Kの話

  思い出せないことが、いくつかある。

 文芸部の友人に、Kという男がいる。彼はいつも部室にいて、難しそうな本を読んでいることが多い。時折パソコンを開いて、小説を書いている姿も見掛ける。わたしたちは文芸部だから、当たり前に小説を書く。わたしは毎月部誌に掲載するための短編小説を書き上げているが、Kは随分長い時間をかけて一本の長編を執筆している。いつ完成するのかと、一度だけ進捗状況を尋ねたことがある。「完成させるという気概が自分にはない」と、彼は答えた。わたしは眉間に皺を寄せる。
「完成させなければ上手くならないよ」
「別にかまわないさ」
「向上心がないね」
 わたしは彼に言う。この言葉をかけられるのを、彼は喜んでいる節があった。
「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」
 そう言うと彼はにやりと笑って「馬鹿だ」と応える。「僕は馬鹿だ」
 彼の名前に、Kの響きを持つ文字はない。それでもわたしが彼をKと呼ぶのは、こんなやりとりを何度となく繰り返してきたからだった。Kはそのうちまた、パソコンに視線を落とす。彼がその小説をいつから書き始めたのだったか。それを、わたしは思い出すことができない。

 夜、眠る前に恋人と話をする。恋人はKの話を気に入っていて、わたしはKと話したことを彼に話して聴かせる。彼も、もともとは文芸部の部員だった。少し前に辞めてしまったけれど、Kのこともよく知っている。
「彼の小説は完成しそうかい」
 電気を消した部屋で、彼はわたしに尋ねた。わたしは首を振り「完成させる気がないそうだよ」と答える。恋人は小さく笑った。
「完成させる気がないのではない。終わらせることができないだけだ」
 前者と後者がどのように違うのか、わたしにはよくわからなかった。彼がKのことを気にする理由も、Kの小説を気にする理由も、よくわからない。暗がりの中で曖昧に笑うわたしの唇に、彼は自分の唇を重ねた。こじ開けるように、生ぬるい舌がわたしの口の中を探る。小さく、息が漏れた。
 肌に触れる手が、熱を帯びる。わたしは声を殺す。痙攣するように身体が跳ねた。右手を彼の背中に回し、その背骨をなぞった。熱い息に、首筋が湿った。
 うっすらと目を開けた。覆い被さる彼の肩越しに、暗い天井が映る。じっと見ていると、喉の奥がすうと冷えるような、嫌な感覚がする。落ち着かない気持ちになる。
 見られているような気がするのだ。真っ暗な天井に二つの目が在って、それがじっと黙って、裸で重なり合うわたしと彼を眺めているような気がする。そんなもの、存在するはずがないのに。それでも――わたしは耐えがたくなって目を閉じた。
 思い出せないことが、いくつかある。
 わたしはいつも何かを忘れているような気がする。突き上げる痛みに押し殺した声を上げながら、不意にまぶたの裏に過ぎる赤い色に戦慄した。それが何だったのか思い出せない。それが酷く恐ろしかった。わたしは何を忘れているのだろうか。もう取り返しがつかないと震えた、あの背中は誰のものだったのだろうか。火照る身体と裏腹に、頭の中は冷え冷えとする。恋人はいつ文芸部を辞めたのだろうか。どうして辞めたのだろうか。耳元で彼が「好きだよ」とささやく。「好きだよ」と記憶の中の声が重なる。あれは、誰の、声だったのだろうか。
 Kはいつから、あの小説を書き始めたのだろうか。

 全てを終えたあと、再び恋人と並んで寝転び、また少し話をした。
「Kって」
 彼は苦笑を漏らすように薄く笑う。わたしは彼の目を見た。暗がりの中で、その目がどんな色をしているのか確認することは難しい。
「昔は僕が、そう呼ばれていたんだ」
 天井の視線は依然として張り付いたままだ。わたしは身体をこわばらせた。彼の白い手を握る。酷く冷たかった。陶器のように固く、冷たい。わたしは小さく悲鳴を上げた。彼はわたしに構うことなく、独り言のようにつぶやいた。
「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」
 そして再びわたしの目を見る。迸る赤。途切れた記憶。
「馬鹿だ」
 蒼白の顔。彼は呟いた。キーボードを叩くような音が、耳の奥から聞こえる。
「僕は馬鹿だ」


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