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夢喰いガーデン

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村谷由香里の掌編小説を置いています。すべて独立した物語なのでお好きなものからお楽しみください。
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2017年8月の記事一覧

虹の彼方へ

 五月も暮れの蒸し暑い夜で、梅雨の気配を漂わせる小雨が音も鳴らさず国道を黒く濡らしていた。
 バイパスを脇にそれると、鬱蒼と茂る山の中へ入ることができる。蔦の絡まった錆びた手すりに沿ってしばらく行くと、古い山小屋へ行き着く。
 小屋の脇にしゃがみ、僕は小さなスコップで崩れかけた壁のそばの地面を掘った。昨日まで掘っていた穴は今日の雨で塞がってしまっていて、僕はため息をつく。
「ねえもう、見つか

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Kの話

 思い出せないことが、いくつかある。

 文芸部の友人に、Kという男がいる。彼はいつも部室にいて、難しそうな本を読んでいることが多い。時折パソコンを開いて、小説を書いている姿も見掛ける。わたしたちは文芸部だから、当たり前に小説を書く。わたしは毎月部誌に掲載するための短編小説を書き上げているが、Kは随分長い時間をかけて一本の長編を執筆している。いつ完成するのかと、一度だけ進捗状況を尋ねたことがある

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イクトゥス

 五つ年の離れた兄は全知全能の神様に等しかった。わたしが知る全ての知識以上のことを彼は知っていたし、頭の回転の速さも身体能力も社交性も、わたしが兄に勝てるものはひとつもなかった。何でもできる兄と、凡庸なわたし。別段、嫉妬も何もなかった。兄はわたしの神様である。それだけである。

 兄が魚になったと、農学部から呼び出された。わたしは三コマ目の宗教学特殊講義を欠席して、とりあえず家にあった青いポリバケ

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軋む廊下、五月雨の幻影

 通っていた小学校が、廃校になった。来月には古い木造校舎は取り壊され、新しく公民館が建つそうだ。卒業生なので最後に思い出の校舎が見たいという申請はあっさりと受理され、わたしは当時の同級生、茜と一緒に校舎の中にいる。
「まあ、わたしたちが高校生の頃からそろそろ廃校になるんじゃないのかみたいに言われてたよね」
「十年か。よく持ったよな」
 隣を歩く茜は、一昨日東京からこちらに帰ってきたばかりである。廃

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ゲシュタルト崩壊

 コーヒーを飲むと蘇る、奇妙な記憶がある。
 小学生から大学生まで、ずっと一緒にいた女の子のことだ。
 記憶の中で、わたしは決まって校舎のどこかでしゃぼん玉を飛ばしている。小学生のときは校舎の二階の図書室の窓から。中学生のときは三階の音楽室の窓から。高校生のときは四階の視聴覚室の窓から。大学生のときは五階のゼミ室の窓から。わたしはぼんやりと飛んでいくしゃぼん玉を目で追っていた。
 隣には、いつも

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あと三機

 今までに二回ほど死んだことがある、と、彼女は言った。

 肺炎をこじらせて入院することになった。もともと喘息持ちだったことも手伝って夜中に酷い発作を起こして救急車で運ばれた。一晩経てば随分楽になったが、三日は入院していくようにと医者に言われてしまった。二日目に彼女が見舞いにきた。彼女は白いベッドに顔をうずめて、散々、
「死んだら嫌だよう」
 と泣きじゃくったあと、ぱっと顔を上げると平然とした表情

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ブラックボックス

 彼と一緒に住むようになってから、部屋の中にどんどん不思議なものが増えている。

 彼は拾い魔で、一体どこからそんなものを拾ってくるのだと思うようなものを平気な顔で持って帰ってくる。先週はふらりと散歩に出かけたと思ったら「落ちていた」といってわたしの背丈ほどある大きな観音像を拾ってきた。あっけに取られて「返してきなさい」と言うタイミングを逃しているうちに、彼は当たり前のようにそれを冷蔵庫の横に置

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交錯夏祭

 彼がわたしの地元へ遊びに来たのは、二年間付き合ってきて初めてのことだった。大学二年生の夏休みだ。前期の期末テストが終わってすぐ、わたしは彼を引き連れて帰省した。
 まだ昼の名残をとどめる夕方六時。わたしは歩きなれた道を行きながら、ずっと話をしている。
「あっち側にいくと町の中心に出るんだけどね、こっち側には何にもないの。バイパスのトンネルの向こうにあるのは、この市で一番頭がいい子が通う高校と、浄

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残響

 妹が蛍を見に行きたいとうるさいので、連れだって散歩に出かけた。バイパスを抜けると河川と田んぼがあらわれ、その間を舗装された道が続いている。湿気をはらんだ風が頬をなでて、わたしは顔を上げた。先には山々が立ち並び、黄昏時の仄暗さに、木々の影が黒く浮かび上がっていた。ノイズのように、虫の鳴く声が聞こえる。蒸し暑いね、と妹が呟いた。わたしは頷く。
 道を進んで行くとそのうち田んぼが消え、わたしたちは山の

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黄昏心中

 彼女と旅行に出る時、僕は大抵服の選択を誤った。あなたはいつも薄着過ぎるのよ、と年下の彼女は姉のように笑う。
「大学生の頃、春先に温泉旅行に行った時も、五月の阿蘇山に登った時もそうだった」
 彼女はそう言って、僕の右側にぴったりと寄り添った。彼女の体温は高い。万年末端冷え性の僕は、指先まで血の行き届いた彼女の小さな手の温かさにいつも驚かされる。

 せっかくの新婚旅行だが、お互い時間もお金もなく、

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