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短編小説【落着のとき】

《あらすじ》

夫の病気平癒を願って、山深い法馬寺に参拝する、私。しかし、祈りは夫のためではなく、私のために祈っていた。夫がいなくなったら、どうなるのだろう。揺れる思いの中で、参拝することに意味を見出した私は、やがて救われる。

    
       『落着のとき』

 法馬寺は、山深い。森の奥にひそむ寺は、周囲を寄せつけないものがあった。杉林に囲まれた境内は、昼間でも光が閉ざされ、森閑としている。虚ろな目つきの参拝者たちが、ふらふらと亡霊のように歩いていた。参道の石畳は苔むし、石灯籠がばらばらに散らばっている。辺りは薄暗いけど、火袋がつく気配はなく、私たちをじっと見ていた。寺がまとう空気は、生気が失せて生き物の侵入を拒んでいるようだった。

 私は、異質な空気に戸惑った。でもそれは、はじめのうちだけだった。やがて夫はここに来るのねと思ったら、胸のつかえが取れて安堵の感情すらわいてきた。未踏の地のようで、生者がいるような場所ではなく、霊魂がさまよっていると言われたら、うなずけたから。ここに来れば夫と会えるのね、そう思った。
 身体が少し軽くなった心地がした私の隣では、娘がまだ肩に重石でも乗っているかのような足取りだった。参道の階段が沈黙を促し、私の切れた息だけが石段に響いた。娘は真一文字に口を閉ざしていた。

 霊山である法馬山のふところに広がる古寺は、熱心な参拝者が少なくなかった。病気平癒のご利益をうたってなかったけど、いつからか病気治癒を願うものが集まるようになった。病気を封じる絶大な力を求める人々は、どことなく暗影を背負っている。参拝者の陰鬱とした気が山に満ち、鬱蒼とした森は負の力を養分に育っているようだった。
 階段を上りきると、本堂が視界に入った。入母屋造の木造建築で、かすれた黒色の外壁と朱塗りの屋根が色あせている。間口は広くなかったけど、人間の何倍も生きているからか、堂々とした面構えで達観したようなたたずまいだった。ここからだと内部は暗たんとしていて、うかがい知れない。幾人かの参拝者が闇に吸いこまれて、消えていった。

 本堂のそばに白い花弁の山桜が、おびただしいほどの花をつけ、勢いを誇っていた。街の桜はもう散ったけど、色彩の薄い境内では異彩を放って咲いていた。
「ひっそりとしてるね」
 娘が息を吐き出すように言葉を発し、沈黙を破った。
「そうね」
 私は切らした息を整えるように言った。
「お母さん、落ち着いてるよね」
 夫の病状を心配しているのか、境内の雰囲気に圧倒されたのか、娘の言葉は重たい。
「そうかしら」
 とぼけた私に、いぶかしげなまなざしを向ける娘は不安そうだった。
「お父さんのこと、心配じゃないの」
 娘の顔は曇るが、私の顔は涼しいのかもしれない。
「もちろん心配よ。でもね、あの世はここなのかなと思ったらね、お母さんほっとしちゃったの。ここなら近いから安心したのよ」
 死者の魂はもっとどこか遠くの、手の届かないところに行ってしまうと思っていた。そもそもそんな場所さえ、ないのかもしれないとも。
「お父さん、まだ生きてるのに」
 ため息をついた娘は、諦めたように視線を外した。身を縮めるような花風が、参道を通り抜ける。

 夫の余命が短いことは分かっていた。いまさらお願いしてもと冷めていたが、娘に引っぱられてお参りにきた。覚悟はしているつもりでも、夫がいなくなったらどうなるのか、不安もあった。でも、自分ではどうすることもできなかった。
 夫の死後の世界が想像できなくて、毎日胸が締めつけられた。夫がいなくなったら、きっと心にぽっかりと穴が空くだろうし、それを埋めるにはどうすればよいのか分からなかった。あれやこれやと考えては、逡巡の渦にのまれていた。

