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4年越しの【境界を超えたメッセージ】

約4年前、母方の祖父が亡くなった。

3ヶ月の入院の末、大晦日の朝早くに亡くなった。

私はこの出来事が深く心を突き刺していて、この4年間、思い出しては「ごめんね」とつぶやく日々を繰り返していた。

だが、そんな「ごめんね」が、先日とあるメッセージによって「ありがとう」に変わったのだ。今回は、そのちょっと不思議な出来事について書いていこうと思う。

最期の時間。

祖父が亡くなる数日前。私は生まれて初めてのインフルエンザにかかっていた。高熱で体も動かない。年の瀬なので子ども達は冬休み。どこにも連れて行ってあげられなくて情けない想いをしていた。

インフルエンザ3日目。自宅で療養していたら携帯が鳴った。

「じいちゃんがもうダメっぽい。今日のうちに会える人は会って欲しいって、お医者さんが。」母からだった。

「わかった。すぐ行くね。」と答えたのだが、
「だめ。あんたインフルエンザでしょ?病院に来たら迷惑だし、無理しないで。良くなったら明日にでもおいでよ。」と言われてしまった。
聞くと、その日のうちに妹もイトコも祖父に会いに行くらしい。
「いや、やっぱり行く」と伝えたが、断られた。
仕方がないので携帯電話を祖父の耳元に持って行ってもらい、
「じいちゃん、明日絶対行くからね!がんばれ!」とインフルにやられたガラガラ声で伝えた。…祖父は意識がなかったので、聞こえていたかはわからない。悔しい思いのまま、電話を切った。だけど希望は捨てなかった。「きっと大丈夫」そう信じた。

その日の深夜、インフルエンザで隔離され一人部屋で寝ていたのだが、ドアが開いて「バタン」と閉まった。
私はその時に寝ていたのだが、寝ぼけながらも「祖父が挨拶にきたんだな」とぼんやり思った。


次の日の朝、6時前。
携帯が鳴った。「やっぱり」と直感した。
「じいちゃん、もうだめかもって。」電話の向こうから、母の震える声が聞こえた。


急いで着替え、インフルエンザも治りかけの4日目だったので、マスクは二重にして、病院まで車を飛ばした。30分の距離だった。間に合うかもしれない。

運転中、何度も涙が流れたが、自分まで事故ってしまってはいけないと思い、必死に前を見て運転した。

病院に到着し、病室へ急ぐ。もう何も考えられなかった。

叔父とイトコが廊下に見えた。
「じいちゃんは?」と聞く。
「今、お化粧してもらってる。」



あぁ、間に合わなかった。

時間は巻き戻らない。

間に合わなかったのだ。
私は昨日も祖父に会えなかった。
そして今日も会えなかったのだ。

「じいちゃん、最期に会えなくてごめんね。」と、なんとか伝えた。
伝えたが、祖父はもう亡くなっていて、この声が届いているかはわからない。

私は祖父にとって初孫で、とっても可愛がってもらっていた。
そんな孫と最期に会えなくて、寂しがりやの祖父はものすごく寂しかったに違いない。

思えば、祖父が入院してから不思議なことが多かった。

その年、私は大晦日に家族旅行する計画を立てていたのだが、車が事故に遭い、その修理費に充てるため、計画は中止となった。
旅行に行けないなら、と大晦日はすこし遠方の日帰り温泉にでも、と思っていたのだが、それも私のインフルエンザで中止になったのだ。

そんな風に大晦日の予定が何度も中止となっていく中、まさに大晦日の朝、祖父は亡くなったのだ。

人は、死ぬタイミングを選ぶ、と聞いたことがある。
もしかして、寂しがりやの祖父は、親戚や家族が集まる大晦日に旅立つことを決めていたのかもしれない。
私をインフルエンザにしてまで、遠出する計画を中止にしたかったのかもしれない。少しでも近くにいて欲しいために。

最期まで祖父らしくて、そして、最期に会えなかったことが大きな後悔となり、涙が止まらなかった。
孫の中で私だけが会えなかった。直接挨拶ができなかった。

これが冒頭に書いた「4年間、深く心を突き刺していた出来事」だ。

時間が巻き戻らないことは知っていたが、こんなに重く、辛く、そして罪悪感があるなんて…この時まで知らなかった。

それから私は細かく時間を気にするようになり、5分でも1分でも無駄にせず行動するように心がけて過ごすようになった。
もちろん、その一瞬一瞬に、祖父への罪悪感があった。

