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我々はどこから来たのか?我々は何者か?我々はどこへ行くのか?

サウナにて外気浴で休憩中の時、ふと脳裏にこんな言葉が降りてきました。

我々はどこから来たのか?我々は何者か?我々はどこへ行くのか?

フランスのポスト印象画家「ポール・ゴーギャン」が1897年から1898年にかけて描いたゴーギャンの代表作「D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?」の邦題が「我々はどこから来たのか?我々は何者か?我々はどこへ行くのか?」です。

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『我々はどこから来たのか?我々は何者か?我々はどこへ行くのか?』
<D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?>

ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン( Eugène Henri Paul Gauguin)

サウナ中に思い浮かべる言葉には到底思えない哲学的で宗教的なこの言葉ですが、なんとなく頭から離れずサウナ室でも、水風呂でも、外気浴中でも脳裏から離れず。

そこからスケールはどんどん大きくなり、コロナ時代において、「我々はどこから来たのか?我々は何者か?我々はどこへ行くのか?」を現在の自分とサウナに当てはめて色々と考えてみました。


私はどこから来たのか?

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『黄色いキリストのある自画像』
<Autoportrait au Christ jaune>

ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン( Eugène Henri Paul Gauguin)

我々はどこから来たのか?我々は何者か?我々はどこへ行くのか?」を手掛ける直前のゴーギャンは愛娘アリーヌを亡くし、家から立ち退きを余儀なくされ、多額の借金を抱えた上に自身の健康状態も悪化してしまうなど、失意のどん底にありました。

失意のどん底にある中ゴーギャンは遺書としてこの作品を描いています。

「失意のどん底」といえば私にとっても私以外の人にとっても2020年は絶望感や虚無感を感じた年だったのではないでしょうか?

私は迫りくる20代の終わりが無機質に過ぎ去ることや、コロナ禍で悲鳴を上げ崩壊し出した私の愛するカルチャー、インターネット上に飛び交う人間が持つ毒が表面化された悪意のある言葉の数々、など色々なことを考えてしまって落ち込んだ年でした。

コロナ禍において様々な世界情勢が変化し、多くの常識が変化し、多くの当たり前が失われ、多くの人の夢がや命が消えた…そんな目を背けたくなるような1年は「失意のどん底」と表現しても誇張ではなく過言でもないと思います。

そんな2020年に生きる私は「私は何のためにこの世に生まれたのか(どこから来たのか)」と自問自答をしていました。


そう、サウナ室で。


フィンランドにはこのようなことわざがあります。

『すべての人は生まれてから平等だ。しかし、サウナよりそれを体現できる場所はない』

サウナ室では私たちは平等であり、全てがフラットな空間であることは、安心感と安らぎを感じることができます。

「私はどこから来たのか」

それは答えのない問いです。

少なくとも、私が考えうる中で答えにはたどり着かないでしょう。

ただ、一つ分かるのは「どこからかやってきた私は"平等"であり、"同じ"であるということ」

サウナ室では誰もが同じであり、そこに差異は存在しません。

それは人間本来の本質的な価値観であり、残酷なまでの平等さが自然の道理です。


「人生の長さは一秒にも満たない。その僅かな時間に永遠に向けての準備をしなければならないとは!」

by ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン


私は何者か?

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『タヒチの女たち』
<Femmes de Tahiti>

ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン( Eugène Henri Paul Gauguin)


「私は何者なのか?」

「何を成し遂げるために生まれたのか?

「私は何をするべきなのか?」

これは私が幾度となく自問自答し続けた設問です。

正直な話、私は<自信に満ち溢れていて、夢を持ち、自分のやりたいことが明確で、突き進める人>とは真逆の人間です。

自信を持てず、夢を抱いたことがなく、自分のやりたいことは不明確で、戸惑い怖れ躊躇する人生だったと思います。

そんな自分を変えたくてポジティブに物事を捉えたり、何かに付けて「これは夢だ」と自分の興味の幅を広げ、行動をしてみることを念頭に置くようにしてきましたが、人間そんな簡単には根っこの部分は変わりません。