 境内は生物の気配がしない。そびえ立つ木々は静止画のように動かず、空に覆いかぶさっている。光が届かないから、色を失っているように見えた。病気治癒を願うはずの参拝者も、何かを探しているようにふらふらと虚空を見つめているようだった。死後の世界が存在するとしたら、ここかもしれない。やはり夫がいなくなったら、ここに来ればいいんだ。心がもやもやとした霧に包まれていたけど、法馬寺が振りほどいてくれた。
 本堂内は、陽が落ちたような暗闇に包まれていた。床の黒い敷瓦がつややかな光を放ち、靴の音が反響するのでそろりと足を踏み出した。思わず漏れた吐息が、天井に鳴りわたった。顔を上げるとどこまでも真っ暗で、それでも外の光が漏れているのか、目をこらすと点々と光るのが見えた。それは星のようで、頭の上に宇宙が広がっているようだった。
 下界の街よりもはるかに狭いこの場所で、途方もなく広がる宇宙がひしひしと伝わってきた。身体から圧迫感が取りのぞかれ、無重力にでもなったような感覚に襲われた。

 ご本尊の千手観音立像が、ろうそくの灯りに照らされて、煌々と私を見つめている。見つめ返すと、慈悲深い表情に吸いこまれそうだった。あまたの人が祈りを捧げ、いくつもの願いを受けとめてきた包容力に私も包まれた。心に宿るいくつもの不安がゆっくりと溶けていった。
 暗いところにいたせいか、外に出ると境内が目にまぶしく映った。ほの暗かった境内に、木の間から薄日が漏れているように見えた。桜の香りがほんのりと鼻に抜けた。
「お祈りできて、良かった」
 娘は力いっぱいに深呼吸をしている。
「良かったわね。それじゃあ帰ろっか」
 私は参拝だけのつもりだった。
「ちょっと待って」
 娘が目を丸くしている。
「お父さんにお守り買わないなんて、信じられない」
 驚いていた娘をなだめるように、病気平癒のお守りを夫のために選んだ。しまいには、
「お母さん、これ持ってなよ」
 と、娘に言われて護符までいただいた。私は、
「はいはい」
 と言いながら、娘に従った。
「初めは静かすぎて気味悪かったけど、すっきりしたね」
 娘は、やり遂げたような満足感が顔からにじみ出ていた。軽やかに言葉が口をついて出た。
「法馬寺は名前だけ知ってたけど、地元にいると案外行かなかったりするよね。今日は来れて良かったね」
 一時間ほど前の娘とは別人で、階段をすたすたと下りていった。私の歩みは、山から離れていくほど重たくなっていった。

 街に下ると、筋力の自由が奪われたように身体はずしりと重くなり、身体の底からわきあがるような不安にさいなまれた。ついさっきまで法馬寺にいた時間が、遠い過去のように記憶が薄くなっている。
 私はお参りを毎日欠かさずしようと、心に決めた。そう思うと、すっと心のわだかまりが取れていった。
 授与された護符をぎゅっと握りしめて、家路を急いだ。法馬山の山際に沈む夕陽が、私の背中を暖めていた。

 それからというもの、お参り中心に私の生活は回った。朝ご飯を食べ終わると、そそくさと用意をすませて、家を出た。電車を乗り継ぎ、山と言っても境内の手前までケーブルカーで行けるので、たやすかった。階段が難所だったけど、上っている時には、はぁはぁ言って、何も考えられないくらい階段に集中できたから、それで良かった。 
 参拝後に、お昼を山のふもとにあるお蕎麦屋さんですませて、その足で病院に向かった。
 夫には、病気平癒のお守りをあげたけど、毎日参拝していることは言わなかった。仰々しいかなと思ったのもあるけど、夫のために祈っているのか疑わしかったから言えなかった。
 病室で一仕事でも終えたように疲れ切っている私を見て、夫は何を思っていただろうか。

 境内は広かった。山一帯に広がり、本堂から離れるようにお堂が点在していた。苔むした石畳に、杉の根っこがうねるようにはみ出している。精根果てたような有様で、自分の生気が吸いとられるようでおどろおどろしかった。
 境内には鳥居や神社もあって、異文化が混ざりあったような独特の趣もあった。神仏習合が織りなす空気には圧があって、近寄りがたい姿を見せつけていた。
 街は初夏の陽気が日ごとに顔を出していたが、山ではまだ残春の空気が漂っていた。時おり吹く山風が冷え冷えとする。冷涼にまとわれた山の空気が全身を覆うと、指先から固くなり、少しずつ身体をむしばんでいった。風に縛られたようで、やがて自由がきかなくなっていった。参拝者が上着の襟を立てて身体を縮めながら、風によろめき、歩いている。死後の世界も物悲しいのだろうか。頭を上げてみても、木々にふさがれた空は何色かも分からなかった。
 山から、下の世界はよく見えた。下界の街並みが、豆粒のようにこまごましく並んでいる。私の心に潜む大きいはずの悩みや不安も、あの街のように本当は小さいのかもしれない。

