虹の彼方へ

 五月も暮れの蒸し暑い夜で、梅雨の気配を漂わせる小雨が音も鳴らさず国道を黒く濡らしていた。
  バイパスを脇にそれると、鬱蒼と茂る山の中へ入ることができる。蔦の絡まった錆びた手すりに沿ってしばらく行くと、古い山小屋へ行き着く。
  小屋の脇にしゃがみ、僕は小さなスコップで崩れかけた壁のそばの地面を掘った。昨日まで掘っていた穴は今日の雨で塞がってしまっていて、僕はため息をつく。
 「ねえもう、見つからないんじゃない?」
  僕は雨ガッパのフードを持ち上げて彼女に言った。彼女は鼻歌を歌いながら動かしていた手を止め、なんて? と小さく聞き返した。聞こえていたのか、いなかったのか。僕はもう一度大きく息をつき、何でもない、と答える。 僕らは毎夜落ち合って、バイパスの土手を息を殺して進み、この小屋へ向かう。誰にも見つからないことが何より大事だ。小学生の僕と中学生の彼女が寝静まった家を抜け出してこんな場所で会っているなんて、きっと知られたら大変なことになるだろう。
  僕は別に、好きでこんなことをしているわけではない。ただ、八年来の付き合いである彼女が一緒に来てくれというから、仕方なく付き合っているだけなのだ。
  僕らは、魔女の靴を探している。
  よくわからないだろう。僕にもわかっていない。彼女が言うには、自分は昔竜巻に乗ってこの世界へやって来て、ここで悪い魔女を下敷きにしてしまったのだそうだ。その時に魔女の赤い靴を手に入れなければならなかったのに、おそろしくなって逃げ出してしまったのだと。
 「あの靴があれば、わたしはもとの世界に帰れるんだ。たしかに靴を手にしてしまったらそのあと冒険が待っているのかもしれないが、まずあの靴がなければ一歩も先に進めない。だから必要なんだ」
  鼻にかかった、早口で聞き取りにくい声で、彼女は僕に説明した。僕はひとつも意味が分からずに首をかしげる。
 「つまり、どういうことなの」
 「わからなかったのかい。つまりはね……」
  彼女は全く同じ説明を繰り返した。きっと何度聞き返しても同じだろうと思って、僕は納得したように頷いた。別の世界からきたなんて、そんなことがあるわけがないのだ。僕は三歳の頃から彼女と面識がある。

  彼女が中学校でいじめられていることを、僕はよく知っていた。彼女は誰にも言わなかったけれど。彼女がおかしなことを言い始めた原因は多分それで、今、彼女は病院にかかっている。そのことが原因でおじさんとおばさんの仲が悪くなって、もうすぐ二人は離婚して、おばさんの実家がある町に彼女が引っ越すことも僕は知っていた。
  その原因は、僕にある。
  長い間仲の良いふりをしていたけれど、僕は姉と一緒になっていつも彼女の悪口ばかり言っていた。僕はずっと彼女が気持ち悪くて嫌いだった。中学生になって、初めて彼女と同じクラスになった姉は、クラスの中心に立って彼女をいじめていた。彼女は、でも、誰にも何も言わなかった。
  悪いことをしているのだとは思う。でも、そう思う心は僕にない。悪いと思うよりもずっと、彼女はいなくなることが僕は嬉しい。でも、何もしないのも心苦しいから、僕はこうして毎夜、彼女に付き合っている。ツミホロボシのつもりである。

  赤い靴なんて見つかるわけがないのだ。次の日僕は、姉の気に入りの赤いエナメルの靴を持ち出して、昼間のうちに小屋のへりに埋めた。雨が降り注ぐ山の土は、ひどくぬかるんでいた。ピンヒールの、大人っぽい靴だった。なくなれば姉は泣くだろう。でも、僕だけがツミホロボシとやらをするのは不平等だ。これくらいは払ってもらっていいんじゃないのか。
  昨日の雨は夕方になってようやく止んだ。虹の彼方には夢の国があるなんて歌を歌ったのは、誰だったろうと思った。僕の耳の奥では、彼女の汚い鼻歌だけがこびりついて不愉快だった。
  僕らはその日の夜も落ち合って小屋へ向かった。降り続いた雨のせいでぬかるんだ土を掘っていく。そして、赤い靴はあっけなく、いとも簡単に、彼女によって掘り起こされた。泥だらけの赤い靴を前に、彼女は茫然としていた。見つかるはずのないものが、見つかってはならないはずのものが目の前にある。その目には喜びよりもむしろ、絶望があるような気がした。
 「帰れるよ」
  僕は言う。吐き捨てるように言う。帰れるものなら帰ってみろよ。お前みたいな気持ち悪い女についてくる案山子もブリキもライオンもいるわけがないんだ。何も始まらない。そんなものがあったって。
  呟くように僕は言った。彼女が僕に何も言えないことはわかっていた。鼻で笑った、瞬間、こめかみに鋭い痛みが走った。スコップで殴られたのだとすぐに分かった。声を上げるいとまもなかった。口の中に泥と血の匂いが満ちる。彼女は何度も何度も、僕を殴る。ぬかるんだ土に手を取られ、バランスを崩し、僕は彼女に反撃をするどころか、起き上がることすらできない。痛みに涙が出てくる。滲んだ視界の向こうで、彼女が立ち上がる。姉の赤い靴を履き、そのピンヒールを、僕の右目の上にかざした。やめろ、と言う。彼女は肩で息をしながら大きく首を振った。彼女は今にも泣き出しそうな顔をして、かかとを三回鳴らした。 


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