「私は何者でもない、何にもなれず、何者にもなることがない」

そんな不安を抱いて生きていました。


そんな不安を一瞬でも忘れさせてくれるのが「サウナ」です。


サウナ室にいると体は熱気に包まれて意識は「熱」に向くため細かい雑念が消えてしまいます。

雑念を考える余裕が無い状態となり、その瞬間私は「私」であると感じ取ることができ、ぼやけた輪郭が鮮明に浮かび上がります。

水風呂に入る瞬間には「快楽」が脳裏を駆け回り、雑念が入る隙間を塞ぐことで私は「私」を維持した状態で現実世界へと戻るのです。

時と場合によりますが、外気浴中も風に撫でられた体はリラックス状態になり、無を感じさせてくれるため雑念を感じさせません。

仮に雑念を感じたとしても、サウナで一度スッポリと抜け落ちたため、その雑念を客観的に捉えることができます。


サウナ浴を嗜んでいるその瞬間だけでも私は私であると実感できる。

サウナに入ることで心の調律を行い、自分が自分だと認識することでネガティブな感情と付き合うことができ、本来あるべき姿に還ることができるのだと思います。


「私は何者なのか?」の答えは未だ見えずですが、少なくとも私は私であり、他の何者ではないということだけはサウナが教えてくれました。

まだ何者でもない私は「何かになる」ために今を必死で生きて考えて考えて考え抜いて「何かを成し遂げる」ために今日も朝を迎えます。

「私は、見るためには目を閉じるのです」

by ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン


私はどこへ行くのか

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『説教あとの風景』
<La Vision après le sermon ou La Lutte de Jacob avec l'ange>

ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン( Eugène Henri Paul Gauguin)


コロナ以前から「働く」ことに対して居心地の悪さを感じていて、死ぬまで共に歩むことになる仕事に対して「本当にこのまま今の様な生き方でいいのか?」と思い仕事を辞めました。

「毎日を最後の日だと思って生きよう いつか必ずそうなる日がくる」

If you live each day as if it was your last, someday you’ll most certainly be right.

by スティーブ・ジョブス

この言葉はAppleの創業者スティーブ・ジョブスがスタンフォード大学の卒業式スピーチで言って言葉です。

明日自分は死ぬかもしれない。

今この瞬間が最後の朝かもしれない。

いつ人生に終わりが来るのかは自分にも分からない。けど、その日は必ずやってくる。王様だろうと奴隷だろうと死は平等である。

新型コロナウイルスの世界的流行によって多くの悲しみが世界中に訪れた時、改めて「死は誰にでも訪れる」もので「自分だけは大丈夫。なんてものは存在しない」ということを突きつけられた感覚になりました。

他にも様々な要因が重なり私は仕事を辞めて今に至りますが、結果的に「私はどこへ行くのか?」と悩みは深くなるばかり。

音楽史に永遠に刻まれ続けるロックスターにしてギターヒーロー「ジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix)」は27歳という若さでこの世を去りましたが、その刹那的な生き方に多くの人が影響を受けました。

「死が訪れた時に死ぬのは俺なんだ。だから自分の好きなように生きさせてくれ」

I’m the one that has to die when it’s time for me to die, so let me live my life, the way I want to.

by ジミ・ヘンドリックス


「死が訪れた時に死ぬのは自分」だから「自分の好きなように生きさせてくれ」

私はどこへ向かうのかは分からないけど、それは誰かの顔色を伺う人生を歩みたいのではく、自分に正直になって生きるべきだと今私は思っています。


フィンランドにこんなことわざがあります。

『もし、サウナ、酒、タールさえも効かなかったらその時は墓場あるのみ』

病気や精神的なダメージにおいて傷を癒し安心感と解放感を与えてくれるのは「サウナ」であり、「サウナ」が効かない時は「死」である。という言葉なのですが、この言葉には「サウナが気持ち良いならお前は大丈夫だ!」という明るくてポジティブな側面があります。

「どこに向かえばいいのか分からない」

そんな状態の私でも「サウナ」だけは裏切りません。


まとめ:ゴーギャンの絵画は私の心を燻らせる

ゴーギャンの描く世界は幻想的でありながらもメッセージ性が高く、心にガツンとくるエネルギーがあります。

ゴーギャンは専業画家として転身したのは35歳の頃で、それまでは趣味で絵を嗜んでいました。

時代背景も価値観も今とは異なるため、同じような視点で語ることはできませんが、ゴーギャンの挑戦は現代に生きる私たちにも心打たれる勇気と行動力があり、希望の光のようです。

フランス出身のゴーギャンが生きた時代のパリは正に「文明が発展した都市」でした。

産業革命により生活が豊かになっていく中、自然の景色は失われていき、人間本来の姿は歴史の中へと消えていく時代において、ゴーギャンは原風景を求めて旅をします。

そしてたどり着いたのがタヒチです。

その後、様々な困難や問題が置き、失意のどん底へと突き落とされることになるゴーギャンが遺書として描いた作品が「我々はどこから来たのか?我々は何者か?我々はどこへ行くのか?」になります。


時代は流れ現代では多くの困難が起こり、失意のどん底にいる人もいるかと思います。

我々はどこから来たのか?我々は何者か?我々はどこへ行くのか?

その答えを探すために私は今日も生きようと誓い、いつか終わる人生を楽しもうと決めました。

「サウナが気持ち良いのであれば問題ない」とサウナの神様も微笑んでくれているので、好きなように自分のために頑張ろうと思います。



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