 梅雨入りを告げるニュースが目に入った。夫の病状も下降線をたどり、晴れ晴れしなかった。私も夫も天気も、どんよりと厚い雲に覆われて、すっきりとはいかなかった。
 夫の容体が思わしくないことを話すと、娘が急いで実家に帰ってきた。あんなに大きかった夫が小さくやせ細っているのを見て、娘は狼狽していた。
 病院から家に戻っても、何をするでもなく、立ち上がったり座ったりと、ただそわそわしていた。娘は戸棚の写真立てを手に取りながら、ぼんやりと言葉が漏れた。
「お母さん、毎日お参りしてえらいね」
 私のどこがえらいのかなと、一瞬考えこんでしまったけど、娘が続けて、
「お父さんのために祈って」
 と言うから、ああそうよねと腑に落ちた。でも、
「近いから楽なのよ」
 という言葉が口から出てきた。
「階段つらくないの」
 娘は私の楽という言葉を信じていないようだった。
「ちょうどいいわ。登ってるうちに息切れしちゃって、お父さんのこと忘れてるから」
 半分本当だった。階段では息が上がった。でも最近は慣れたのか、前よりも息が整う時間が短くなった。お父さんのことは、階段よりもずっと手前の、街を外れた頃には頭の中から消えていた。
「またそんなこと言って」
 娘は表情を緩め、呆れていた。
「お母さん、今日はまだお参りしてないのかな」
 今日は午前中に病院に行ったから、お参りにはまだ行っていなかった。娘は、お参りをしたそうに見えた。
「そうよ。まだ今日はお参りしてないのよ。これから法馬寺、一緒に行こっか」
 娘は目を輝かせて、喜々としている。お参りを待ち望んでいたようだった。
「行く行く」
 と、乗り気になった娘と家を後にした。テーブルに載ったままのお茶菓子と湯のみをほったらかしにして。

 街は梅雨の晴れ間で、湿度が高くむせかえるほどだったけど、山に入ると、ひんやりとした風が身体をなでるように通り過ぎた。じめじめとして気だるくなった私たちを、しじまに包まれた境内が受け入れてくれた。
 本堂は最後の砦のような出で立ちで、威厳に満ちていた。参拝を続けていると、季節が移ろいでも、山桜が跡形もなく散っても、法馬寺は何も変わらないことに気づいた。私たちが変わっても、法馬寺は何百年も変わらない姿で迎えてくれている。
 参拝を終えると、娘も落ち着いたようだった。
「今日は来て良かった。お母さんも無理しないでね」
「大丈夫よ」
 と言って、毎日の参拝は苦じゃないのよ。と、心の中で言葉を付け加えた。
 娘は、仕事があるからと慌ただしく帰っていった。開いた玄関からむしむしとした外気が入り、息がつまりそうだった。

 夫は秋が好きだったけど、爽やかな秋風にあたることはもうできないかもしれない。冷やした麦茶を喉に流しても、息苦しいのは変わらなかった。私たちの残したお茶菓子が、寂しそうにぽつんとテーブルの上に、まだあった。

 盛夏の頃、街がうだるような暑さの時でも、参拝は続けた。標高が高いから、山では暑さをしのぐことができた。太陽の光が遮られた境内は、ほてった身体が息を吹き返し、まるで天国のようだった。参道を踏みしめて歩くごとに、足底から力がわいてきた。山の養分が私に分け与えられて、生かされているようだった。生ぬるくなった気持ちが冷やされて、自分を取り戻せた。
 今日が百日目の参拝だった。私は毎日、山に抱かれたこの古寺にお参りを続けた。目を閉じると、無になれた。風の音がしない。生き物の声が聞こえない。草木は微動だにしない。境内は一切の音を許さない。静寂そのものだった。私の息づかいすら、消えていた。何も聞こえない。それでも、誰もいないはずなのに、誰かに見られているような気がした。いよいよ霊魂でも感じとれるようになったのかもしれない。夫はもう長くない。

