだろうと自分では思っています。思っていますが、最初からいろいろわかってたわけでは当然ない。

最初の私の本は2014年に『日本型大衆消費社会への胎動』(東京大学出版会)というタイトルで博士論文をベースに出したんですね。そのときは消費の問題を大衆消費社会という枠組みで考えて、近代日本の到達点と言ったらあれなんですが、近代日本がどこまで大衆消費社会に近づいていたのかを考えていました。

そこでも近代家族論との関係はすごく大きなトピックでしたし、実際に小山静子さんや、加藤千香子さん、牟田和恵さん、倉敷伸子さん、木本喜美子さんといった方々の歴史研究のお仕事とどういうふうに自分の仕事が接点を持つかは一生懸命考えて書いたつもりではありました。

ただ今から振り返ると、ジェンダーやフェミニズムという観点では不十分なところが多かったと思います。その段階では大衆消費社会の問題を考えるとしたんですけれども、史料的な制約が大きくて、消費者を直接史料からつかまえるというのは戦前の日本の場合かなり難しく、私の本も直接には売る側、特に小売業を分析対象としながら大衆消費社会を考えるというものでした。小売業者や流通業者たちが当時の消費にどう向き合っていたのか、というアプローチから社会を考えるという構えだったので、本格的に消費者側の問題をつかまえるところまではいけなかった。

それに対して最近取り組み始めた戦後の消費史研究になると、直接「消費者」という言葉を使って自分たちの活動を位置づけたり意味づけたりする人たちや組織・団体がいろいろ出てくるので、史料に即して消費者というものを直接的につかまえられるようになる。

戦後の日本のある時期までは消費者というとやはり女性というイメージで語られている。特に主婦という言葉でほぼイコール消費者を指すような状況で、消費者といえば主婦という時代がかなり続く。そういうのを見ていく中で、消費者が女性性と深く結びつく形で出てくることをどう考えたらいいんだろうか、ということに目が向くようになりました。そこからケアを巡る問題や議論も気になるようになってきて、消費というものも別の角度から、より広く捉え直したほうがいいだろうと思うようになりました。

消費をケアを巡る問題の中に置いてみる

満薗 具体的には、「日本ヒーブ協議会」という団体が一九七八年に設立され、「ヒーブ」という人たちが活動しています。その歴史を最近本にまとめたんですけど、日本のヒーブは家事や育児や介護といったケア役割を家庭で女性が担っているという当時の前提があって、だから女性たちに企業の中に入ってもらおうという期待を背負っていました。

当時の言葉で言うと「消費者」の視点で企業活動をより良いものにしてもらいたいと、そういう期待を背負って入ってくる。男女雇用機会均等法よりも前から、フルタイムで大企業や有名企業に正規雇用で入っていって、基本的にはずっと働き続けたいと思っていた女性たちの世界の話です。

私の本は『消費者をケアする女性たち』(青土社)というタイトルなのですが、「ケア役割を担っているから女性たちがより強く消費者の視点を持っているんだ」という発想それ自体を歴史的に捉えたらどうなるんだろうかということを気にしていました。そこから、消費というものをケアを巡る問題の中に置いてみる、そういう文脈で捉え直す必要があるんだろうなと考え始めたのは本当に最近のことです。

そう思ってみると、これまでの自分の仕事というのは消費という問題を経済成長との関わりで捉えていて、成長と消費という組み合わせで考えていたんだなと自覚するようになったんですね。成長のエンジンとして消費への欲望というものが人々の間にどう高まっていくかとか、それに向けて企業の側がどういう活動をしていくのかとか、そういうことで問題を立てていたんだなと思い至るようになりました。

そこまで考えると、博論のほうのタイトルにもつけた大衆消費社会、これは日本経済史の文脈ではわりとよく使われる用語だし、戦後のある時期の経済発展と結びつけて理解されるわけですけれど、大衆消費社会という捉え方そのものも成長に引き付けた形で捉えてきたのかもしれないなと思って。

そこからさらに、日本経済史の通史をどう整理して考えるかという通史叙述の問題、特に現代日本経済史の叙述のところがそうだと思うんですけれど、その枠組みについても消費を成長に引き付けて捉えるだけでは不十分だという発想から考え直すようになりました。消費をケアの問題の中に置いて考えようとすることは、成長に引きつけて日本経済史を語るのではなくて、あるいは成長だけで語るのではなくて、もうちょっと広い文脈や違う問題を入れた枠組みから考えることに繋がっていくんじゃないかなと。

これまで漠然と捉えられてきた消費

満薗 というようなことで、私としてはもやもやと新しい関心が芽生え始めていた頃に金井さんと直接お話しする機会があって、そこで「『フェミニスト経済学』という本をつくっているんですよ」というお話を伺って。私としては、「あぁ、これで私のお悩みは解決されるんだな」と(笑)。この『フェミニスト経済学』という本を読めばきっと解決されるはずだという手応えというか感触を得て、かなり根源的に問題を考え直そうとするときの手がかりとして、今回の本にすごく期待していたところがありました。

金井 ありがとうございます。今のお話に絡めて質問がありますが、消費といったときに本書第3章「世帯」で、消費のコントロールについて、たとえば日々の食事の買い物で何を買うかなどは女性に決定権があることが多いけれども、家を買うなど額の大きなものや資産の購入に関するコントロール権は日本の場合は男性にあるというような家計研究を紹介しました。「消費」といった場合、どちらも当てはまると考えて使っているのでしょうか。

満薗 それはどちらも使っているんだと思うんです。どちらも使っているんだけれども、家政学の知見とかをどういうふうに消費の問題に入れ込むかがまだ十分に議論されていなくて。私もそうですけれど、消費という問題を漠然と捉えている。ものを買うという局面、ものが売れるという裏側から見ているところがまだかなり強くあるんじゃないかと思っております。

へ続く)


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