祖母との時間。

祖父が亡くなってから4年の間に、祖母はだんだん元気が無くなっていき、心だけでなく体も徐々に弱っていった。

祖母はこの夏に自宅で倒れ、入院した。
今も入院している。

入院してからというもの、祖母の体はさらに弱り、食事もほとんど摂れず、認知症の症状も出てきてしまった。

きっと、祖母はもう長くない。
少しずつ記憶を無くし、体の自由を無くし、意識を無くし…その人生を綺麗に畳んで仕舞っていくようだと感じた。


私は祖父の時のようにならないために、できるだけ祖母に会いに行った。
「ありがとうね、悪いね」と祖母は言うが、全然大丈夫だ。
祖母に今までしてもらったことが心に残っているからこそ、私は今ここにいるのだ。それに祖母に会える事が嬉しかったから、本当につらくはなかった。


祖母の事が心配で、お彼岸の日には祖父の写真に手を合わせ「ばあちゃんを助けて欲しい」と祈った。
写真に写る祖父は「なんも心配しねて、いいて。安心すれ。」と祖母に言っているようだった。もちろん、直接聞こえていないし、私は幽霊の類はあまり信じていないので、それは私の思い込みだったのかもしれないが、その言葉も祖母に伝えた。すると入院期間中で一番祖母らしい、嬉しそうな、照れているような笑顔を見せてくれた。恋する乙女のそれだった。

それから二週間後の祖母のお見舞い。
いつものように話しかけてみる。祖母の目はもうあまり見えていないのか、目が合わず、少し、寂しい。

すると祖母が「ユカリ。じいちゃんが、あんたのこと褒めてたよ。」と弱々しい小さな声で言った。声を出すのもやっとだった。

そして「死んだ人の声が聞こえるなんて、いよいよやばいんじゃ…」と少し背中がザワザワしたが、先述したように、祖母は認知症の症状が出ていたので、今回もその症状のひとつで見当違いなことを言っているのかと思っていた。

祖母は続ける。

「じいちゃんが、ユカリはすごいって。えらいなぁって。」
「ありがとうって、お礼言ってたよ。」
祖父が生前に言っていたことを思い出しているのかと思い、
「え〜?そうなの?ありがとう〜!」と明るく振る舞った。

「お墓参りに来てくれてありがとうって言ってたよ。」

それを聞いた瞬間、私は言葉を失い、なんとも言えない感情に包まれた。
祖母は、まさに祖父から聞いたメッセージを私に伝えてくれたのだ。
(ちなみに、お墓参りには行っておらず。その二週間前のお彼岸に写真を飾ってお参りをしていた。なのでその辺は突っ込まない事にした。)

私は怖がりなので、幽霊なんて信じていない。いないけれど。
この時ばかりはいて欲しいと思った。いると思った。
現金である。

祖父があの世とこの世の境界を超えて私に伝えてくれたのだと、私は信じることにした。

たとえ祖母の認知症による妄言なのだとしても、祖父に赦された気がした。
私はこの不思議なメッセージで救われたのだ。

これは、祖父からの伝言。
境界を超えたメッセージだった。

…そう信じたっていいじゃないか。




自分の時間を生きる。


私はずっと、
祖父に恨まれているのではないか。
祖父を傷つけたのではないか。
祖父に軽蔑されているのではないか。
と、この4年間ずっと自分を責め続けていた。

罪悪感は消えることなく、この4年間、時間を無駄にしないよう生きてきた。手帳には30分単位で予定を書き込み、子どもにも一分の遅れも許さないよう注意をしたりしていた。
1分、1秒でも巻き戻せないのが怖かった。けれど、その几帳面さは、少し苦しかったのだ。

"私が私の時間を生きること"を祖父は赦してくれた。
4年の時を経て、私はようやく私の時間を生きることを、私に許可した。


本当に不思議な出来事だったけど、あの世とこの世で生きる世界が違っていても、それでも私にメッセージとして届いたのだ。
それなら私からのメッセージも届くはず。
私からもメッセージを届けたいと思った事が、このnoteを書くきっかけである。

境界を超えたメッセージ。

じいちゃん、最期に会いに行けなくてごめん。
私がインフルエンザだった事を心配してくれたんだね。
無理して外出しないよう、助けてくれたんだね。
ありがとう。

ばあちゃん、苦しい中、私に一生懸命、伝言を伝えてくれてありがとう。
じいちゃんと少しお話しできたのかな。
嬉しかったかな。嬉しかったならいいな。

二人は最高の夫婦だね!

じいちゃん、ばあちゃんに伝言してくれてありがとう。
すごく心が楽になったよ。
ずっとずっと後悔して、罪悪感にかられて、苦しかったけれど、ようやく解放された…そんな気がするよ。

私も、自分の時間を生きるよ。
精一杯生きるから、応援していてね。

ユカリより。

ごめんね。ありがとう。
このメッセージがきっと届くと信じている。

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