残響

 妹が蛍を見に行きたいとうるさいので、連れだって散歩に出かけた。バイパスを抜けると河川と田んぼがあらわれ、その間を舗装された道が続いている。湿気をはらんだ風が頬をなでて、わたしは顔を上げた。先には山々が立ち並び、黄昏時の仄暗さに、木々の影が黒く浮かび上がっていた。ノイズのように、虫の鳴く声が聞こえる。蒸し暑いね、と妹が呟いた。わたしは頷く。
 道を進んで行くとそのうち田んぼが消え、わたしたちは山の麓へと辿り着いた。河川は大きく曲がり、道もそちらへ反れている。
 わたしは宵闇にそびえる黒い山を見上げる。ゆっくりと視線を落とすと、蔦の絡まったトンネルが、ぽっかりと口を開けていた。この道は何度も通ったことがあるけれど、こんなトンネルは記憶にない。何かが喉に詰まるような、嫌な感じがした。妹の方を見てみると、彼女は特に訝しむ様子もない。わたしは息を飲んで、中を覗き込む。向こう側に続いていることは分かるが、暗くて確認できなかった。
「入ってみようよ」
 妹は能天気にそんなことを言う。わたしは眉をひそめたまま首を振るが、彼女はお構いなしに足を踏み入れていく。わたしは戸惑い、散々躊躇ったあと、彼女の後に続いた。トンネルの中に入った途端、自分の身体が重くなったことにぎょっとしたが、ただ急斜面になっているだけだった。狭いトンネルの中では、自分の吐く息の音すらわんわんと反響して聞こえる。
「ねえ」
 妹が振り返った。
「出口だよ」
 わたしは顔を上げる。彼女の声がわんわんと響く。その残響が赤ん坊の泣き声のように聞こえて、わたしは口を結んで歩調を速めた。
 トンネルを出た先には、延々と細い坂道が続いていた。道は異様なほど綺麗に舗装され、木々が連なる周囲の景色とは一線を画しているように見える。何にも不思議なことはない。知らないうちに新しい道ができてトンネルが開通していただけだったようだ。安心して立ちつくすわたしをよそに、妹は軽やかな足取りで急斜面を登っていく。わたしは遅れないように、足を踏み出す。
 生ぬるい風が頬を撫で、木々がざわざわと騒いだ。長いスカートの裾が足に絡む。じっとり汗がまとわりつく。曇った空は暗さを増し、深くなる暗闇がわたしの頭上を覆い隠した。妹は振り返らない。わたしの先を進んでいく。夏特有の草と土の匂いが鼻先を掠めた。どうどうと、足元で水の流れる音がする。どうして水の音が聞こえるのだろう。一体どこから流れてくるのか。水流の音に混じって、耳の奥にこびりついた赤ん坊の泣き声のような残響が反芻する。
 この道は、どこまで続いているのだろう。
 顔を上げたその瞬間、はたと思い立った疑問符がわたしの脳裏を掠めた。

 妹って、誰だ。

 強い風が吹く。木々の枝が狂ったように揺れる。
 わたしには、県外の大学に通う姉こそいるものの、ほかに姉妹は存在しない。妹などいないのだ。
 血の気が引く。
 恐る恐る顔を上げて、前を見た。
 ならば、わたしに蛍を見に行こうと言ったのは誰だ。わたしの前を進んで行くあれは誰だ。今こちらを振り返り、どうしたのと笑ってみせるあれは、誰だ。
 風が止み、山が静寂を取り戻した。それなのに、ざわめきが、消えない。
 水の音が響いている。
 わたしは躓きそうになりながら踵を返した。声にならない悲鳴を上げ、転げ落ちるように坂道を下る。坂道は何処までも終わらないように見えた。黒い木の枝がまるで小さな手のようにこちらへ伸びて、揺れている。長いスカートと赤ん坊の泣き声が絡みつく。どうどうと、流れる音が聞こえる。


noteをご覧いただきありがとうございます! サポートをいただけると大変励みになります。いただいたサポートは、今後の同人活動費用とさせていただきます。 もちろん、スキを押してくださったり、読んでいただけるだけでとってもハッピーです☺️ 明日もよろしくお願い致します🙏