軋む廊下、五月雨の幻影

 通っていた小学校が、廃校になった。来月には古い木造校舎は取り壊され、新しく公民館が建つそうだ。卒業生なので最後に思い出の校舎が見たいという申請はあっさりと受理され、わたしは当時の同級生、茜と一緒に校舎の中にいる。
「まあ、わたしたちが高校生の頃からそろそろ廃校になるんじゃないのかみたいに言われてたよね」
「十年か。よく持ったよな」
 隣を歩く茜は、一昨日東京からこちらに帰ってきたばかりである。廃校のことは知らず、けれど知っても静かな反応だった。わたしたちは今年、二十六歳になる。卒業から十四年も経った今、母校に対する郷愁はそれほど強いものではない。
 廊下を土足で歩く違和感と、ちょっとした背徳感に落ち着かない気持ちになった。窓の外では、すすり泣くような霧雨が降っている。五月のやわい緑色を、なでるように濡らす。
 わたしは首から提げた一眼レフカメラで、無人の校舎を撮っていった。カメラは、一昨日茜から譲り受けたものだ。奮発したものだから大切に使えと、彼女は言う。わたしはシャッターを切る。空っぽの靴箱、手すりのさびた階段、雨に濡れる渡り廊下、机が全て撤去された教室。どこもよそよそしく、しかし、確かに懐かしい表情をしている。忘れていたあの当時のわたしが、そこにいて笑うような気がした。これがすべて失われるのは寂しいなと、ようやく思った。

 校内をぐるりと回って、最後に理科室の前の長い廊下にさしかかる。そこは仄暗く、わたしは右手にある照明スイッチをぱちぱちと上下に切り替えてみた。何の反応もない。茜は少し先を歩いていた。彼女が歩くたび、廊下は小さく悲鳴を上げるように軋んだ音を立てる。茜が立ち止まって窓から裏庭を眺めたタイミングを見計らい、わたしは俊敏な動きでカメラを彼女に向けてシャッターを切った。茜はわたし以上に俊敏な動きでピースサインをレンズに向けてから、
「何撮ってんだよ」
 と、眉間に皺を寄せた。
「ばっちりピースしたやつが言う台詞じゃないでしょ」
 わたしは笑う。茜も笑っていた。廊下が軋んだ音を立てる。わたしたちは、廊下から暗い教室を覗き見た。
「理科室も理科準備室も空っぽ」
 わたしの言葉に茜は頷き、
「あー、そういや碧、覚えてる? うちの学校の怪談」
 と、わたしを振り返った。わたしは頷く。そういうことは、十四年越しでもきちんと覚えているものだ。
「理科準備室に女の子の生首のホルマリン漬けが隠してあって、胴体が自分の頭を探して廊下を歩くってやつでしょ」
「そう、それ。小学校の怪談にしたら全然可愛げがなかったよな」
「人体模型が動くとか、ベートーベンの目が動くみたいな夢のある感じじゃなかったよね」
 七不思議なんてものはなかったが、その理科室の幽霊だけはまことしやかに語り継がれていた話だった。わたしは突き当たりの広い教室の方に目をやる。あそこは会議室で、児童会や委員会の仕事があると、よくあの教室で作業していた。
「廊下が軋む音聞いたこと、一回だけあったね」
「ああ、委員会の資料作ってるとき?」
 頷くわたしに、あー覚えてる、と茜は笑った。
 わたしたちは足を止める。途端に、廊下は静寂に包まれた。誰かが自分の首を探してさまよう足音なんて聞こえない。空っぽの理科準備室にはもう、彼女の捜し物は何処にもないだろう。
「ここがなくなったら、幽霊はどうするんだろ」
 つぶやくように言ったわたしに、茜は怪訝な目を向けた。
「だってほら、あれ、地縛霊的なやつでしょ?」
「死ぬんじゃない?」
 茜が答える。適当な返しである。わたしは噴き出した。
「いや、死んでるし」
「もう一回死ぬよ。居場所がなくなったら死ぬしかない」
 彼女はそう言った。わたしは茜にカメラを向ける。真顔のまま、やっぱり茜は俊敏な動きでピースサインを向けた。

 小学生の頃の記憶を思い返すと圧倒的に、廊下で茜と話していたことばかりが浮かぶ。わたしたちが同じクラスになったのは一年生の時だけで、しかしそれ以降、クラスにお互い以上に仲の良い友達はできなかった。わたしたちは授業と授業の間、廊下で話をした。それを、六年間続けた。
 中学生になると、わたしは同じ部活の子とばかり話すようになったし、高校は別々だった。わたしは地元の大学に進んでここに残り、茜は関東の方で進学して、そのまま東京に居付いた。こうして彼女が帰ってきたときだけ、わたしたちは二人で会う。
 わたしたちは十数年前のように廊下に並んで話をした。霧雨が降りかかる裏庭を眺めながら、茜が口を開く。
「今思い返せば、わたし小学生の頃が人生で一番楽しかった気がする」
「えっ、二十六年生きてきた中で? マジで? どんだけ暗い青春時代だったの?」
「うるっさいな」
 茜はひきつった顔でわたしを見て、それからふっと表情を緩めた。
「思い出は遠くなるほどに美しいもんだよ」
 何と応えたらいいのか、わからなかった。わたしは曖昧に笑い、彼女にカメラを向け、シャッターを切る。茜にもらったカメラで、彼女の姿を切り取る。来月にはなくなってしまう校舎と一緒に。
 フィルムを一本、撒き終わる。わたしは息をついた。
「そろそろ帰ろうかな」
 そう言うと、茜はおや、という顔をした。
「わたしはもうちょっとここにいようかな」
 彼女の応えに、マジで、とわたしは笑った。茜も笑う。
「いや、だってさ、四十九日間はこっちにいなきゃなんでしょ? てことはあと四十六日はここにいられるよ」
「なげーよ」
「理科室の幽霊の最後を見届けてやってもいいし」
「いや、家に戻りなよ」
「嫌だよ、辛気臭いのに」
「あったりまえだろーが。お前が死ぬからだろ」
 冗談のように笑って言って、それから、ああ、と思った。
 そうだ、わかっていたのに、忘れたふりをしていた。彼女は一昨日東京の狭いアパートで一人で死んで、自分の葬式のために帰ってきたのだ。わたしにカメラ一台だけ残して。
「碧」
 茜がわたしの名前を呼ぶ。顔を見て笑う。わたしもどうしようもなくなって笑う。彼女が死んでからわたしは、まだ一度も泣けていない。
「なんで死んだんだよ、茜」
 わたしの言葉に、
「いろいろあってね」
 と、はぐらかすように彼女は応えた。ふとさっき、居場所がなくなったら死ぬしかないといった彼女の横顔を思い出した。わたしはもう一度、息をつく。
「写真現像したら、墓参りに行こうかな」
「うちの墓知ってんの?」
 茜は言う。わたしは首を振った。窓の外では、霧雨が降っている。空は明るいのに、絶え間なく降り注ぐ。
「知らない。でもお寺はわかるから、近くに行ったら呼んでよ、碧って」
「もう届かないよ」
 茜は、笑っていた。

 わたしが瞬きをした次の瞬間、彼女の姿はもうどこにもなかった。
 わたしは廊下に一人でいる。軋む音なんて聞こえやしない。カメラに視線を落とした。きっとこのフィルムの中にももう、彼女の居場所はないのだろう。
 窓の外、すすり泣くような静かな雨は、永遠にやまないような気がした。


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