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稽古の記録

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このマガジンは,剣道の稽古やそれに関する記事を集めたものです。自分を向上させていくときに気をつけるべきポイントや,毎日の生活のなかでできることを集めています。
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記事一覧

あれ?なんか変だぞ。

あれ?なんか変だぞ。

剣道の稽古。なにかが変。

打っていくけれど,簡単に返される。なんだか,ふわふわした感じだ。

すぐに,稽古が止まって尋ねられる。「小手の打ち込みはしてきたのか?」。

基本稽古では軽く打てるよう,小手に対して小手面の稽古をした。地稽古では,先週,ああこうやって打つのかという出小手が打てたので,そのイメージで小手をたまに打つようにした。

しかし,ひとり稽古をしていない。

歩けるようになったので

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突きしか打たないひとと稽古。

突きしか打たないひとと稽古。

突きを打つとき剣道の稽古のこと。

先生方が下のわたしたちに突きを打つ場合は,いくつかある。

自分から攻めていないとき

打突時の体勢を確認するとき

中心の意識がないとき

攻めが足りず,打つきっかけがなく,困っていると,先生が突く。納得。

打突の際,腰が残る。腰が入っているかどうか確かめるために,先生が胴に剣先をつける。そこで打突すると,自分の体勢を確かめることができる。感謝。

突きを意

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動作を省略し,複数の動作を同時に行う。

動作を省略し,複数の動作を同時に行う。

最近の稽古で学んだこと。

ある先生と稽古するとき,相面になる。私の打ちは遅れてしまう。

その先生に挨拶にいくと,こうおっしゃる。

遅くなるのは,遅くなる理由がある。それを研究するといい。

なるほどー。

稽古の様子は週に一度録画しているので,それを見てみる。あちゃー,わかった!

左足に重心を移してから,踏みこんでいる。

ここだ!というときに打つのではなく,ここだ!と思ってから,左足に重

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教えの効用:「遠山の目付」はなんのため?

教えの効用:「遠山の目付」はなんのため?


遠山の目付この遠山の目付という教えは,相手のどこをみるべきかという観点で使われることが多い教えです。遠山というのは,遠くにある山という意味です。目付というのは見方という意味です。遠くにある山を見るような心持ちで相手と対峙しないさいという教えです。

この教えの効用はなんでしょう。

多くの場合,相手の打突部位だけに注意するのではなく,相手の全体を見ろというときに使われることが多いと思います。

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鏡を使ったひとり稽古。ビデオカメラではわからないこと,ビデオカメラでしかわからないこと。

鏡を使ったひとり稽古。ビデオカメラではわからないこと,ビデオカメラでしかわからないこと。

剣道の稽古のはなし。特に一人での稽古。

対人稽古で自分が稽古している様子をビデオカメラで撮っています。稽古が終わった後,それをなん度もみるのが好きです。

ビデオカメラではわからないこと

稽古しているときの感覚と,動画をみることで,それを第三者の視点で観察しているときの見え方とではずいぶんちがいます。

なんだか打突の始動が手からになっているなあと稽古している最中思っていても,動画をみると手と

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気持ちがおかしくなりつつあるとき,宇多田ヒカルの曲を聴いている。前兆,前兆。あぶない,あぶない。

腰の椎間板ヘルニアの痛みがでるときは必ず,仕事が恐ろしく溜まっているときだ。溜まっていく仕事に耐え切れなくなっている。そして,完全に動けなくなる。痛みで仕事ができていない。痛みに逃げているとも言える。本当に恐ろしい痛みだが。それほど,心は苦しんでいるのかもしれない。

攻め

攻め

剣先を左右に揺らしてはいけない。上下に揺らして,攻める。

いつも指導をしていただいている先生がそう教えてくださる。

波を打つように。挨拶の順番を待っている,そのひとつ前のひとに,こういう。

「日本選手権の試合を見てみなさい。みんな,剣先を下げ,そして上げながら,間合いに入る。けれども,それができない。みな,左右に剣先を動かして,自分から崩れてしまう」

あ!そういうことか。それで次の日に試し

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なるほど,このための稽古だったのか。

なるほど,このための稽古だったのか。

土曜日は朝から稽古に行くはずだったが,昨夜痛飲したのがよくなかったのか,起きたのが稽古の始まる30分ほど前だった。それで諦めた。

朝に稽古にいけなかったので,夜の稽古に行った。となりの県。

勤務地のある県の稽古で,このところ,ずっと指導してもらっているのが,攻め方。剣先を下げながら,間合いをつめて,すっと剣先をあげる。相手がそれに反応したら,開いているところを打つというもの。最初は上下に剣先を

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苦しい時に苦しい記憶が想起されやすいのは,過去の経験から学ぶよう,そう私たちの心が作られているからではないか。

何か起こりそうだ。ヘルニアになりそうだ。アキレス腱を切りそうだ。そういう思いがすこしでも脳裏に浮かぶときは用心用心。ほっとくと必ず起きる。だから,ケアを忘れない。いつも身体は私たちにメッセージを送ってくれている。もっと素直に。

え!言われるとそうですが,思い至りませんでした。

水曜日の稽古。

「何の稽古をしているんだ!」と激しい叱責。

「面だけ狙ってどうする。小手も胴も突きも空いている。空いていたら,打て!」

左拳で攻める。攻めた瞬間には打てるように,左拳も足も作っている。けれども,面は空いていない。八段の先生に稽古をお願いするときは基本面しか狙っていない。だから小手が空いても,もちろん突きが空いていたとしても打てない。突きなんて打とうとも思っていない。ああ,でも

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先生の強いところを打っていく

先生の強いところを打っていく

木曜日の稽古。並んで先生の稽古を見ている。六段くらいの先生。剣先を相手の突きに合わせて攻める,攻める。たぶん,こころのなかではリズムをとって,攻めた,打てるか,攻めた,打てるか,攻めた,空いた!打つ,そんな心の動きがあるんだろうなと見ている。それでは,僕もああいう攻めで稽古してみよう。先生の打ち気が見えたときが打つときだ。

先生の打つ時と僕の打つ時が同期している。お互い当たらない。これでいいのか

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打てる先生,打てない先生。

打てる先生,打てない先生。

攻めの稽古をしています。いつでも打てる手と足の準備の稽古をしています。

打てる先生もいます。攻めると動く先生です。この先生の場合は打てます。

打てない先生,打ち負ける先生がいます。この先生には中心をとられています。常に剣先が突きに向かっている先生には打ち負けます。打ち負けるのではなくて,打たされているのかな。

なんにしても,いつでも打てる手の作り方,足の作り方は,一人稽古で稽古して,地稽古で

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