10.「La lune brille pour toi」


「La lune brille pour toi」

彼の口ずさんでいた日本語の曲のメロディには聞き覚えがあった。
有名な日本人作曲家の作曲で、これまた有名なフランス人の女性歌手が歌った、”La lune brille pour toi”という曲だった。
フランス語が分からなかったわたしは、それを本当の歌詞だと思い、その歌詞が気になって、彼に話しかけたのだった。
歌詞はデタラメの日本語だった。

でも、いい歌詞でしょ。

そう言って笑った彼はまだ23歳くらいで、すっきりとした一重瞼で、眠そうにこちらを見ながら、ワンレングスで顎くらいまであるサラサラの髪を耳にかけた。

わたしが当時住んでいたマンションは小綺麗で、わたしの住んでいた部屋の両側とも一人暮らしの女性が住んでいたのだが、右の802号室の女性はいつの間にか引っ越しをしていて、その部屋は空室になっていた。

そこに引っ越しをしてきたのが、彼だった。扉を開け放された1室へ、段ボールを運びながら、小さな声で歌っていたのだ。

わたしはちょうどクリーニング屋へスーツを持っていこうと外に出るところで、その時に彼の鼻歌混じりの歌声が耳に入ったのだった。

24歳3月。
まるで真冬のように空気の冷たい土曜の昼だった。

彼は歳の若さに似合わず妙に落ち着いていて、黒に近い虹彩からは感情がうまく読み取れなかった。
ぼんやりとした視線をこちらに向けられた時、思わず釘付けになってしまった。

同じ日の夜、また同じ場所で、
偶然彼と顔を合わせた。
時刻は23時をまわっていた。
彼は部屋の前で遠くのビル街を眺めていた。

わたしは丁度、急な仕事から帰宅するところで、偶然彼と顔を合わせた。
わたしは丁度、急な仕事から帰宅するところでマンションに着き、
いつも通りにエレベーターで8階まで上がっていって、

扉が開いた瞬間に、振り向いた彼と目が合った。

おれ、高いところ、好きなんだよね。
特に夜はさ、自分のためだけに、街は光っていて、自分のためだけに、月があるような、そんな気がしちゃうんだよね。

そう言った彼に、夜が映えていた。
風が通り抜け、彼の髪はふわっと遊んだ。

彼はわたしから視線を逸らした。

澄んだ空気がわたしを包んだ。



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