 夫は食事が取れなくなり、会話もできなかった。私よりもやせ細ったように見えて、直視するのがためらわれた。
 山に来ると、全てを忘れることができた。お父さんの病気がよくなるようにと祈らなくちゃいけないのに、それさえも、何もかも忘れることができた。私は、夫のために祈るのではなく、自分のために祈っていた。
 回廊に風が通り抜け、汗が引いていくのが爽快だった。心地よいからしばらく立ち止まっていると、腰の曲がった高齢の男性に声をかけられた。
「毎日ご参拝、ご苦労さまです」
 作務衣を着ているから、お寺の住職さんだろうか。私は毎日見られていたことが急に恥ずかしくなって、顔を伏せて、
「あ、いえ」
 と、言葉足らずな返事だった。
「観音様は、あなたをずっと見ていますよ。そんな暗い顔をせずに、もっと笑顔でいなさい」
 柔和なまなざしを私に向けたが、私は鏡で自分の顔を今すぐに確かめたかった。街ではそうだろうと思っていたが、山でも暗い顔のままなのか。うつむいたままの私に、彼はゆっくりと語りかけた。
「ここには誰かのために祈る方が、たくさんいらっしゃいます。ですが、皆さんお顔が明るくない。笑顔でいないと、祈られる方も不安になってしまうでしょう」
 私は夫のために祈ることを忘れて、自分のために祈っていました。仏の前で懺悔をするかのように言葉が喉まで出かかったけど、押し黙った。
「それでも、ここでは受け止めてくれます。あなたのためでも、それを望んでいる人がいれば、それでいいのです。あなたが元気でいてくれることが何よりの願いでしょう。だから、もう少し明るくてもいいのでは。そうすれば見える景色も違います。きっと木漏れ日も見えるでしょう」
 見透かされているのか、とうとうと彼の言葉が流れた。身体の中で、すとんと音が聞こえるくらい、胸に落ちた。私は深々と会釈をして、
「はい、ありがとうございます」
 としか言えなかった。自分のために祈っていた私が救われた。夫が救われなきゃいけないのに、私が救われた。目に涙をたたえてまばたきすると、それはぽたぽたと回廊に落ちていった。
「私たちは、全ての方の幸せを祈っています。毎日、性別や年齢や国に関係なく、誰もが安寧になるよう祈っています。辛い時はいつでも戻ってきなさい。山の雰囲気に圧倒されるのでしょうが、それだけ、力が大きいということです。何者も圧倒できなければ、人など救えません」
 時が止まったかのように物音一つせず、生気が失われたと思っていた山は、誰をも拒んでいなかった。心が暗いと見える景色も違っていた。

 処暑が過ぎて、朝夕に虫の音が聞こえるようになった頃、夫はいなくなった。わんわん泣いたけど、波が立つことなく、心は平静だった。夫は家にいなかったのに、急に家が広くなったようで、大広間で寝ているような気がして、落ち着かなかった。でも、明朝は法馬寺に行こうと決めたら、深い眠りに落ちていた。

 朝ご飯を軽くすませて、通い慣れた道を進むと、駅の乗り換え口が工事を始めていて、いつもと様子が変わってしまい、電車に乗り損なった。ホームはまだ夏の陽射しが残り、汗をかいた。設置された鏡で自分の顔を見る。法馬寺は逃げないから、大丈夫。汗を拭き取りほほえむと、鏡も笑った。

 ケーブルカーに乗る前に、娘が電話をかけてきた。
「お母さん、大丈夫かな。一緒に住もうか」
 と言ってきたけど、私は
「もう大丈夫だから」
 と答えた。
 山に入ると、爽やかな空気にあふれ、飛び跳ねることができるくらい、身体は軽やかだった。心配や不安は、遠くのかなたに置いてきた。

 杉林からカラスアゲハが参道に下りてきた。黒くて大きな体で、羽をぱたぱたとさせている。境内で初めて生き物を見つけた。青緑色の羽が宝石みたいに輝きを放っている。参道がにわかに明るくなった。木の間から降る八月終わりの太陽が、優しい光となって蝶を照らす。羽ばたくたびに青緑色を輝かせ、鱗粉が空に舞った。参道は天の川のようにきらめいた。蝶はふわりふわりと漂っている。青緑色の銀河が参道に余韻を残した。

 山の朝は秋気に満ちていた。境内はもう秋だった。気持ちよさそうに秋風になびく蝶。私は晴れやかに、
「また来るね」
 と言って、破顔した。
 法馬寺は、山深い。薄明かりがそそぎ、山は静黙としている。私の息づかいが、強くこだました。法馬寺はずっと、変わらない。

(おわり)

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